9話 笑顔の裏で

 各務遥香の世界は二日にしてまるっと変わってしまった。

 いや、正確には二十四時間も経っていない。

 たったそれだけの時間で、全てが変わった。


 朧佐助。

 それもこれも、全部佐助が原因だった。


 最初は何を考えてるかよく分からない、ちょっと顔が怖い人だと思っていた。

 みんなが言っているように、謎の男だなんて考えていた。

 そんな人が隣の席で、入学してから少し気まずいと思うこともあった。


 ――でも、少しだけ、彼に興味があった。


 遥香はいわゆる箱入りのお嬢様だった。


 父は数万人の社員を抱える大企業の社長。

 祖父はその企業の創業者。


 小さい頃から友人兼お世話係の由宇がいたし、大人の人にも遥香を世話してくれる人は何人もいた。


 かといって、家族と接する機会が少ないなんてこともない。

 母はいつも家にいてくれた。

 父も忙しい時はあったけれど、出張とかでなければ最低でも一日一度は顔を合わせる努力をしてくれているのも遥香は子どもながらに理解していた。


 祖父に関しては本当に遥香を溺愛していて、会う頻度だけなら父よりも多かったのではないだろうか。

 祖母が早くに亡くなって、寂しかったのかもしれない。

 後から分かったことだが、由宇は祖父の伝手で雇うことになったらしい。

 この時代にそんな仕事があるのか、なんて思ったのは遥香が中学生になってからの話だが、そのお陰で最高の友達に出会うことができたのには本当に感謝している。


 それでいて、家から縛られたことはほとんどない。

 門限はあるけど自由に遊びに行っていたし、あーしろこーしろなんて言われた記憶はほとんどない。

 高校は勧められた学校に進んだが、遥香自身が気に入った学校でもあったので迷わずそこに進学した。

 もしかしたら、普通の家よりも自由に育てられているんじゃないかってくらいには、今も遥香は自由を満喫している。


 男の子には、見た目を理由に何度も告白される機会があるくらいに容姿にも恵まれた。

 といっても、人を好きになるってことがよく分からなくて遥香は全てお断りしていた。

 このことを祖父に言うと何故か取り乱して血圧が高くなってしまっていたというのもある。

 告白されたことを聞いてこれなのだから、付き合ったなんて言ったら血管が切れてしまうに違いない。


 友達にも恵まれた。

 由宇はもちろん、学校の友達にも。

 みんな遥香に優しかったし、遥香もみんなに優しくできた。

 下心がある人も中にはいたけれど、あまり関係が深くなることはなかった。

 そういう人は由宇が遠ざけてくれてたのだろうと思う。


 とはいえ、残った友人達は下心がなかっただけで、遥香の恵まれた背景がなければ近寄ってこない人もいただろう。

 そこに文句を言うつもりもないし、その背景が無ければ由宇と出会うことはなかったかもしれないのだから、不満はない。


 ただ、なんだか寂しいな、と思っていた。


 高校生になれば、環境も変わる。

 友人も変わる。

 もしかしたら遥香のことを何も知らない人と出会って、仲良くなれるかもしれない。


 そんな期待が少しだけあった。


 残念ながら、その期待はすぐに裏切られてしまったのだが。


 進学した先は育ちの良い人達の集まりだった。

 遥香もその内の一人なので大きなことは言えないが、似たような境遇の人達からすれば魅力の詰まった学校なんだろう。

 そして、自分がその中でも恵まれた人間なんだと、入学してから思い知らされた。


 誰それはどの会社の御曹司だとか、そんな話を聞くことが多かった。

 遥香自身が話題に挙がることもよくあった。

 正直、遥香はそんな話に興味はなかったし、自分の話をしてほしいわけでもなかったというのに。


 ――だから、謎の男に興味が沸いた。


 佐助は特にみんなが話しているようなことを話さなかった。

 というか、ほとんど誰とも会話をしていなかった。


 最初は席が隣ということもあり遥香も頑張って話かけようとしていたが、これがもう会話にならない。


 遥香が「おはよう」と言えば「おはよう」とだけ。

「ばいばい」と言えば「ああ」とだけ。

「そのスマホケースかっこいいね」と褒めてみれば「そうか」とだけ。

「部活、何にするの?」と聞いてみれば「入るつもりはない」とだけ。


 返ってくるのはほとんど単語で「入るつもりはない」と言われた時は、とうとう文章を喋ったと無駄な感動さえするほどだった。


 だから、クラス会に佐助が来ないと知った時は残念だった。

