5話 忍者と流星の密会
午後最初の授業であり、本日最後の授業である五限。
佐助は頭を抱えていた。
昼休み、依織に愛の告白が行われる場――つまり旧校舎の屋上に来るように言われた。
話の内容は置いておいて、それ自体は問題ない。
そもそも、依織から告白されると決まったわけでもないのだ。
だから依織に呼び出されたこと自体は一旦置いて問題ない。
そのはずだ。
依織は遥香の護衛にあたり、要警戒リストに載るような人物だ。
まさかそんな相手に好意を告げられるなど想像だにできない。
佐助は男女の機微に疎いが、どんなに考えても佐助が依織に好意を持たれる理由なんて皆無のはずで、呼び出された場所が場所でなければ告白をされるだなんて発想は持たなかっただろう。
屋上で愛の告白をしなければならない、なんて掟があると聞いたこともない。
忍者の世界と違い、表の世界はファジーなのである。
そう思いたい。
しかし、遥香が屋上に呼び出されているという事実は変えようがない。
ある意味で遥香を公然と見守る口実ができたとも言えるが、佐助と違って遥香の方は過去の例に従えば告白されるのだろう。
そこに佐助と依織がいたらどうなるのかなど想像するまでもない。
呼び出した男を応援する義理はないが、人の恋路を邪魔する気にもならなかった。
そして何よりも、影として生きるべき忍者が表立ってターゲットと無意味に鉢合わせる。
こんな間抜けを晒すのは佐助の矜恃が許さなかった。
故に依織になんとかして約束の日程をずらしてもらいたい。
五限が終わればもう放課後になる。
授業が終わり、依織が屋上に行く前に捕まえるしかない。
「朧」
授業を尻目に放課後の段取りを考えていると、不意に佐助を呼ぶ声がする。
その声の主は今授業をしている先生だった。
「はい」
「次のページ、最初から読んで」
佐助はとりあえず返事をして席を立ったものの、何も聞いていなかったので今どのページなのかは分からない。
これは不味い、どうしたものか。
いや、ここは素直に聞いてなかったことを謝るべきだろう。
そこまで考えて口を開こうとした所で、隣からノックのような音がする。
音の出所を見れば、遥香が教科書をペンで叩いていた。
ご丁寧に、ページが書かれている所を。
「結局の所、事実など指の隙間から零れ落ち――」
佐助は疑心暗鬼になりながらも、遥香が示したページの頭から音読する。
遥香が示してくれたページで正解だったようで、最初の段落を読み終えた所で先生から「よし」の声がかかった。
「……恩に着る」
佐助は座りながら小声でと遥香に伝えると、遥香は手元で小さなブイサインを作り花のような笑顔で応じた。
その堂々さたるや、同じ屋上に呼ばれた立場であるのに大きな差があるものだ。
忍者たるもの常に冷静であらねばならない。
佐助は改めて身を引き締めるのだった。
$
そして緊張の五限も終わりが近づいてくる。
教室にチャイムが鳴り、先生が授業の終わりを告げた瞬間に立ち上がって依織を捕まえる。
やることはそれだけだ。
そして、チャイムが鳴った。
「んじゃっ! お疲れさんでしたー!」
「あ、おい千浪!」
先生の声を待つことなく、依織が席を立つ。
先生の制止も聞かず、依織は脱兎のごとく教室の外へ走り去っていた。
これには佐助だけでなく、教室一同は愕然とするしかない。
「……ったく。まぁ今日の授業は終わり。気を付けて帰るように」
先生は呆れているだけのようだが、そこはなんとか繋ぎ止めてほしかった。
あの様子では、依織は走って旧校舎に向かったのだろう。
いかな優秀な忍者と言えど、ここから依織に追いつくのは難しい。
「やられた」
佐助の敗北宣言は放課後を迎えたクラスメイト達のざわついた声でかき消され、誰にも聞かれることはなかった。
「……仕方ない」
ともあれ、こうなってはどうしようもない。
反省点はいくつもあるが、それらを検討していたら遥香にも先に越されてしまうだろう。
今は屋上に向かいながら、これからどうするかを考えるのが先決だ。
佐助は机の上の荷物をそそくさと片付け、遥香がまだ教室に残っていることを確認してから、急ぎ足で教室を出て屋上へと向う。
「いっそ無視を決め込むという手もあるが……」
例えば、遥香にも依織にも気づかれないよう屋上に潜伏し続けるという案。
可能か不可能かで言えば、不可能ではない。
佐助が屋上に到着する頃にはもう依織は屋上にいるだろうが、その依織に気付かれずに潜入し、そのまま潜伏すればいいだけだ。
