第2話 帰省
実家は五階建て公団団地の三階。
優子は盆休みになり、一人で里帰りしていた。
扉を開けた瞬間、懐かしい匂いが鼻をかすめた。
昔と変わらない団地の空気。
それなのに、自分の居場所が少しずつ遠くなっているような気がした。
大学に進学する際に故郷を出てから久しぶりに帰ってきたので、四年ぶりということになる。
「こっちには帰ってこないのかと思ってたわ」
コップに麦茶を注ぎながら優子の母親が頬を緩ませる。
笑顔、というわけではないのを優子は苦しく思った。
「……いつも母さんらがそっちに行くものね」
そうね、と優子は答えた。
差し出された麦茶に口をつける。
口に含んだ瞬間、違和感が走った。
こんなに不味かったっけ?
それとも、都会の水に慣れたせいで、懐かしいはずの味が遠のいてしまったのだろうか。
喉を通るたびに、帰ってきた実感と、どこかにこびりついた違和感が交錯する。
「母さん、車貸してくれない?」
「あら、何処かに行くの?」
優子は不味さにコップをテーブルの上に置いた。
確か、階段を降りてすぐの所に自動販売機があったはずだ。
四年前にはなかった自動販売機。
「
優子がそう言うと母親は、そう、と小さく頷いた。
「おかえり、ゆうちゃん」
「ただいま、れいちゃん」
麗子はにっこり笑っていたので、優子も同じ様に返した。
麗子のさらさらした髪は、長くて茶色がかっている。
染めたわけではなく自然の茶色は熱い陽射しに照らされて綺麗だった。
真っ直ぐな前髪の下に見える丸い瞳は、見つめていると吸い込まれそうだった。
昔は私もこんなだったのかもしれない、と優子は思った。
大学進学を機に、長かった髪を短くした。
軽くパーマをかけて、髪の色も金に近い茶色にしている。
麗子の茶色への憧れだった。
自分はもっと綺麗な茶色にしてみたかった。
美容院で染めてもらった時、鏡に映る自分を見て胸が高鳴った。
麗子の髪よりも明るい、洗練された茶色。
都会の風に馴染んでいる気がした。
けれど、時間が経つにつれ、それがただの着色料にすぎないことを思い知らされた。
伸びてきた黒い根元が、まるで本当の自分を暴き出すようで、時々、鏡を見るのが怖くなった。
車に乗り込む、優子は運転席、麗子は助手席。
優子はシートベルトを締める際に、麗子の服装に目をやった。
胸に花の飾りのついた白のフレアワンピース。
私にはそんな乙女っぽさがなくなったな、と優子は思った。
白のブラウスに、黒のスカート。
バックミラーに映る、どこか落ち着きすぎた自分の服装にため息が出た。
「それで何処へ行くの、ゆうちゃん?」
「……何処へ行きたい?」
問い返されて麗子は首を傾げる。
優子はそんな麗子を黙って見ていたが、一向に返事が返ってこなかったので決めていた場所を提案する事にした。
「ねぇ、服を買いに行こうか?」
「うんそうだね、それがいい」
麗子はにっこり笑って頷いた。
昔と変わらないその笑顔に優子は懐かしさを感じた。
いつだって麗子は自分の意見を濁したまま、優子の意見にこうして笑って従ってくれる。
自分の意見は無いのかと、時には腹ただしく思ったりもしたがそれが麗子の優しさなのだろう。
車を発進させる。
実家に帰るために駅から乗ったバスの風景には、見知らぬ建物が多くあった。
四年という月日はこれほど街を変えるものなのだろうか、と優子は驚いた。
実家の近くに総合スーパーができていた。
徒歩で行っても十分程度なので、徒歩でも良かったが例年を上回る気温の夏の陽射しと最近の突然の激しい雷雨を避けて車を選んだ。
優子は躊躇うことなく冷房を効かせた。
優子が故郷を出ていってからそれほど経たずして総合スーパーは建ったのだと、母親から聞いた。
そういわれれば、かつてその土地には廃業したのか、移転したのかは定かではなかったが、使われなくなって大分と経っていた大型倉庫があつた。
優子がまだこちらにいた頃にはその所有権を巡っての噂がちらほら聞こえていた、ような記憶がある。
確かその周辺にある小さな商店街と食品スーパーとが、大型倉庫の所有権、いやきっとその広い土地の所有権を争っていたのだろう。
細かい話はわからないし、なぜどこかの会社の土地を商店街と食品スーパーが争っていたのかも定かではないが、そういう噂があったことはおぼろげながらに覚えていた。
その奪いあっていた両者は今は見るも無惨な姿であった。
食品スーパーは看板の取り外しをまだ出来ていないものの、全面シャッターが降りていて完全廃業状態。
商店街はお盆なのもあるかもしれないが、どの店も閉まっていた。
看板すら無い。
結局、どちらも総合スーパーに飲み込まれたのだろう。
かつて活気のあった商店街は、今はただの廃墟のようだ。
シャッターの隙間から覗く暗がりに、昔買い物をした記憶がぼんやりと浮かんでは消える。
時代の流れ、という言葉で片付けられるのかもしれない。
けれど、優子の胸には、取り残されてしまったような、言葉にできない寂しさが広がっていた。
小麦色に日焼けした警備員の誘導で、車は総合スーパー専用の立体駐車場を上がっていく。
こんなに暑い中でも長袖の制服で働く警備員を見て、優子は、お疲れ様です、と呟いた。
その声は届いていないだろうが、警備員はにこりと笑って会釈していた。
ほぼ満車に近い駐車場に停めるのは苦労した。
助手席でにっこりと笑ったままの麗子は、そんな優子の苦労を感じ取ってはいない様子だ。
「ゆうちゃん、車運転できるんだね」
「今さら、そのセリフ言うかなぁ」
麗子はワンテンポ遅れがちである。
でもその遅れがちな気の抜けた部分が、見た目と相まって可愛いに繋がっているんだと優子は思う。
優子は逆に急ぎすぎるんだと言われる事がある。
でもその急ぎがちな部分は慌てん坊なんて優しい解釈は無くて、気の強い女だと貶されたような評価をされることが多い。
「ゆうちゃん、早く行こうよー」
気がつくと麗子が足早に立体駐車場と総合スーパーを繋ぐ通路の前に向かっていた。
いつもワンテンポ遅れがちな麗子が、今は先を行っている。
振り返った麗子の笑顔がまぶしくて、一瞬、時が巻き戻ったような気がした。
まるで、昔の私たちみたいだ――そんな感覚を振り払うように、優子は苦笑して駆け出した。
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