18.小さな煌めき


「……起きろ……セクト……」


「うっ……!?」


 顔に冷たい感触がして飛び起きる。


「ざ、ザッハ……?」


「……フフッ……」


 桶を持った長身の男ザッハが前屈みでニヤリと笑う。俺はあの汚い水をかけられたのか。道理で異臭がするわけだ……。


「ようやくお目覚めですか、セクトさん」


「おう、セクト。おはようさん!」


「……」


 その後ろにはランプを持った長髪の男ピエールと、鍵をくるくると指先で回す小柄な男アデロもいた。一様に薄気味悪い笑みを浮かべていて俺は緊張する。闇を映す窓を見てもわかるように、まだこんな暗いうちから俺に一体なんの用事なんだ……?


 今いる俺の個室は一人しか眠れないくらい狭くて、それも膝を折り曲げないと足が扉に当たるほどだった。その上、壁が薄いのか騒ぎ声やら豪快ないびきやらで寝るのに時間がかかったというのに、こんな早くから起こされるなんて。


「こんな時間に一体――」


「――ああ!? おめー新入りのくせに口答えする気かよ!」


 アデロの大声で耳鳴りがする。


「そ、そんなつもりは……」


「だったらさっさと湖に水を汲みに行けアホ! それが新入りの仕事だ! おめーが浴びてわかったように水が汚れてるんだよ!」


「アデロさんの言う通りです。はあ……さっさと行くのですよ、お間抜けさん」


「……行け、カス……」


「うがっ、がはっ!」


 アデロ、ピエール、ザッハの三人から立て続けに足蹴にされる。それ自体は正直大したことがなかったが、否応なく崖から落とされたあの日が浮かんできて、俺は胸元を襲う激しい痛みに頭がおかしくなりそうだった。


「――わ、わかった……。わかったからもうやめてくれ……」


 フラフラになりながら立ち上がると、みんなにこやかに俺を見ていた。


「……く、くうぅ……」


 やつらを見てると狂気が忍び寄ってくると感じる。


 自分より下だと思う者――奴隷――を見るとき、人は決まってみなこういう顔をする。本当に愉快そうな表情を浮かべる。奴隷が少しでも生意気だと思えば、途端に豹変して全力で踏みにじろうとする。どんな手を使ってでも。それこそが人間なのだ。


「……」


 そんなものを信じようとする俺はとことん甘いのかもしれない。ペンダントを握りしめる手が震えた。これを外せば、俺は楽になれるんだろうか……。






「――湖はあっちの方角だ! 間違えんじゃねえぞ!」


「早く帰ってこなければまたボコりますよ」


「……急げ、無能……」


「……」


 俺は桶を手に、背中に罵声を浴びながら暗い森を歩く。結局ペンダントを外すことはできなかった。人間の本質なんてわかりきってるのに。


 お人よしは死んでも治らない。奴隷は一生奴隷……。そんなネガティブな言葉が脳裏に浮かぶも、必死に振り払う。


 仮に俺がバニルたちにとって都合のいい道具に過ぎないと判明しても恩を返すつもりだ。それからは一人で生きていく。それに、どうこう言いつつ俺も汚い人間の一人なんだ。あれだけ俺に尽くしてくれたバニルたちを疑ってるわけだからな……。


「――はぁ、はぁ……」


 おかしい。歩いても歩いても湖に辿り着けない。それどころか、森は深くなっていくばかりだ。


 まさか、あいつらに嘘をつかれたんだろうか。こんなに朝早くから水汲みってのもおかしいし、嫌がらせの確率が高そうだ。固有能力の件で嫉妬された可能性が大きいな。あの辺から明らかに空気が変わったし……。


 ……あれ?


 俺は一旦戻ろうと思い、振り返って歩き始めたわけだが、しばらくして呆然と立ち止まるしかなくなった。道なき道をずっと歩いてきたせいか、周囲の景色がみんな同じに見えて宿舎の方角がわからなくなってしまったのだ。


「――はっ……」


『ウオォォン』という狼の鳴き声が聞こえてくる。それも複数だ。まさか……。そういえば、この森のずっと北部には狂暴なラピッドウルフたちが生息する狼峠があるとバニルから聞いたことがある。俺はそこに近付いてたのか。だとすると、一刻も早くここから離れなくては……。


 とにかく走ろう。俺は無我夢中で走り始めた。折角崖から落ちて生き残れたのにこんなところでくたばるわけにはいかない。


 だ、ダメだ……。既に足の感覚がない。これ以上はもう……。


「あ……」


 気付けば俺は土と紅い葉っぱを掴んでいた。いつの間にか倒れてしまったんだ。


 狼らしきものの気配も徐々に近づいているのがわかる。そんなのがわかるなんて不思議だ。窮地に陥ったことで心が磨かれた成果だろうか。それも無意味に終わりそうだが……。






「――セクト、起きてっ、起きてよ!」


「……う……?」


 誰だ……と思ったらルシアだった。俺は彼女の膝の上にいるようだった。


「る、ルシア……? 狼は……」


「あたしが操って追い払ってあげたわよ! ずっとあとをつけてたんだから!」


「え……」


 そういや、ルシアの固有能力は【傀儡】だったか。それにしても、俺のあとをつけてたなんて、一体どうして……。


「え、じゃないわよ。ちゃんとお礼を言いなさいよねっ!」


「……あ、うん。ルシア、助けてくれてありがとう。でも、なんで俺のあとを……」


「そ、それはみんなで話し合って、誰がセクトのところに行くのかであたしがジャンケンで勝ったからよ!」


「みんなで……?」


「そうよ! セクトが補欠組のやつらに意地悪されてるんじゃないかって、様子を見に行く人を決めただけよ。そしたら案の定……! あいつら、絶対に許さないんだからっ!」


「……そうか、みんなそこまで俺のことを心配してくれてたんだな……」


「このことはリーダーに報告するわ!」


「いや、それはやめてくれ、ルシア」


「セクト? どうしてよ! 一歩間違ってたら死んでたかもしれないのに!」


「俺が我慢すればいいだけだよ。報告なんかして、あいつらが懲罰でも受けたらより険悪になりそうだしな」


「何が我慢よ、バカ!」


「うっ……?」


 ルシアに頬を強く打たれてしまった。


「ご、ごめん。あたしも打って!」


「いや、別にいいよ」


「ダメ! あんたがやらないなら、操ってでもやらせるんだから!」


「……わ、わかったよ、やるよ」


 というわけでやり返すことにした。


「はうっ!」


「……い、痛かったか?」


「う、うん。痛かったわよ。ひっく……」


「泣いてるじゃないか。ごめんな」


「で、でも、嬉しい痛みよ! あたしをあいつらだと思ってもっとやりなさい!」


「おいおい、なんだよそりゃ……」


 左手が痺れるほど強く叩いたから痛くないはずはないんだが、本当にルシアはまんざらでもなさそうだった。強気なように見えて、実はかなり献身的な子なのかもしれない。

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