第2話唄を忘れたカナリアは、

 二人の第一印象は、滑稽。

 コッケー、コケ・コッコー。

 人の印象を、滑稽で片付けるのは失礼だし、ニワトリの鳴き声も意味不明だろう。けれども私は、全くふざけていないし、二人に出会ったときはどうしたものかと本当に滅入ってしまっていた。

 というのも、園田さん夫妻は、夫婦揃って脳卒中になったというのだ。しかも二人には高次脳機能障害の中でも、やっかいな失語症という後遺症を患っていた。

 失語とは、文字通り、言葉を失ってしまう症状で、タイプは様々だが、コミュニケーションにおいて苦労することが多い。例えば、他人の言っていることは理解できても話し方が分からない、うまく伝わらない場合や、その逆にぺらぺらと流暢に話せても内容が意味不明な上、他人の言っていることが理解できない場合もあったりする。さらに症状が重度の場合は、そのどちらの症状が併わさって話せないし理解できない、言語の概念を失ってしまう。

 園田さんの場合、旦那様の一生さんはジャーゴン、奥様の晴子さんは残語という症状が顕著に出ているけっこう重たい失語症だった。


 二人は倒れたとき、手を取り合っていたという。リビングにうつ伏せになっている老夫婦の第一発見者である娘さんは、面談のとき、泣きじゃくりながら私に言った。

 そして二人はとても仲が良いことと、晴子さんが極度の引っ込み思案なので、できれば二人一緒にリハビリを行ってほしいと言うもんだ。

 なんて無茶なお願いだろう。私は頭を悩ませた。というのも二人は、初見において、二人の間のコミュニケーション手段を完全に見失ってしまったように見えたからだ。

 初日、二人は病棟の看護師の早川さんに連れられて訓練室にやって来た。看護師と腕を組み飄々とした一生さんは、訓練室の入口で丁寧に一礼すると、けっこう大きな声で言った。

「ハイ、サッセワノジュテ、コケ・コッコー!」

 えっ…なに、なに、今、なんて言った?

 私は頭の中で暴れ出す鶏に芸人の如くツッコミを入れた。

「…う、うふふふ」

「くくく」

 私と早川さんはギョロ目を見合わせ、そして同時に笑ってしまった。

「ちょっとー、佐々木さん、先に笑ったでしょう、あーあ」

 早川さんは悪い顔で小突いてくる。

「えー、私が悪いんですか?」

 一生さんは、私達のそのやり取りには全く興味がない様子でニコニコしながら晴子さんの乗っている車椅子を押して近づいて来た。

 見るからに身体に後遺症のなかった一生さんに比べ、右半身に重度の麻痺が残ってしまった晴子さんは、車椅子にちょこんと座り、泣きそうな顔をしてこっちを見ている。

「初めまして、佐々木といいます」

 私が挨拶すると、晴子さんはふいとそっぽを向いてしまった。

「もう遅いですよ」

 ん、と耳をそばだてた。

 晴子さんが、ぽつり、と落とすように言ったのだ。

「ボン、ソブランファ、ダミダ、フニ」

 一生さんは、晴子さんを窘めるように言うと、また私を見て笑った。

「もう、遅いですよ」

 晴子さんが今度は虫の声で一生さんを見ながら呟いた。一生さんの耳には入ったのだろうか、どうやら聞こえていたいみたいだ。

「一生さん、いいキャラでしょ? あ、晴子さんはこれしか言えないのよ、どうにかならないかなあ」

 そう言って、早川さんは病棟に戻っていった。

 どうにも、ねえ。難しいでしょ。この二人は、種類は違えど典型的な失語症患者だ。

 失語に関して専門的なリハビリは言語聴覚士のスタッフに任せるとし、私の方では、一生さんには散歩やエアロバイクなど、ひたすら体を動かしながら気分転換を図り、その間に晴子さんの麻痺した手足を動かしたり、寝返りの練習などをした。そして最後は二人一緒に歌を歌ったり単語と絵カード合わせゲームをする。

 一生さんは楽しそうにやっていたが、ときおり晴子さんをちらちらと見ている。

 晴子さんはというと、私と二人のとき、たまにほんの少しだけ笑顔を見せてくれるようになった。

 晴子さんは私の言っていることをおおむね理解することができているようだった。晴子さんと接するうちにだんだんと、こちら側に何を伝えたくても、

「もう遅いですよ」

 にしか変換されない晴子さんの言葉が、表情や口ぶりで、違って聞こえてきた。これは、晴子さんにとっても家族にとっても良い傾向であり発見だった。

 日常のほんの些細な会話を、私は晴子さんと楽しんでいた。

 もちろん、娘さんは晴子さんの言葉の回復を切に望んでいたが、実を言えば私の方はというと、別に晴子さんの口から「もう遅いですよ」以外の言葉を聞きたいとは思っていない。それを、失語症患者に求めることはあまりにも酷なことだ。


