第3話左の世界

 二三子さんはいつも、右しか見ない。

 左はどこかに捨ててしまったようだ。彼女は、脳梗塞後遺症を患っていて、左半身に麻痺している。その上、高次脳機能障害という症状も合併しており、彼女の場合、健康な頃と比べると実に注意散漫になってしまった。そして、興味深いことに、左半側空間無視、つまり視界の左半分の認識力が極端に落ちてしまったために、左側の物を見落とす、左側の人や壁にぶつかる、ごはんも左側だけ食べ残す、などの症状が日常的に見られるのだ。

 だから、二三子さんの真ん前、中央に立つと、私は二三子さんに右半分しか認識されない。どうも、佐々木・二分の一です。二三子さんからすると、私の顔は左右非対称で不完全な印象を受けるのだろう。

 そんな私を見て二三子さんは言う。

「佐々木さん、不細工ね」

 二三子さんのリハビリの最中、固い左手足の関節を曲げては伸ばす私に向かって、一日一言。

 あんた、不細工ね。

「二三子さん、私の右頬、二三子さんから見たら左側なんですけど、大きな黒子があるんです」

「そんなの知らないよ」

 二三子さんは冷たく返してきた。二三子さんにとって、いつも左側は忘れられ、軽視され、なかったことにされる。

 それは自然に起こっている事象のような不自然。自然な不自然の黒子。

 私は美人、と豪語する二三子さんに自画像を描いてもらった。

「左側、忘れてますよ」

 二三子さんの自画像は、右半面はとても美しく描かれていたが、左半面はすっぽりとどこか、異次元に飛んで行ってしまったように、こそぎ落ちたように、空白になっていた。

 左半則空間無視は、二三子さんと共存していた。

 自分で車椅子を漕ぐ練習をしていても左側を壁にぶつけながら走行する。食事では左側の副菜を丸々残す。動きの鈍い左手をよく下敷きにして寝ている。

 二三子さんは、左側に無関心。左側を愛さない。もしも二三子さんの愛する人が、左側に立っていたら、その人ですら例外ではないのだ。

 たとえ二三子さんがその人の全てを愛してると言ったって、目の前で愛を囁くその人の右目(二三子さんの左側に映るもの)には興味ない。右耳を愛さない。その人が立った場所が二三子さんの左の傍らなら、彼女はその人を丸々愛さない。その人の声も耳に入らないだろう。

 私はいつか左側に気付いてほしいのだ。リハビリスタッフとしては、二三子さんが退院して元の生活に戻ったときに、できるだけ不自由なく生きていけるよう私は尽力したい。

 二三子さんのリ・ハビリテーションのために。失ってしまったものを、どういう形でもいい、取り戻してほしいのだった。その手伝いを、私は真摯にしていくつもりだ。二三子さんの障害が少し軽くなればいい。心底そう願っている。


「二三子さん、そのうち左手腐っちゃうよ」

 と、ふて寝する彼女に。

「二三子さんの左半身が可哀想」

 と、擦り傷を作った彼女へ。

 私がリハビリの度、小姑のようにあんまり煩く言うものだから二三子さんはよく機嫌を損ねた。

「知らない、知らない!」

 そうしてすぐに面倒くさいと言って物事を放り投げるのだ。これもこの病気の特徴だ。皆が皆そうではないけれど、そういう人が多いという話。

 それでも私は、二三子さんのブラックホール、濃霧の中から何度も呼びかける。何度だって呼びかけている。


 ある日、突然、二三子さんがキレた。子供のように泣きじゃくって、地団駄を踏みながら喚いて、私に吐き捨てるように言った。

「左、左って、うるさいよ。左の何がそんなに偉いんよ」

 あまりに周りに注意されるものだから、二三子さんはすっかり左側を嫌いになってしまった。

 リハビリも拒否するようになってしまったので、悩んだ末、私は、絵が好きだと言った二三子さんと、リハビリの時間を使って塗り絵をすることにした。幸い、この誘いを二三子さんは案外すんなり受け入れてくれた。

「二三子さん、左側だけ雑ですよ」

 いつものことだったけれども、私はこのとき、言いながら気付いた。二三子さんは、ある瞬間から左側を意識し始めていた。左側を嫌いだと、認めた。それは大いなる進歩だったと言えよう。

 二人で向き合って塗り絵をする。

 二三子さんが憎たらしいことを言ってきたときは、私は左側に立ち、彼女の左側の耳にそっと悪口を吹き込むことにした。

「二三子さんの分からず屋、可愛くない、鼻毛出てるよー。」

 知ってか知らずか、お決まりの無視。左半側というか、私の存在を無視している。

 黙々と、塗り絵をする二人。

「二三子さん、私の塗り絵どう?」

 私は二三子さんに向けて、塗った紙をひらひらさせた。

「あんたのは、ムラなく塗るっていう点においては上出来ね、だけど色彩のセンスが最悪だわね」

「そうかなぁ、そういう二三子さんだって、ひだ――」

「左側って言いたいんでしょ、あんたはいつもあんたの見えている範囲での左を基準にして私に指図してくるけど、私にだって左はあるさ。あんたはそれを左だって認めない、けれど私にとってはここが左なんだよ、いいかい、よくお聞き、ようく見な。私の左ってえのはね」

「…私の左っていうのは?」


「ここよ!」


「……。」


 そう言って二三子さんは、塗った絵の中心を自信たっぷりに指差した。


「あ、あはは」

 笑いが漏れた。

 雷に打たれた。

 二三子さんの尖った指先が心臓を一突きし、私の息の根を止めた。

 私は、誤っていた。私は、二三子さんのことを何も理解していなかったんだ。そして知識に驕っていた自身をこのとき初めて恥じた。


 二三子さんは確かに病気で左に疎いけれど、決して失ってはいなかった。全く、そうではなかった。そのことが、羞恥の抜け殻になった私にとって、救いであり、幸いであった。

 二三子さんの障害は、彼女自身の中には存在しない。障害は、二三子さんの環境、彼女が居る世界に存在している。

 私の目には見える。二三子さんの目には見えない。

 私は、いつか二三子さんが見ている世界をこの目で見てみたい。そして、彼女の曖昧な左空間に立って、彼女が打ち当たるであろう障害に悪態をついてやりたい。



 二三子さんは、リハビリテーションの期間を終えて、自宅に退院していった。今後は近くのデイケアに通いながら在宅生活を続けていくのだ。

 二三子さん、左手、あなたのものなんだから、大事にしてね。怪我しないでね。ベット柵に挟んだままにしないでね。

 車椅子ちゃんと自分で漕いでね。

 また一緒に塗り絵したいね。文句言いながら、悪態をつきながら。

 もしもまた会えたら、今度は二三子さんの少し右側に立って、私の右頬にある大きな黒子を、いつか見せてあげる。

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