しかし問題はある。
遥香に万が一危険が及べば、佐助は姿を晒さざるを得ない。
その際、遥香への言い訳は過去四回のために用意したものがあるのでなんとかなる。
しかし、依織にそれは通じないだろう。
依織と遥香は今朝の様子を見るに交流もある様子だ。
下手な嘘は依織を通じ、遥香に正体を露呈することに繋がりかねない。
却下だ。
「各務を呼び出した男を……いや、匿名だったな」
例えば遥香を呼び出した相手をどうにかして、日程を変えてしまう案。
そも相手が分からないし、この短い時間で特定するのも困難だ。
もしかすれば、男も既に屋上にいる可能性すらある。
却下。
「各務を……却下だな」
遥香を屋上に行かせないという案。
行かせない正当な理由が思いつかないので却下。
由宇に頼ってもこればかりは難しいだろう。
思案に耽っていれば、気付けば既に旧校舎である。
気も急いて思考も雑になっていた。
「……正面から行くか」
気が進まないが、仕方がない。
幸い、二人くらいなら隠れられる場所は屋上にもある。
女子に行かせるのは少し憚られる場所ではあるが、依織が逃げさえしなければ佐助にもなんとか説得することくらいはできるだろう。
佐助は覚悟を決めた。
ここから先は慎重に行かねばならない。
依織には佐助の存在を気づかれてもいいが、仮に遥香を呼び出した男に気付かれては問題だ。
「これより、屋上での潜伏を試みる」
佐助は誰にともなく自らの状況を告げ、慎重に気配を探りながら屋上への階段を上る。
誰にも会うことなく、屋上へと続いている鉄製のドアまで辿り着く。
ドアは半ばに開かれていた。
「…………」
屋上から感じる気配は、一人。
依織だろう。
半開きになっているドアから敢えて顔を出すと、依織が建物の陰に隠れるようにして立っていた。
「おっ来たね。こっちこっち。早く」
依織の方も佐助の姿を確認すると、昼休みの時のように佐助を手招きする。
急ぎたいのは佐助もだったので、早々に依織の元へと向かった。
「ちょっとこっち来て」
誘われるままに依織の後を付いていけば、そこには梯子があった。
「給水塔への梯子か」
「そそ。ここ上ってくれる?」
奇遇だった。
ちょうど、佐助が依織を誘導しようとしていたのもここなのだ。
屋上は身を隠せる遮蔽物などほとんどない。
唯一の遮蔽物と言えば、この給水塔が置かれている場所なのだ。
しかし、その梯子の最下部は佐助の顔辺りにあり、足を掛けるのに苦労するだろう。
忍者の佐助にとっては上るのに造作もないが、修練を積んでいない女子にとっては難しい場所だ。
説得の手間が省けたと佐助が安堵していると、依織から湿った視線を感じる。
「まさか、女の子に先に行けって言わないよね」
「……これは失礼」
依織は制服のスカートを履いており、男を下にして梯子を上りたくはないだろう。
その意を察して、佐助は一足で梯子を上る。
「おお~、身軽だね。これも武術なのかな?」
「そんな所だ。手を貸そう」
「ありがと」
佐助は上から手を差し伸べると、依織は素直にその手を取った。
普段から人を取って食おうとする印象の強い依織だが、たまに見せる屈託のない表情は相手の気を緩ませる。
佐助は依織の軽い身体を引っ張りあげながら、一瞬弛んだ緊張の糸を張り直した。
「それで、用件というのは?」
「気が早いなぁ。急かす男はモテないよ?」
「生憎だがその手の欲求は持ち合わせていない」
「ふーん。素材はいいのにもったいない」
依織は佐助の頭から身体にかけてまじまじと見ている。
そう言われても、忍者が他人からもてはやされる利点はなく、むしろ邪魔でしかない。
「で、話とはなんだ」
佐助には世間話をしている暇はない。
手早く済ませば遥香達が来る前に依織を帰らせることもできるかもしれないのだ。
あくまでも話を急かす佐助の様子に依織は肩をすくめて苦笑いを浮かべる。
「ま、いいけどね。朧っちはここがどういう場所か知ってる?」
「生徒があまり頻繁に来る場所ではない。そのため男女の密会によく利用される」
「密会て。いやまぁそうなんだけどさ」
誤魔化す必要はないので、佐助は知っていることを正直に述べた。
「でさ、私と朧っちも密会中。ドキドキ……する?」
「しないな」
依織がここに呼び出した狙いが掴めず、その点で当初は動揺していた。
しかし、先ほど自分で言葉にして佐助は再認識した。