 何人かで話しかければ佐助のことが少しは分かったかもしれないのに。


 でも、出会ってしまった。

 まったくもって意図しない形で。


 慣れない場所で道に迷って、顔が怖い人達に囲まれて、怖くて逃げることもできなくて。

 そこにヒーローみたいに現れて、助けてくれた黒い人。

 それが朧佐助だった。


 多分、呼び止めなければ顔も見せずにいなくなってたんだろう。

 理由は聞きそびれてしまったが、そこもなんだかヒーローみたいだな、と思った。


 その翌日。

 今度は屋上で襲われそうになった。


 こうして襲われるなんて人生で何度もないことだろうに、それが連日。

 お祓いにでも行っておいた方がいいかもしれない。


 それはさておき、またもや黒いヒーローが助けてくれた。


 颯爽と現れて、昨日と違って今日はちょっとピンチを演出して、でも終わらせる時は一瞬だ。

 本当にヒーローだとしか言いようがない。

 でも、テレビで見るようなヒーローなんていないのは分かっている。

 空想と現実の区別がつかない子どもじゃないんだから。


 この人は、本当に何者なんだろう。

 いつもはぶっきらぼうで、不愛想なのに。

 いや、助けてくれた時もぶっきらぼうだし不愛想だったけれど。


 この人は、本当に不思議な人だ。

 お礼を言っても絶対に受け取らない。

 なんでそんなに頑固なんだろうって不思議になるくらいに受け取らない。


 でも、助けられたのは事実だし、そのままでは気が済まない。

 だから無理矢理にでもと思って頑張ってみた。


 そうしたら、一瞬だけ笑った。


『ありがとう』


 お礼を言いたいのはこちらの方なのに。

 いつもは言わない台詞で、いつもとは違う表情で、笑いかけてくれた。


 それを見て、自分が衝撃を受けていることに気がついた。


 ――ああ、この人は特別じゃなくて、普通の人なんだ。


 この人も笑うんだ。

 ただ、それだけ。

 それだけのことなのに。


 別にヒーローでもなんでもない。

 謎の男でもない。

 ぶっきらぼうで、不愛想だけど、普通に笑う人なんだ。


 そう思った。


 ――私だってそうだ。


 確かに箱入娘だし、お嬢様だし、ちょっとチヤホヤされるけど。


 でも、普通の人だ。


 助けてもらったら嬉しいし、ありがとうって言われても嬉しいし、迷惑をかけてしまったら申し訳ないと思うし、誰かの役に立ちたいと思う。


 同時に、今まですごく失礼な目で見ていたことに気がついた。

 普通に見られたいと思っていた自分が、色眼鏡を掛けていた。


 そりゃあ、ピンチを助けてくれるヒーローはかっこいいし、憧れる。

 でも、中の人は普通の人なのだ。

 それは子どもだって知っている。


 だから、彼と普通に接しよう。


 少なくとも受けた恩は返すし、そうでなくでなくても彼の助けになろう。

 なんでもできそうなこの人に、何ができるか分からないけれど。


 でも、絶対に返すんだ。


 彼からはあまり期待されてないような気がするけれど、やれることを精一杯やろう。

 彼と一緒にいられるように、彼に相応しくなれるように努力しよう。

 彼に期待されるようになろう。


 そう、思った矢先だった。


『期待しておく』


 なんて笑いかけられた。


 それを見て、色んな嬉しさが沸いてくる。


 ――期待されて嬉しい。

 ――また笑顔が見れて嬉しい。

 ――私に笑いかけてくれたことが、嬉しい。


 もっと見たい。

 彼の笑顔を、他にも色んな顔を見てみたい。

 きっと他の誰も知らない顔が、彼自身すら知らない顔が、たくさんあるに違いない。


 ――こんな風に追い打ちしてきて、ずるい。


 笑顔を見て、衝撃を受けて。

 また笑顔を見て、嬉しくなった。


 ここまでたったの二十四時間。

 彼と話した回数なんて、それ以前も含めて数えるくらいしかない。


 でも、世界が変わった。


 変に色がついた景色じゃなくなった。

 なりたい自分が見つかった。

 欲しいものも見つかった。


 たった、それだけ。

 それだけなのに、世界の全部が変わってしまった。


 それも全部、彼のお陰。


 ああ、これは早速ダメかもしれない。


 もう自分を止められる気がしない。


 彼と普通に接するなんて絶対無理だ。


 この感情は、もっと特別なものなんだから。

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