地神の愛
水神は金神とともにゆっくりと大地を歩き回っていました。金神は生命に溢れる海や川、森のざわめきよりも、一歩一歩踏みしめる大地に意識をおいていたため、とても静かでした。二人は無言で歩きました。水神は今までに感じたことのない心強さと自信を感じ、来る時に備えていました。
といっても、彼女は出来ることを全てやったはずでした。大神の望みを叶え、地神の心に平穏をもたらし、自分を含め力の均衡という新しい状況を作り出すのは、隣にたたずむ小さな老人、金神のごつごつした美しい手に掛かっているはずです。それでも彼女はその瞬間に備えて、心構えをすることに何の疑問も持っていませんでした。
「来たな」
金神は意識を頭上に向け、のけぞるような格好で空を見上げました。水神もつられて見上げると、穣神を背負ったままの大神がゆっくりと、ですが確実に降りてきました。
「来たわね」
水神は頬の内側を噛んで、表情を引き締めました。大神に油断や隙を見せたくなかったのです。大神は地上に降り立つと穣神を背中から下ろし、水神と金神を認めました。穣神は金神の姿を一目見ると、ぶるぶると震えだし、大神の後ろに隠れようとしました。
金神も穣神を一目見て気づきました。彼女が、自分に剋制される木であるという事実を。それは狼が兎を獲物だと感じるがごとく、自然な成り行きでした。しかし金神は出来るだけ落ち着いた調子で声をかけました。
「案ずることはない。我は今、大神の望みを叶えるために存在しているのだ。あなたを傷つけるつもりはない」
穣神は金神の優しい物言いに返事もせず、ひたすら大神の陰に小さくなっています。大神は金神をじろりと一瞥すると、口元をゆがませて笑いました。
「そうか地神も考えたものだ。あれはかなり疲弊していただろうに、よくそなたを生み出せた」
「我の名は金神。幸運にも我を泥の中に見出し、その手で泥をかいて引っ張り出してくれる者がいたので、我はここに立っておれるのです。水神には本当に感謝しています」
金神が水神の手を取ると、水神は感謝の言葉にはにかみながら、一歩前に出てきました。その美しい姿に大神はまたしても雷に打たれるような感覚を覚えました。それを悟られぬように大神は一つ咳払いをすると、また口を開きました。
「それで、我から火を取り出す準備はよいのだな」
「いいえ。重要な瞬間ですから、もう一度我が君を呼び覚ましましょう」
涼やかな声音で応えると、水神は金神の手を離し、地べたにひざまずきました。そしてゆっくりと大地に口づけをしました。
すると口づけたところから大地はさらさらとした砂状に変化してゆき、横たわった人型の小山が残りました。
「我が君、目を覚ましてください。時が参りました」
水神が声をかけると、砂の小山は目を開け、地神の顔つきに変化してゆきました。そして少しずつ身体を起こしていくと、砂ではなく人肌に変わってゆき、ついには不満そうな表情を浮かべた地神が姿を現しました。その容姿は一段と衰えたようで、頬がこけ、髪には白髪が混じり、手足もいくらか細くなったようでした。その姿に心を痛めながら、水神はその気持ちを顔に出さないように笑顔で両手を差し出しました。地神はその手をとって、時間をかけて立ち上がりました。立ち上がった地神の頬は赤みが差し、落ちくぼんでいた瞳にも気力が戻りました。
「我が君、我があなたより掘り起こした金神です。会うのは初めてでしょう?」
「我が君、我を生み出していただいたこと、感謝いたします。必ず我が君のお役に立つとお約束いたします」
水神と金神がそれぞれ話しかけましたが、地神はそれを手で遮り、大神をにらみつけました。大神はその視線を泰然と受け止め、全員が沈黙しました。誰も動けませんでした。どれくらいの時間がたったでしょうか、地神は片手を水神に預けたまま、乾いてひび割れた唇を動かしました。
「その歪んだ欲望が満たされる時が来たな。あなたをこの世で一番憎んでいるのは我だとういうのに、我の身を削って生み出された者が、あなたの願いを叶えようとは、皮肉なものだ」
