6話 忍者、現る

 旧校舎の屋上に隠れられる建物は一つだけだ。

 それが、給水塔が設置されている場所であり、佐助と依織はそこに隠れている。

 また、そこは校舎内と屋上をつなぐ箇所でもあり、佐助達の足元は人が出入りする場所でもある。


 佐助の耳に届いたのは普段から聞きなれた足音。

 すなわち遥香が屋上にやってきたようだ。


 屋上には周囲を走る車の音や、部活に勤しむ生徒達の声が届いているが、悠長に会話していれば忍者でなくても誰かが隠れていることは分かるだろう。

 佐助は遥香の気配を感じてすぐに会話を打ち切り、依織と静かに眼下の様子を伺っていた。


「誰かいますかー?」


 遥香の声と同時に、鉄の扉をノックする音が響く。

 わざわざノックするような場所ではないはずなのだが、なんとも律儀なものだ。


 佐助も依織も当然返事をしないため、ノックに返事をする者はいない。

 しばらくすると、遥香が半開きのままだったドアを更に開けて屋上へと出てきた。


「…………」


 遥香は周りを見回して改めて誰もいないことを確認すると、フェンスの方へとゆっくりと進み住宅街のある方を眺め始める。

 小声でなら会話ができそうな程度に距離が離れた所で依織の口が小さく動く。


「遥香、来たね」

「ああ」


 依織は声を絞り、見れば分かることを口にする。

 その顔はやや強張っており、少し緊張しているように見える。

 こうして誰かの目から隠れるようなことは初めてなのかもしれない。


「身を伏せていれば大丈夫だ。視界に入りそうな時は注意しろ」

「うん」


 人間の目は一点を見るようにできている。

 相手が探そうと思わない限りは、案外見つからないものだ。


 今は遥香は佐助達に対して背中を向けているし、問題はないだろう。

 これから男が来れば、そちらに意識も向き始める。

 潜伏自体はうまく行きそうだ。


「でね、逢坂おうさか先輩のことなんだけど」

「ああ」

「女癖が悪いっていうか、なんか無理矢理侍らせてるらしいんだよね。うちの生徒も何人か手を出されてるみたい」


 佐助が持っている要警戒リスト。

 そこには逢坂航太の名前も載っている。

 まさしく依織が言及した内容だ。


 リストを見ていた時は、佐助に宿る正義の心が燃えたものだ。

 とはいえ、最優先はあくまでも遥香の安全である。

 害を与えないのであれば捨て置くつもりではあったが、実際に害になるのであれば容赦するつもりはない。


「その話が事実なら、各務が危ないかもしれないな」

「そうなのよ。他にもなんかやばいものに手を出してるとか。まさかうちの学校にそんなあくどい奴がいるとは思わなかったんだけど」


 千城高校は一般的に見れば、お高い私立の進学校だ。

 偏差値も高ければそれなりに学費も高い。


 在学生の多くはどこぞの企業の社長の息子、娘であるなんて話は珍しくもない。

 実際に遥香もその一人だし、依織も毛色は違うがお嬢様なのは佐助も事前に調べているので分かっている。

 要は育ちがいい子どもが多いのである。


 そうした背景もあり、比較的素行が良い生徒が多い学校と評判も良い。

 しかし、残念ながら例外もいる。


「親が権力を持っていると、子の自分にも権力があると勘違いする者も現れる」

「ほんそれ。マジでいい噂がこれっぽちもなかった」


 依織は嫌悪感を隠さず、苦虫を噛み潰したような顔で佐助に同意した。

 その顔から依織の言葉の真実味が増してくる。


「事情は分かった。何かあれば任せておけ」

「ひゅぅ~。かっこいい~」


 依織は口笛を鳴らせないのだろうか、口で音を気の抜ける音を鳴らす。

 今の状況では本当の口笛を鳴らされるのも困るのだが。

 口笛の音は通るので遥香に気取られかねない。


 ともあれ、依織との認識合わせも完了した。

 齟齬もない。


 そしてちょうどその時、屋上へと向かってくる足音が聞こえてくる。


「お喋りは終わりだ。その逢坂が来たようだ――いや、ちょっと待て」

「どうしたの?」

「……複数人いる」


 佐助の耳に届いたのはいくつもの足音。

 正確な数を把握するため精神を研ぎ澄まし、身を更に屈めて冷たいコンクリートに耳を当てる。


「……五人はいるな」

「武術ってそんな万能なの?」


 確かに常人には気配を察知したり、足音で人数を把握するのは至難だろう。

 正確にはこの技術は武術ではなく、忍術なのだが。

 しかし佐助はそこを説明するつもりはないし、今は説明する時間もない。


「なんか、嫌な予感するねぇ……」


 佐助も同感だった。

 高校生の告白に、応援団を連れてくるわけもない。

 少なくとも過去四回にはなかった例だ。


「来るぞ。口を閉じろ」


 佐助の言葉に依織は二度頷いて手を口で塞ぐ。

 そこまでする必要はないが、それを指摘する暇もないので置いておいた。


