リハさんと患者さん

小鳥 薊

第1話alien hand

― alien hand ―


「ありえん、ハンド」


 私がサラサラと書いた英字を、指でなぞりながら、そう言ったのは唐草さんという患者さんだった。

「エイリアン、です」

 エイリアンハンドとは、高次脳機能障害のうちの「他人の手」という症状だ。

 脳卒中や認知症、脳外傷、脳腫瘍など、様々な病気による脳の損傷で起こり得る、行為・行為の抑制障害といわれる症状の一つである。


 一週間前の午後一時、交通事故で運ばれてきた唐草さんが目を覚ました。意識不明の状態からの奇跡的瞬間だった。

 私は、数週間前から唐津さんの担当リハビリスタッフとして関わっていた作業療法士で、管に繋がれた唐草さんの体がカチコチに固まってしまわないよう、無意識の唐草さんのストレッチを行っていた。


「唐草さん、こんにちは、手足を動かしますよ」

 意識のない状態の唐草さんに届いているかは分からない。

「嫌だったら、痛かったら顔を歪ませて教えて、腕を振り払って」

 私は唐草さんの手足を動かしながら何度も話し掛ける。

 緩んだ唐草さんの指先は関節がごつごつしていなく、すっと伸びてきれいだ。齢二十七歳。浮腫んでいるからかもしれない、肌はなめらかで光っている。そして、大きくて、私よりもきれいな手。お年寄りとはやっぱり違う。

 唐草さん、このまま意識が戻らず、死んでしまったら、かわいそう。私は、唐草さんのリハビリに入るとき、いつもそう思っていた。


 唐津さんが目覚めたときは、

「んん、あれ…え」

 触れた指先に反応を感じた。

「唐草さん、唐草さん、分かります?」

 今度は唐草さんの瞼がピクリと動いた。私はすぐさまナースコールを押してドクターを呼んだ。


 それからの唐草さんの回復は劇的だった。

 危惧されていた麻痺も残らず、話すことや食べるための訓練も順調に進んだため、あっという間に口からご飯を摂れるようになった。

 まだ少し筋肉の動かし方がぎこちないものの会話もできるし、歩行器を使えば歩ける。リハビリで筋力を取り戻せば元通り歩いたり走ったりもできると思われた。

 事故以前の記憶も失っていない。周りは奇跡だと喜んだが、彼の回復を見ていると、やっぱり若さって素晴らしいなって思う。事故ったのが老人なら、半年かけてもここまで回復しないかもしれない。


 話をするようになって知ったが、唐草さんは現代にはなかなかお目にかかれないくらいの、とても誠実な好青年だった。それから女性に不慣れなんだろうか。リハビリの最中に体が密着すると、唐草さんの体が固くなって少し離れ、また体温が上昇しているのを感じる。

「あ、すいません」

 少しでも失敗すると顔を紅潮させてすぐ謝る。

 なんか、すいませんね。リハビリ、やりにくいでしょうね。担当は男性セラピストの方が良かったかな。

 先輩に相談してみたが、彼がそう言ったわけでもないしいいんじゃない別に、と一蹴されて終わった。

 まあ、それもそうか。患者さんの九割がお年寄りなものだから、私こそ不慣れなのだ。私は、唐津さんが私を見限らないかぎり、彼の回復をサポートすると心に誓った。


 唐草さんはここで起きる大抵の出来事に戸惑っている様子だった。無理もない。病院という非日常に突然、患者の立場で放り込まれたんだもの。

 けれども、唐草さんの苦悩は、もっと大きな、別のところにあったのだ。最初のうちはぎこちなかった手足の動きが今ではすっかり健常者と変わらないくらいに回復した。いろいろなことが元に戻って、良くなる中で少しずつ見えてきた唐草さんの問題といえる後遺症が、やはりあったのだ。

 高次脳機能障害。目には見えない脳の後遺症。とはいっても唐草さんの場合は、本当にごく軽度であり、まだまだ改善する見込みはあるし、今の状態でも生活に支障のないレベルだ。脳の損傷範囲が広い人の場合、後遺症の症状は重篤で、複雑なことが多く、体は元気でも一人では生きていけない例も少なくないのである。

