112.心の対比
グレスは極めてゆっくりと、もったいぶるようにして歩を進めてきた。いちいち神経に障るやつだ。
「――う……?」
ただならぬ空気の影響なのか、ルシアが目を覚ます。さて、起きたときの彼女は夢想状態か、あるいは元のしおらしい姿か……。
「……な、なんなのっ、あの変な男! スピカも一人で戦ってるし、セクト、バニル、これは一体……」
「……」
夢想症だったな。でもやっぱりルシアはこっちのほうが馴染みがあるせいか落ち着く。もう一方の顔も捨てがたいが。
「って、ミルウ! なんであんたがあたしの膝の上で勝手に寝てんのよっ!」
「あふっ!?」
ミルウまでルシアの張り手で目覚めてしまった。
「ふふっ……」
でもそれでバニルが笑ってるし、ルシアの夢想症のおかげで重くなっていた気持ちが軽くなった気がした。
「ふんふんふん♪ お行儀よくしましょうねぇ」
「……」
スピカの一言は、ボスに向けられたものなのか、あるいはルシアたちに向けられたものか、はたまた例の男に向けられたものだったのか……謎を広げてしまうほどグレスはすぐそこまで迫っていた。
「ルシア、俺を狙うパーティーのボスが来たんだ。俺たちが戦えなくなって、スピカにダンジョンのほうのボスを任せてる間に……」
「なるほど……って、それって大ピンチじゃないの! なのになんでセクトもバニルも笑ってるの!?」
「ルシアのおかげなんだよなあ」
「うん、ルシアのおかげだね」
「え、ええっ……?」
夢想症のルシアは、不思議そうにするまばたきにも勢いがあった。
確かに大ピンチなんだが、逆にこれで色々と開き直れるような気がした。ルベックが一人で突撃してきたときは正直浮足立ってたものの、今はこういうどうしようもない状況でも笑うことができる。それくらい成長したってことだ。
また、苦境なのに笑うことで何を考えてるのかと相手に疑問を抱かせることができるかもしれないし、牽制にだってなりうる。
「――ゴミセクトぉ、久々だなあぁぁ……」
「……」
早速ゴミ呼ばわりか。いつもクソ扱いしてくるルベックもそうだが相変わらずだな、こいつらは……。
「久々だな、グレス」
「グレス様と呼べぇ……ひひっ……」
「ちょっとあんた、何よさっきから人をゴミ呼ばわりしておいて、自分は様付けしろって何様のつもり!?」
ルシアが、ビシッとグレスに人差し指を向けてくれたので非常に痛快だった。
「……何様ぁ? グレス様だぁ、ボケぇ……」
「な、何よあんた。喋り方も変だし、格好だって汚いし、ゴミはあんたのほうでしょ!」
「ルシア。喋り方を指摘したら気の毒だ。こいつはな、いじめで舌を少し切られてるんだよ」
「え、ええっ……」
ルシアもドン引きの様子。舌切りなんて目じゃないくらい、こいつは惨いいじめを受けている。だからこそここまで歪んでしまったともいえるが……。
「ゴミセクトぉ……片目と右手と歯を何本も失ったお前よりは遥かにマシだろぉぉ……」
「そうだな。でも、心の中は違う。お前たちはもう矯正不可能だ」
「……心の中は違うぅ。キリリッ……」
グレスがおどけたような仕草をしたが、当然ここで笑うやつは一人もいなかった。
「グレス……お前、昔はそんなやつじゃなかっただろ」
「……何が言いたいぃ。許しを乞うつもりかぁぁ……」
「つまりさ、グレス。お前は自分をいじめたやつらに食われちまったんだよ。心を……。だから俺が助けてやる。あの世に送ることでな……」
「やってみろぉ、ゴミセクトぉぉ……」
「あっさり殺すなんてつまらないからな。今は様子見だ。あんたもそうなんだろ?」
《成否率》だと、やつが俺たちのいずれかに襲いかかってくる確率はゼロに近い数字だった。
「ゴミセクトからそんな勇敢な台詞が聞けるなんてなぁ……いい手土産になるうぅ……」
グレスはにんまりと笑うと、俺たちに背を向けた。
「ゴミセクトぉ……今のうちに自殺したほうが楽だぞぉ……。ひひっ。さすがにそこまでの勇気はないだろうがなぁ……」
「あんたらもな」
「ひひっ……みんなにも伝えておいてやるうぅ。それも笑いの種になるからなあぁぁ……」
グレスが愉快そうに笑い声を撒き散らしながら引き上げていく。
「……」
やつが無意味に挑発するためだけにここに来たとは到底思えない。きっと何かほかに理由があるんだろう。
「……もー、なんなのよあいつ! セクトもあいつにもっと酷いこと言ってやればよかったのよ! キイィィッ!」
ルシアだって、グレスにもっと罵声を浴びせることはできただろうに、言わなかったのは俺の口からのほうがいいと思って遠慮していたからだろうな。けど、今はやつの悪口に腹を立てて汚い言葉で応酬するより、何故やつがここに来たか、その意味を冷静に考えたほうがよさそうだ。
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