吠える雷雨に獣は沈む

清泪(せいな)

第1話 口論

 

「わかった、わかったから、そう怒鳴らないで」


 電話越しの相手に優子ゆうこもそう怒鳴るように返す。

 左手に持つ携帯電話に力が入る。

 今すぐにも電源を切りたかった。

 右手を額に当てて、そのまま乱した髪をかきあげた。

 天辺、つむじの辺りでかきあげた髪をギュッと掴んだ。

 優子の幼い頃からの癖で、考えがまとまらない時や怒りがおさまらない時にやると頭がほんの少し冴える気がした。


 時計の針の音、冷房の音、そして電話越しの男――貴史たかしの声。

 優子の自室に聞こえる音。

 左耳にこびりつく貴史の声に、優子は頬を強張らせていた。


 どちらが悪かったのかなどわかりきっていて、それでいてわからなかった。

 確かな答えはあるものの、だからといってそれが何かを解決するわけでもなかった。


 別れよう、と切り出したのは優子だった。

 唐突に何を言い出すんだ、と貴史は怒鳴った。

 唐突という言葉を使ってはいるが薄々は感づいていたのだろう、と優子は思う。

 感づいていたから必死になって止めたくて怒鳴っているのだろう。


 盆休みはどうするんだ?、と電話をかけてきた貴史が開口一番聞いた。

 それが、きっかけだった。


 特に予定を立てていなかった優子は、貴史と何処かに出かけるのも悪くはないと思っていた。

 付き合ってもう十年になる。

 十二歳という幼い恋心から重ね続けた愛。

 その愛が最近では上手く重ねられなくなっていた。

 長くなったお互いの関係が、マンネリと甘えを生んで身体を重ねるどころか言葉を交わすことさえ上手くいかなくなっていた。


 相談の末に一旦距離を置いたのは間違いだったのかもしれない。

 互いの個人としての自由を尊重することは、自身の自由に堕落することに近かった。

 距離は望んだ位置より遠くになっていた。


 盆休みはどうするんだ?、と貴史の声が二度、優子の頭に響いた。

 そして、浮かび上がったのが優子と貴史の故郷であった。

 都会とも田舎とも呼べない小都市の風景。

 不意に懐かしい故郷の香りが鼻を触った。

 急激に吐き気が込み上げてきた。


 吐き気を抑える為に、台所に行き冷蔵庫を開け中から500mlペットボトルのミネラルウォーターを取り出した。

 飲みかけのまま入れていたので、キャップは人差し指と親指で捻るだけで開いた。

 携帯電話を顔の傍から少し離し、口にミネラルウォーターを流し込む。

 冷たい水が喉元を通りすぎ、少し吐き気が治まった。


 再び携帯電話を耳元に近づけると、貴史がどうしたのかと心配していた。

 優子は小さく息を吸いゆっくりと吐いて、そして、別れる意思を口にした。


 貴史は最初は戸惑いながらも冷静さを取り持っていた。

 何故そんな事を言うのか?

 何故別れなければならないのか?

 繰り返す貴史の質問に優子は曖昧に返事を返した。

 今さらそんな事を答えなければならないのか?

 今さら、懺悔を告げなければならないのか?


 曖昧な返事に痺れを切らし、ついには貴史は電話越しに怒鳴り出した。

 貴史の声の奥からは車や雑踏の音が聞こえる。

 きっと外にいるのだろう。

 なりふり構わず怒鳴る貴史に、優子は再び吐き気が込み上げてきてテーブルに置いてあった薬を手にとり口に放り込んだ。

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