地神は息が切れたのか一息つくと、続けました。
「だが我はこの状況を甘んじて受け入れよう。我に残された選択肢はそれしかないのだしな。ただ、一つだけ、我はあなたに要求するところがある」
「言ってみよ」
大神は表情を変えませんでしたが、少し地神の表情を伺うために首を傾げました。
「水神を縛らないでくれ。水神はこの地に、地上や地下、水中を問わず広がりつつある生命の環に、なくてはならない存在。あなたとの契りを結ぶことで、水神を束縛することは、あれの本意ではない」
水神は地神が自分のために懇願している事実に瞳を潤ませました。地神は己の肉体を削ってでも、水神の望みを叶えてくれようとしているのです。水神は地神の行動に深い慈愛の心を感じました。一方、金神は水神の背を元気づけるように軽く叩き、地神の背中を見上げました。地神の背中は金神を生み出したことによって疲弊し、骨ばった様子が痛々しかったのですが、それでも金神の目には、生み出した者への愛に溢れた、温かい背中でした。
「それを我に強制する事は、お前には出来ないぞ」
大神は地神の真意を試すように、ゆっくりと返答しました。
「お前は弱い。我を一度打ち破り、壊した時の力は残されていまい。我は我の思うようにすることが出来る。なぜならお前には他に残された道がないからだ」
「わかっている。だが、あれを束縛することはつまり、あなたの望むような変化はもう起こらないということだ。我は我から生まれた者達、そして穣神と繋がりを持っている。その力関係が世の理として成り立っているからこそ、地は金をその腑で醸成し、金は小さな雨粒を集めて水の流れを作りだし、水は木の全身を巡りながらその命を育むのだ。だからこそ繋がりの中で変化が起こる。あなたが水神をその手中に納め、独占するならばその変化はもう望めないだろう。あなたが環を壊すのだから」
地神の言葉に大神は黙り込んで考え始めました。大神は心から水神を欲していたのですが、同時に彼は心の奥底に眠る退屈を恐れていました。だからこそ大神の耳には変化という言葉がよりいっそう甘美な響きを伴っていたのです。それは大神には抗いがたい誘惑でした。
そんな逡巡を重い沈黙から読みとったのか、地神は畳みかけるように言葉を重ねました。
「水神という環の一部が欠ければ、今まであなたの目を楽しませてきた穣神の起こす変化は火によって全て灰となるだろう。灰は大地を潤し、金を作り出すだろうが、それで終わりだ。焼き尽くされた大地に木が根付くことはもうなくなり、燃えるものがなければ、火は消え去ってしまう。残されるのは徐々に冷えていく地と金だけだ。我も金神も大きな変化をよしとする性分ではない。あなたの目に映るのは、ただひたすら広がる荒れ地と岩肌だけとなるだろう」
大神は地神の言葉通り容易に想像がついてしまう世界に身震いしました。彼の求める変化は長い間時間をかけて引き起こされるものではなく、一瞬一瞬のきらめきに近いものでした。それがなくなってしまうことは即ち、自分が地上に降り立つ前の、退屈を持て余している状態に戻ることに他ありません。それだけは何とか避けたいと大神は強く思いました。一方穣神は大神の後ろで地神の言葉にやはり震えていましたが、大神はそれにも憐憫を感じました。そして己の衝動のままに、望むだけを手に入れようとする事をあきらめました。
「我は水神を手に入れ、独占することをあきらめよう。これは我が初めてあきらめることだ。しかしこれを最後にする。もう二度と我はあきらめない。そしてお前たちは我の望む変化を続け、そのために環を壊さぬようにしなければならない。よいな」
大神の言葉は諦観の響きを伴いましたが、穣神、地神、金神、そして水神の身体にすみずみまで行き渡り、強烈な呪となりました。それを全員が承諾しました。
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