 いつだったろう、私と晴子さんの間に一生さんが入ってきたことがあって、そのときも一生さんは外国語のような、はたまた呪文のような言葉を発したのだが、一生さんがしゃべった瞬間に、晴子さんがまた、

「もう遅いですよ」

 と言ったのだ。

 一生さんは、構わずしゃべり続け、晴子さんは溜息をつく。

 あなた、私のこと、全然わかってない。そう、言いたいのかな。

 実を言うと、コミュニケーションを取るという点では、一生さんとの方が思うようにいかないことが多かった。

 一生さんは私の言っていることを言葉では全然理解できない。聞く姿勢にもなかなかなってくれない。そのため、ジェスチャーやイラストを使って説明する。一生さんはいっぱいしゃべるけれど、正確な単語なんてほとんどない。しかも無自覚。お構いなし。私は不親切なフランス人としゃべっている気分だ。

 晴子さんも、そう思っているのかな。

 だけど、一生さんは一生懸命だ。入院して一ヶ月くらいで、「おはようございます」と「よろしくお願いします」がさらりと出るようになった。出ないときもあるが。それから、私の話も、自身が理解できていないということを少し自覚し、理解しようと努めるようになった。

 訓練室には、相変わらず一生さんが嬉しそうに晴子さんの車椅子を押しながらやって来る姿が、何とも言い難いくらい微笑ましいのだ。晴子さんも、まんざらではないみたい。溜息でもつきたそうな表情だが、たまに頭上の一生さんの尖った顎の辺りを見上げる晴子さんは可愛らしい目をしている。

 リハビリの後、病室まで送っていったら、二人を待っていた娘さんと少しの時間お話ができた。

「二人とも、リハビリ頑張っているんでしょう?」

「ええ、とっても」

「母は、自分でトイレに行けるようになったんですよね」

「そうです、立位がだいぶ安定してきましたから」

「父はあんな調子ですけど、たまに、ぽろりと理解できる単語をこぼすんです」

 娘さんは、本当おっかしーですよね、と笑いながら言った。

「母は、逆にしゃべらなくなったなあ。頷きとか、首振りで済ませちゃうようになりましたよね」

「うーん」

 としか、私は言えなかった。

 晴子さんは、一生さんとは反対に、話すことをどこかの時点で諦めてしまったようにも見える。リハビリでも気分が乗らないときは、確かに声を少しも出さない。唄も歌ってはくれない。

「唄を忘れたカナリヤはー、って、先生、ご存知です?」

「童謡で、ありましたっけね」

「そう、唄を忘れたカナリヤは 後の山に棄てましょか いえいえ それはなりませぬ ってやつ。最後のとこね、唄を忘れたカナリヤは、象牙の船に銀の櫂 月夜の海に浮べれば 忘れた唄をおもいだす」

 娘さんはメロディに載せて歌ってくれた。

「母はとっても歌が上手なんですよ。また、前みたいに歌を聴きたい、話をしたい、なんて願わないほうがいいのかしら。カナリヤみたいに、思い出してくれやしないかな」

 それは、すごく難しいことだと思う。けれど、それをどう伝えればよいだろう。どう伝えれば、この人を救えるだろう。

 私が口ごもると、娘さんは続けた。

「もう遅いですよっていう台詞、母の口から聞いたら、なんだか、こう、込み上げて来るときがあって…もう全てが手遅れって誰かに言われてるような気になるというか」

「…なぜ、その言葉だったんでしょうね」

 娘さんは、少し黙ってから、園田家の思い出話を始めた。

「父って仕事熱心で、よく家に仕事を持ち帰って遅くまで起きていることが多かったんですよ。それでいて私たち子どもが小さいときは、平日も休日もお構いなしに、遊んで遊んでってせがむもんだから、父は弱ったなあと言いながらも私たちが飽きるまで相手をしてくれたんです。そんなとき、母は、もう遅いですよ、寝なさいって私たちに言ったんです」

「はい」

「きっと、私たちが寝た後も、父に言っていたんじゃないでしょうか、もう遅いですよって。母はいつも父のことを気遣っていましたから」

 娘さんはその後すぐに、私に深々と会釈して去っていった。

 私は、この人の吐露を聞いてしまった。聞いてしまったからには、晴子さんのたった一言に詰まった思惑を、胸に深く落として、明日からまた二人と向き合おう。そう、気を引き締めた。


 最近、一生さんの言葉の中に意味を持つ単語を探り当てたとき、それがまた少しずつ増えてきていることに気付いたとき、すごく嬉しい。今度、何かの拍子に晴子さんの前で、「ハルコ」って口走ったら、晴子さん笑うんだろうな。

「フエ、ソレアンチヤクッフ、ハア、ハルコラメンテ」という感じに、だ。

 そして私は今、二人が退院するまでの残り数ヶ月、二人と向き合いながら、晴子さんの一言の中に隠れた豊かな感情を、また一生さんの呪文の中に潜んでいるかもしれない「ハルコ」を、見逃さないよう汲み取ることに奮起している。

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