54.心を洗うもの


「おお……」


 が今日から俺の部屋になるのか……。


 夜の刻、俺は宿舎一階の奥にある自分の部屋――元客間――まで来ていた。バニルの提案でここは俺の部屋として利用されることになり、広間が客室代わりとなったのだ。


 スピカによって隅々まで片付けられ、ベリテスが作った俺専用の立派なベッドが置かれ、その枕元でルシアから貰った子熊のぬいぐるみが監視するように俺を見ていた。


 さらにバニルが頑張って作ったという、少し傾いてる丸い一本足のテーブルには、ミルウの手作りクッキーが入った袋が置かれていた。


 修行する以前に貰ったやつで、夜食にどうぞってことらしい。これが美味しいから一度食べ出したらやめられなくて、同じように配られてる女性陣の間では太らせるための謀略として恐れられてるとか。確かに俺も最近少し太った気がする……。


「――ふう……」


 さぼっていた一日の訓練を急ぎ足で済ませ、俺はベッド上でクッキーを少しずつ齧りながらランプの吊り下がった天井を見上げていた。


 頭の中にあるのは、ベリテスから言われた最後の修行の内容だ。俺はてっきり、対人修行ってことでどこか人の多いところにでも行って見世物か何かをやらされて胆力を鍛えるのかと思ったが、そうじゃなかった。


 逆にというものだった。当然接することもダメで、目を合わせることすら禁じられた。手紙による簡単なメッセージのやり取りくらいはOKということだが、明日が終わるまで我慢すればいいだけだし何か伝えるつもりもない。


「……」


 とても静かで、時間がやたらとゆっくり流れているように感じる。


 最初は偉く簡単な修行だと思ってたが、これが意外ときつい。ベリテスによれば、これは心の断食であり洗濯でもあるのだという。食を断つことで胃の状態を一度リセットするように、心の状態を真っ白にする効果があるとかなんとか。人にとって急に孤独になることほど辛いものはないということか。


 確かに、これがずっと長く続けば自分が何をしているのかすらわからなくなるかのようだ。自分が何者であるかさえもわからなくなりそうで怖い。こんな短時間ですらそう思うんだから、自分がいかにちっぽけで脆い存在なのかを再認識させられる。


 何年も人里を離れ、岩の壁と向き合って悟りを開いたという元冒険者もいたそうだが、そういうのは俺には難しそうだ。


「……はあ」


 無意識に溜息が零れる。いつしか、何かをスキルに変えようなんていう気持ちさえも消えてしまっていた。あれだけ楽しみにしていたのに、なんて滑稽な話だろうか。


 訓練が終わった今、《スキルチェンジ》以外にやることなんて何もないのに、何もかもが虚しくなってきてやる気が起きない。これじゃ、プレッシャーを感じている状態のほうがまだマシだ。


「あっ……」


 俺は思わず上体を起こしていた。そうか、なんだな。今まで自分がいかに恵まれていたかがわかる。


 今までは部屋にいるだけでルシアの暇潰しの遊びに付き合わされたり、スピカがちょくちょく散らかってないか覗きにきたり、バニルが感動するから読んでと本を持ってきたり、ミルウが一緒にお風呂に入ろうと誘ってきたり……それが全部なくなって、急に俺はこの世界で独りぼっちになってしまったような感覚に襲われた。


 自分は今まで一人だけで生きてきたんじゃなく、周りに生かされてきた一面もあったんだと気付かされる。そのありがたみを知るのと同時に、当たり前にあるものじゃないことがわかると途端に孤独が友達になっていくような気がした。


 これなら、どんなときでも平静な気持ちを保てるんじゃないかと思える。ベリテスはこの事実に気付かせることによって心を鍛えようとしていたんだろうな。


「……」


 意図を理解した途端、なんだか急激に眠くなってきた……。


「――う……」


 俺はいつの間にか眠ってしまっていたようだ。窓の外はまだ暗い。目を何度も擦って石板で確認するとやはり夜の刻だった。


「ん?」


 トイレに行こうとしてドアを開けようとしたときだ。足元に何かぶつかったので見ると、水晶玉やらリボンやら首輪やら手鏡やら、色んなものが扉の前に置かれていた。


 きっとバニルたちだ。俺の《スキルチェンジ》のために、わざわざ持ってきてくれたんだろうな……。それだけ人との交流に飢えていたのか、俺はいつも以上に彼女たちの気持ちが伝わってくるようで、油断したら涙が出そうになるくらい嬉しかった。


 ん……紙切れが置いてある。何が書いてあるんだろうとドキドキしながら見ると、『どんなスキルになったかあとで教えてネ♪ 一同より』とあった。


 ……なんだか、急にやる気が出てきた。やっぱり俺って複雑なようで単純だ。

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