 一つに、今の唐草さんは表情が読み取りにくい。そして、次の行動へ移るまでに正常な人より少しだけ時間が掛かる。

「ピントがうまく合わない」

 と、唐草さんは表現していた。

 それはさておき、最も唐草さんを苦しめている奇怪な症状があった。


「佐々木さん、俺、自分がコワイです。何なんすか、この左手」

 最初に本人がその症状を自覚したとき、唐草さんは怯えていた。震える唐草さんの左手は、私の人差し指を強く握っていた。強く握っていた。

「唐草さん、指、ちょっと痛い」

「佐々木さん、指がいうことを利かない…これ、どうやって離せばいいんですか」

「…離せないの?」

「離そうとしているんですよ」

 そう言って、唐草さんは右手で左指をこじ開けようと必死だった。その手は少し震えている。隙をみて私がゆっくり人差し指を抜こうとすると、唐草さんの左手が追ってきた。

 やっぱりだ、私は思った。

「唐草さん、大丈夫ですよ、目を閉じて、落ち着いて、ね。唐草さんの手、ちゃんということ利くよ、左手は、開くよ」

 私の言葉に素直に従った唐草さん。少し落ち着いたみたいだ。途端に彼の左手は自然と開いた。

「これ、なんですか…」

「これはね、把握反応という、症状です」

 唐草さんは、首を傾げたまま、しばらく動かなかった。


 把握反応は注意力と関連していて、軽度の場合、本人が意識さえしていれば抑制することが比較的可能な症状である。そして、障害の初期に出現しても経過とともに消失することも少なくない。

 それを聞いて唐草さんは安心した様子だったが、それからというもの、彼は、ずいぶん神経を擦り減らしながら、生きている。真面目な彼にとって、抑制のきかない左手の行為は許し難いものだったらしい。リハビリにも集中して取り組み、症状が強く出るときの対処法なども真剣に教わっていた。


「そっかぁ、握ったらなかなか離せないなら、予め何か棒とかタオルとか、握らせとけばいいんだー、こいつ案外バカだな」

 そう言って唐草さんはエイリアンを小突くように左手を軽く叩いた。

 彼は本当に、真面目だった。リハビリ態度も花丸。

 経過も順調で、時間が経つに連れ、やはり症状も軽くなり、エイリアンハンドは、今では唐草さんが冷静を欠いたときくらいにしかお目見えしなくなっていた。

 そんなある日、唐草さんが完全にテンパって再びエイリアンが襲来した事件があって、笑えるので書いてみる。


 そもそも、唐草さんの事故の経緯がなかなか興味深く、彼らしい。

 唐草さんは、ある女性に告白中、その女性によって轢かれた。

 走行中の彼女の車を追い掛けて呼び止めた唐草さん。どうしてそのタイミングでなくてはいけなかったのか、と疑問に思うが、詳細は本人から聞いていないので知らない。




 ハンドルを握りながら、開けた窓の隙間から女性は声を掛けた。

「唐草くん、いい加減、そこどいてくれないかな」

「君が俺の気持ちを、ちゃんと聞いてくれたら、どくよ」

「あなた、いつも間が悪過ぎ。私、まだ誰も好きになれないし、なりたくないのよ」

「俺は、ゆっくり待つつもりだから、可能性はゼロではないのかな?」

「だから、そういう話を、今したくないの。私、急いでるの。もう行かなくちゃ」

「俺は、君しか好きになれない」

「もう!」

 痺れを切らした彼女は、車から降りて彼をなじろうと、踏んだのが不運にブレーキではなくアクセルだった。誤って急加速した車に、僕は死にませんポーズで見事に轢かれてしまったのであった。


 唐草さんは、彼女を幸せにしたかったのに、逆に不幸にしてしまった。101回目のプロポーズは、時代にそぐわないことこの上ない。

「彼女には、どん引きされて轢かれてしまいました」

 と、だいぶ打ち解けてくれた唐草さんが苦笑いしながら話してくれた。

「その女の子は、今どうしているんですか?」

「責任を感じてしまって、仕事も辞めてしまって、ずいぶんやつれて…いつも辛い顔をしながらお見舞いに来るんです。俺が全部悪いのに」

「うーん…」

 なんだかどちらもかわいそうな事故だ。

「彼女は自分を責めてばかりで、俺がどんなに謝っても、謝ることを許してくれなくて、俺はどうしたらいいんだろう。俺が、あんなタイミングで返事を急がなければ、彼女を幸せにできたかもしれないのに」

