運命の恋人

小鳥 薊

とどのつまり、彼は運命の人

 彼は、一向にしゃべり続けている。

 私がどんな相槌を打とうが関係ない様子。

 私は、彼と一緒にいる時間が長くなるにつれて透明になっていく。


 最初はそれが悲しかった。しかし、今となってはそうでもない。

 耐性が付いたの。


 自分が壊れてしまう前に、悲しまない方法を探さなければ。


 そうして私は、あなたがたとえ酸欠を起こしかけたとしても我慢できる、良き彼女になった。



 想像してほしい。

 発言権のない一対一の演説を。

 そんな良き彼女の私でも、体調が悪い日もある。

 そういう日は、平気で居留守も使うし既読スルーはよくあること。

 無理に会ってしまえば、後になって体調不良が長引くことになる。

 女の子の日なんて最悪で、私は終始、彼の話を遮りたい衝動と戦わなくてはならない。

 突然疾走したり、叫んだり、そういう一見精神異常者のような言動を、どうしてもしたくなるのだ。

 鼻のてっぺんにハエがなにかが止まってしまって、ずっとむずむずしている感覚。


 私、楽しくない。

 私、ちっとも楽しくない。

 私は私に与えられた時間を無駄遣いしているような気持ちになって、落ち着かないのだ。

 そんなに楽しくないなら一緒にいるなよ、馬鹿。



 我慢が限界を迎えたとき、私はバグリエルのラッパを吹くのさ。

 どうするかっていうと、変顔さ。

 変顔は世界を救う。

 彼はいい気分で、馬鹿だなって顔をして話を止め、私に一瞬だけ注目するのだ。



 彼は本当に鈍感だ。

 私の相槌がなくても、五分は話続ける。

 私が急にいなくなっても、話の途中だと1分は気付かない。


 結論、私の返答の響きは結局、うんでもすんでもふんでもふーんでも、どうでもよいのだ。

 わんでもにゃんでも彼は気にしない。

 猫でもいいのだ、別に私は。


「でさー」

「うん、うん、へええ、ふーん、はいはい、それで、うん、ほお、にゃん、へえ、うん、うん、うん、わん、うん」


 彼ったら笑っちゃうくらい突っ込まない。

 ヤバイ、おっかしい。



 ときに私は、彼の声を片隅で聞きながら、私の精神だけを自由に歩かせて、好きなところへ行かせてあげられるだろうか、と思ったのだ。

 そして私は、彼の演説が始まった途端に、S駅を出発してどこまでいけるかを試してみた。


 駅の改札で切符を買う。

 どうしよう、目的地は決まっていないからいくらの切符を買う?