 五人の足音はやがて止まり、そして一人分の足音だけが再び動き出す。

 いきなり五人で乗り込むということはないようだ。


「待たせてごめん」


 聞こえてきたのは、男にしては甘い声。

 これが逢坂の声なのだろう。


 逢坂は無遠慮に屋上へと出ると、慣れた足取りでまっすぐに遥香の方へと進んでいく。


 逢坂が遥香の元まで行ったのを確認すると、佐助はポケットに忍ばせていたスマートフォンを取り出して操作を始めた。


「ちょっと、こんな時に何してるの」


 いざこれから、という時にスマートフォンをいじり始められれば、依織が注意したくなる心情も分かる。

 しかし、これは重要なことだった。


「念のため動画を撮っておく」


 有事の際、証拠があるのとないのでは大きく違う。

 佐助のスマートフォンは隠密行動時にも使えるようにするため、少し改造していた。

 カメラアプリを起動させ、赤いボタンをタップすると音も立てずにカメラが動きだす。


「持っていてくれ」

「りょ、りょうかいっす」


 佐助の意図を理解したのか、依織は頬を引きつらせながらもスマートフォンを受け取り、カメラを遥香と逢坂に向ける。

 その手が少し震えているのが気になるが、多少の手ぶれは問題なく機械が吸収してくれるだろう。

 スマートフォンのマイクが遥香達の会話を拾ってくれるかは怪しい距離だが、動きさえ捉えてくれれば最低限の役割は果たしてくれる。


「アプリの起動には都度俺の認証が必要だ。アプリを落とさないように注意してくれ」

「ガッチガチやん……」


 今のスマートフォンのセキュリティレベルは非常に高い。

 秘匿性の高い忍者の任務で使える程だ。

 当然ながら、万が一のためにそこかしこで何らかの認証が必要になるように設定されている。


「連絡先教えてもらえる?」

「す、すみません。スマホ今壊れちゃってて、今日帰りに修理に出すつもりだったから代替機もないんです」


 一方で、遥香と逢坂もスマートフォンの話のようだ。

 遥香のスマートフォンは昨晩絡まれた時に壊れてしまったため、遥香の言っていることは事実である。


「千浪、告白する前に連絡先を聞くことってあるか?」

「遥香達の声聞こえるの?」

「ああ」


 依織に遥香達の声は聞こえないようだが、鍛え抜かれた佐助の耳には二人の会話が鮮明に聞こえている。

 昨日のように人の多い繁華街ならともかく、屋上は十分に静かだ。


「会話の流れにもよるとは思うけど……」

「要約すると、お近付きになりたくてここへ呼んだ。今度一緒に遊びたい。連絡先を教えてほしい。だな」

「はぁ? なにそれナンパ?」

「俺もよく分からないから聞いているんだが」


 佐助と依織がスマートフォンのやり取りをしている間、遥香達の方でも会話は存在していた。

 内容は佐助の要約通りである。


 あまりにも過去四回との違う流れに佐助は戸惑い、依織に確認を取ったのだがやはり違和感のある会話のようだ。


「そっか。じゃあこれからでもどう? いいクラブを知っててさ」

「えーと、今日はこれからスマホの修理に行かないとでですね……」


 逢坂は控えめに言って鳥頭なのではないだろうか。

 会話が得意でない佐助ですらそう思うほどに、会話になっていない。


 それにしても高校生がクラブとは。

 逢坂とやらは随分と遊び呆けているらしい。


「そんなに僕と遊びたくないのかな。スマホが壊れたって嘘を吐くくらいだし」

「い、いえ。スマホが壊れてるのは本当なんです」

「そんな嘘を信じろって? 僕を騙そうっていうのも気に入らない」

「ほんとなんですよぉ……」


 加えて逢坂は聞く耳を持たない性分のようだ。

 最初の甘い声とは対象的に、今は語気が荒くなってきている。


 対する遥香も困っている様子だ。

 やや緊張感に欠けているように見えるのは、佐助の隣にいる依織の方がよほど緊張しているからかもしれない。


「千浪、お前の悪い予感が当たりそうだ。雲行きが怪しい」

「えっ、マジで?」

「残念ながらな」


 佐助の言葉を聞いて依織は身体を硬くする。


 依織の顔に緊張が張り付いた所で、逢坂が動いた。

 突如として佐助達の方に向き直り、血走った目を向ける。


「おい! 出てこい!!」

「――っ!?」


 逢坂の言葉に、依織の肩が跳ね上がる。


 瞬時に佐助は依織の上がった肩を片手で押さえ、余った方の手で口を塞いだ。


「大丈夫だ。俺達のことじゃない」


 確かに逢坂は佐助達の方を見ているが、正確にはそのやや下方。

 屋上の出入口を見ているのだ。


「仲間を呼んだんだろう。俺達のことじゃない」


 佐助は依織に言い聞かせるように、同じ言葉で状況を説明する。


 依織は緊張と驚愕を乗せた目で佐助を見る。

 わずかに震えているが、この程度なら問題ない。