「脈は、あったの?」

「…あったと、俺は思うんだよな」

「じゃあ、頑張れば? あ!唐草さん!今、だめですよ、久しぶりに左手が暴走している」

 私が笑って言うと、

「あっすみません。全くこいつめ!」

 と、私の手首を掴んでいる自分の左手を引き剥がし、殴った。殴られた左手は今後は、開き直ったようにすぐ傍のテーブルに置いてあったマグカップを強く握った。

取っ手から上手く指を抜けず四苦八苦しながら暫く二人で笑い合っていると、看護師さんがやって来た。

「楽しそうね、唐草さん、面会の方がいらっしゃってますよ、とても美人さんの」


「彼女、ですね」

「たぶん」

 私は、唐草さんを部屋まで送り届けて願った。どうか、二人が早く自分自身を許せますように。そして自分自身の幸せを願えますように、と。




「来て、くれたんだ」

「うん…唐草くん、体どう?痛いはもうない?」

「もう全然平気だよ」

「そっか…」

「俺の体は、全然辛くないんだ。でも俺は、君がいつまでもそんな顔しているのが、辛い」

「…私、あの日のことを忘れたいって思う自分も許せない。私のこと、どうか、ずっと許さないで」

「なんで?俺はそもそも、君のこと許さないとか、少しも思っていないし」

「唐草くんの体が回復したことが本当に、救いだったな」

「ちょっと、待って…終わりみたいに言わないでほしい」

「…私、あなたが退院したらもうあなたには一生会わない」

「…勝手だな」

「ごめん、本当にごめんなさい」

「そうやって、俺の気持ちはなかったことにするの?俺は君しか好きになれないって言っているのに」

「そういう話を、しにきたんじゃないよ」

「う…」

「…もう、行くね」

「…」


「唐草くんどうしたの?」

「ごめん、大丈夫、なんでもない」


「大丈夫そうに見えないけど…私、看護師さん呼んでくる」

「いい、行かないで、…せめて送らせて」

「看護師さん呼んでくるから、ねえ」

「いいんだ」

「ねえ」


「…」


「…」


「…」


「…あの…手、はなして」

「え?」

「…痛い、はなして…」

「はなせないん…です…」

「唐草くんって、どうしていつもそうやって強引なんですか」

「…すいません…」

「はなせないって、どういうこと?」

「はなせないんだ。俺、病気なんだ。この左手はいつも俺の意志に反して…でも」

「何?」

「今は、はなそうと思えば、はなせる。はじめて、エイリアンと意見があった。俺は今この手を、はなしたくない」

「…」

「…あの…」

「エイリアン?」

「はい…」




 たまたまある病室から、このドラマの一部始終を目撃していた患者さんからのタレ込みがあった。

 なんだ、そんな面白いことがあったのなら、覗き見したかった。

「一側の手が他人の手のように非協力に振る舞う現象のこと、医学用語でエイリアン・ハンドっていうんだよね」

「エイリアン…恐るべしですね、俺、最初に聞いたとき、抑制障害なんて言うから、理性を失っちまったのかと思いました」

「でも左手と意気投合したんでしょ」

「そんな、嫌がる女性の手を握ってはなさないなんて、俺はしない」

「でも、食い下がらなかったおかげでしょ?」

「…まあ」

 唐草さんはそのとき、初めて彼女に触れたのだそうだ。

 初めて触れた彼女の手は思いの外冷たくて、少し震えていて、握っている間、大人しく彼の中におさまってくれていた。少なくとも拒絶してはいなかった。唐草さんは落とすように言って、微笑んだ。


 あの事件を機に、彼の左手は、一度も彼を困らせることはなかった。

 唐草さんは、自分の左手に棲みついていた奇怪なエイリアンが、彼女の手首で永遠眠りについてしまったことに関して、どんな思いでいるんだろう。

 唐草さんはその後、一ヶ月足らずで元気に退院していった。

 そして最後の日。わざわざ私の元へ挨拶に来てくれた彼の横には美人の彼女がいた。彼女は彼と手を繋ぎ、品良く私に会釈した。

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