佐助は女子に好かれたい、恋愛をしたいとは毛ほども考えていないのだ。
心の中で佐助は自らの回答に満足していると、一方の依織は不満げに頬を膨らませていた。
「むー。そこまではっきり言われると私でも傷つくなぁ。そんなに私って魅力ない?」
「千浪にはクラスの何人かが好意を寄せているように見えるが」
依織の魅力については佐助に語れることではないため、代わりに魅力を分かってそうな候補を挙げる。
その言葉に依織は目を丸くした。
「えっ、そうなの? というか、朧っちもそういう風に周りのこと見たりするんだ」
「笑って千浪に話しかけているかくらいなら分かる」
「好意のハードル低すぎて草なんですけど」
草が生える――ネットスラングで笑うという意味だったか。
その割には依織の顔は笑っていないし、目も鬱々としているが。
砕けた言葉は難しいなと佐助が考えていると、依織が気を取り直したように言った。
「ともかく、ここはよく告白に使われる場所なんだよね。で、実はこれから愛の告白が行われる予定です」
「話というのはそれか?」
告白が行われる予定自体は佐助も知っている。
まさか依織もそのことを知っているとまでは思わなかったが。
「そういうこと。ちょっと気になってね。朧っちにも見てほしいんだ」
「……趣味が悪いな」
依織に呼び出されなくても佐助は告白現場を見守る予定ではあったのだが、自分のことを棚に上げて言う。
少なくとも、任務がなければ積極的に見たいとは思っていない。
「呼び出した人が少し気になるのよ。ちょっと評判の悪い先輩でね。で、呼び出されたのが我らが遥香ちゃんなのです。だから万が一のために武術家らしい朧っちに声を掛けたというわけ」
佐助は武術家ではなく忍者なのだが、それは置いておこう。
佐助は依織の言葉に驚いたものの、努めて表情に出さないようする。
なんと依織は遥香が呼び出されたことも、佐助が知らない遥香を呼び出した男のことも知っているらしい。
積極的に調べなかったということもあるが、佐助が知らないことを知っているというのは中々の情報収集能力だ。
「淡白な反応だねぇ。遥香といえば、クラスのアイドルなのに」
「いや、十分に驚いている」
アイドルだからというのはよく分からないが、依織の情報収集能力の高さにちょうど驚いていたのは違いない。
しかしそうとなれば、佐助も小言が言いたくなった。
「それならそうと言ってくれれば、余計な気を揉まなくて済んだのだが」
「他人が告るのを一緒に見てほしいってちょっと言いにくかったんだよ。正直私も趣味が悪いと思うしね。ま、これ思いついたのは昼休みに話してる時で、本当は一人で来ようとしてたんだけど」
「俺が来なかったらどうするつもりだったんだ……」
「いやあ、その時はその時だよ。朧っちは義理堅そうだったから、来ると思ってたけどね」
粗のある計画に佐助は閉口してしまうが、依織は片目を閉じて舌を出し、なんともないように言った。
「しかし、それなら本題は別件か?」
確かに昼休みの話では、明日以降でもよさそうな口振りだったことを思い出す。
「んー? 内緒」
「なんだそれは」
「いや、今日のこれからを見れば目的の一つは達成できる気がするから、これはこれで本題だよ」
「よく分からんな」
「まぁ女の心は海よりも深いってことで」
佐助は最後の言葉に余計分からなくなるが、これ以上追及しても無駄になりそうなので引き下がることにした。
「にしても、気を揉んだって。やっぱりちょっと期待しちゃったのかなぁ?」
「どんな話かとは考えたが、期待はしていない」
「むー」
依織は口を三日月にして小悪魔的な笑顔を浮かべるが、佐助の回答を聞いて即座に不服そうな顔に変わる。
「期待してほしかったのか?」
「その仏頂面が照れる所は見たかったかもね」
「いい性格だな」
「どうもありがと」
当然褒めてなどいないのだが、依織は満面の笑みで佐助に返した。
「ところで、各務を呼び出した男について聞かせてくれ」
「あー、そうだね。
学年は一つ上だが、それなら佐助も知っている。
佐助が作成した要警戒リスト、そこに逢坂航太の名前があるからだ。
確か――
「ちょっと女癖の悪い人らしくて――」
「む、ちょっと待て」
依織の説明と記憶の答え合わせをしようとした所で、佐助は依織の口を遮る。
「人が来る」
聞き慣れた足音が、佐助の耳に届いた。
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