 とりあえず、O駅まで買ってみようか、普通車に乗ったら小一時間は掛かるから、それくらい行けたら上出来だろう。

 O駅までの切符はランチ一食分かと思ったら少し怯んでしまう。

 どうして自分のための食費ってこんなにケチケチしてしまうのだろう。

 これが友達とのカフェ代だとかハンドクリーム代だとしたら別にどうってことないのに。


 空腹に耐えられないから食べたいけれど、食べ過ぎたら太って醜くなる。

 幸せプレートとか名前が付いているイロトリドリの盛り付けを見ると嬉しい。

 けれども、私は食している瞬間にもカロリーのこととか考えている。



「……って、おーい、聞いてるか?」


 まずいまずい、猫が不在だった。

 私の意識は、彼の元へ舞い戻った。


 うん、うん、へえ、うん、そっかあ、へえ、うんうん、わかる。

 って、全然分かんない。

 全然、楽しくない。

 どうして気づかないのだろうね。彼はおそらく、私が彼に話に興味がない以上に、私に興味がないのだろう。

 だって彼の話の中には私は一切登場しなくて、私は彼の話を聞いているうちに自分がこの世界に存在していないような気持ちになるのだった。


 気を取り直して、トリップ。

 改札で私は無事切符を買うことができた。

 財布には小銭がじゃらじゃら入っていて、私はそれをどんどん硬貨入れの口に流し込んだ。

 急かしすぎたのか、100円玉が何回かお釣り口から飛び出してきた。この現象は誰の責任なんだろう。

 電光掲示板で発車時刻を確認すると、10分後の電車があった。

 私は切符を改札口に通すと、一番ホームに向かった。

 ホームに立つと、思いがけない衝撃に、私の体は鉛になり、心臓だけが際立って脈動している。

 私の心臓は痛くて、SOSを送り続けている。


 目の前に列を作って並んでいる人たち。

 その人たちの中に、元カレの姿があった。

 髪型は当時と全然違っているけれど、そうだ。

 私と元カレは、あまり良い別れ方をしたとは言えない。私が今カレに惹かれて一方的に彼を捨てたのだ。

 一体どういう気持ちで会ったらいいものか。私は今、元カレと今の自分で会いたくないんだなって自覚した。


 久しぶり、元気だった、って普通に聞いて、元気でね、って言って別れるだけだ。きっとね。

 けれども私はそれができそうにない。

 私の顔は、幸せを取り繕えない。

 彼に見せたことない、惨めな顔しているもの、今。


 体が自由になったのでその列に背を向けた。私は、元カレに気付かれないよう、そっと別の車両の列に並ぶことにした。

 私は、この電車に乗っている間、元カレのことで頭がいっぱいになっているな。

 彼はどこで降りるのだろう、今どうしてるのかな、とか。


 ヤバイヤバイ、想像の旅はどこまでも行けてしまう。



「なあ、お前だったらどう思う?」

 ごめん、ほとんど聞いていない。

「うーん……、どうだろ。」

 彼の話法に、私の意見を求めてくる戦術があるとは、意外だった。

 滅多に出ない、禁の術だな。

 そうして私は、またしばらく傍観者の猫になる。

 ある種の安定地。



 空想列車は混んでいた。

 乗り降りの激しい駅を通過するまでは身動きのとれない状態、よくあることだ。

 次の登場人物は、地元の友達の幸子だった。意外。

 元気、最近は何してる?

 最近、小説書いてる?

 と、幸子に聞かれた。

 私の黒歴史を知る人物。

 少し恥ずかしい気持ちになった。私はその子に自慢できるような作品は結局書けなかった。

 ねえ、そういえば今度地元にさ、芸能人が来るんだって。一緒に見に行かない。

 ああ、それいいね。幸子ちゃん、好きだったもんね。

 でも私も、幸子には言っていなかったが幸子以上にその人のファンだった。

 ねえ、どこまでいくの。

 うーん、決めてないんだ。

 何それ、行き先決めないで電車に乗ったの。うん、どこまで行けるかなって思ってさ。

 へえ、変なのー。


 幸子は笑い声だけ残してぽうっと消えた。

 いつしか私は一人で電車に乗っていた。

 同じ車両に乗客は私一人だった。

 夕方の光が車両に射してくる。目の前の海は急速度で移動しているのに、水平線は上下せずに僅かに揺らいでいるだけだった。

 ガタンガタン。


 そういえば、元カレは降りただろうか。

 正確には彼かもしれない人だけれど。

 私は一体いつになったら彼に、ちゃんとごめんねと言えるかな。

 そういう準備ができる日がいつかくるのだろうか。

 どうして、別れてしまったのだろうか。こんな感傷に浸るくらいならさ。


 そんなよるべないことばかり考えてしまう夕方の車両は、虚構だけど嫌いではなかった。

 私は、空想の中で思った。

 この電車はどこに向かっているのだろうか。

 私はどこに行きたいのだろうか、と。



 彼は一向に話し続けている。

 ここまでくると尊敬しちゃう。

 現実に戻った私は、ちょっと今は彼の言うことを真剣に聞くことに専念してみた。

 私にとって無価値の言葉たちを、ゴミ拾いのボランティアのように黙々と回収する。

 意外に私は夢中になれた。

 内容はともかく、言葉を拾い集めることに。


「なあ、お前は?なんかあった?」


 本当に珍しいことが続けて起こった。

 彼が話を振ってくるなんて、どういうつもりだ。


 電車に乗ってO駅の手前まで行ってきたよ。

 へえ、前の休みの話?それよりなんでOの手前なの?

 時間がなかったから。


 私は、空想列車の中で見た夕日の話をした。

 彼は私の話を掘り下げることなく、それはそうとさ、と彼が昨夜見たニュースの話にすり替えた。


 彼を、観察してみよう。

 顎のヒゲの剃り残し。

 そういえば、私も最近、アラサーになったからかときどき、本当たまになんだけど、顎から間違った毛が生えてくることがあるのよ。眉毛の太さくらいの、長めの毛よ。

 どうしたものかしら。女性ホルモンが減ってきている証拠でしょうか。

 どうでもいいけど私、あなたのしゃべっているときの口元って嫌い。

 でも、目元の泣き黒子と短い睫毛は好き。

 あなたの中に好きと嫌いを見つけるたびに、あなたにまた気づいたという感動がわき上がる。

 それは昔は嬉しいことだったけれど、最近では少しい哀しい気持ちになる。

 どうしてなんだろう。

 私は、あなたを少し好きじゃないな、と常日頃思うようになる。

 だけど、全て好きな人なんてこの世には存在しないことも知っている。

 自分のことですら全然好きになれないのだから。

 そう考えるとね、こんなに一緒にいて、少し好きじゃない程度のあなたは、私にとってはやはり貴重なのだと思うよ。


 あなたは運命の人。私の空想世界の外側に、いつもいる人。

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