 しばしの間、佐助も依織も微動だにしなかった。

 そしてその間、逢坂も動かない。


 唯一動いていたのは、いきなり目の前の相手が怒声を上げたことに理解が及んでいないだろう遥香だけだった。

 遥香の首は逢坂と出入口の二ヵ所をおろおろと往復している。


「もう出番っすか、航太君」


 やがて逢坂と一緒に屋上まで来ていた足音の正体が姿を現した。


 そこに至ってようやく依織も状況を理解できたようで、手で押さえている口元から感じる吐息も落ち着きを取り戻したのが分かる。

 佐助は依織の口を塞いでいた手を戻すと、依織は静かに深く息を吐いた。


「ごめん」

「気にするな」


 自分の過失を謝罪をする依織だが、心中は察せられる。

 結果的に見つかっていないし、今この場で責める余裕もない。


 それよりも、今は遥香だ。


「この子が僕を馬鹿にするんだ」

「そりゃあ、いけないなぁ」

「おしおきが必要っすね」


 新手が続々とやってくる。

 新しい声は一人、二人。


「俺も混ぜてくださいよー」

「楽しみはみんなで分かち合う、だろ?」


 三人、四人。


「え……な、なに? どういうこと……ですか?」


 その様子を見ていた遥香は狼狽している。

 突如として下衆な男達が現れれば当然だろう。


「察しが悪いなぁ。そういう女は嫌いなんだ」


 遥香の様子を見て苛立ちを見せる逢坂。

 その苛立ちをぶつけるようにして仲間へ指図する。


「チェーン掛けとけ!」

「ういっす」


 取り巻きの一人が返事をすると佐助達のちょうど足下、屋上のドアから金属と金属がこすれる音が鳴る。


「これで誰にも邪魔されないっと」


 取り巻きは満足そうに言った。

 しかしこの言葉は、佐助にとってはこれ以上の増援もないことも意味している。


 佐助が事前に察知していた通り、逢坂含めて五人。

 これが敵の数だと改めて認識する。


「な、なにするんですか……」


 逢坂を中心に遥香を取り囲むようにして男達が集まった。


「最初に言っただろう? 僕は君と遊びたいだけなんだ」


 逢坂の言葉に遥香の顔が強ばる。

 この状況で遊びで済むわけがないのは火を見るよりも明らかだ。


「そうだなぁ、とりあえずこっちに来なよ」

「いやぁ……それはちょっと」


 言われた遥香はむしろ後ずさりして逢坂と距離を開ける。


「そういう態度を取るなら、まずは他の奴らと遊んでもらおうか」


 その言葉をきっかけに、見ているだけだった取り巻きの男達が動きだす。

 じりじりと詰め寄り、遥香もそれに合わせて後退する。


 しかし、屋上は広くない。

 やがて遥香の行く手はフェンスに阻まれた。


 遥香は退路がないことを悟ったのだろう、その顔に焦燥と恐怖が滲む。


「ああ、その顔はいいね。僕好みだ。気が変わった。僕が直接やろう」


 逢坂は仲間達を手で制して下がらせ、自らは遥香へと近寄っていった。


 $


 ここまでの様子に、遥香達の声があまり聞こえていない依織もただならぬ気配を感じていた。


 遥香に逃げ場はない。

 じりじりと追い詰められている。

 このままじゃ襲われるのも時間の問題だ。


 依織は背中に嫌な汗が流れていくのを感じた。


 いや、落ち着け自分。

 こういう時のための助っ人だ。


 隣には、付き合いは浅いが頼りになる相棒がいる。

 もう隠れるのを止めにして、遥香を助けてってお願いしよう。

 身体は震えているが、口くらいは動くはず。


「ねぇおぼ……あれ?」


 依織は隠しきれない焦りを吐き出そうとしたが、言葉を最後まで発することなくその感情を霧散させることになる。


「朧っち、どこ行った?」


 助けを求めようとした相手がそこにいない。


 まさか逃げたのか。

 この期に及んで?


 いや、そんな男じゃないはずだ。

 昨日も男三人相手を簡単にやっつけたと聞いたし、今日も常に自信に溢れていた。

 こんなことで逃げるような奴じゃない。


 じゃあどこに?


 この疑問が口から出ようとした所で、その声は確かに依織の耳に届いた。


「そこまでだ」


 声の出処は屋上の中央。


 影より深い黒髪に、センスの欠片もない散切りの頭。


 ぶっきらぼうで、無愛想。

 更におまけで朴念仁。


 背は高くもなければ低くもないし、線は細い。

 なのに、背中だけはなんだか広い。


 大声じゃないのによく通る、人を安心させる低い声。


「誰だお前は? というか、どうやってここに来た」


 逢坂がその声に気付いて影に問う。


「朧佐助。これ以上の悪事は、見逃さない」


 依織の相棒は、いつの間にか表舞台に立っていた。

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