願いをかなえるための痛み
地神は水神を抱き起こすと自らも立ち上がりました。そして深々とため息をつきました。
「なんということだ。生きるということは、なんと平静を保てぬものか」
地神は水神の手を取り、歩き始めました。その方が胸の中を巡る感情をいなすことが出来る気がしたのです。
「これからどうしましょう?」
「そうだな・・・」
地神は水神の顔を見ました。水神は不安のためか表情がこわばっていました。
「水神よ、お前の願いはなんだ?お前の望むことは何か、胸の内に尋ねてみよ。我の願いは平静だ。すでに穣神の蒔く種が我に芽吹き、我を少しずつ損なうことは仕方がない。それらが枯れ、朽ちて、大地に還ることを待てば、変わらないこと。平静を手に入れるためには、あの大神の望みをかなえてやるか、大神を打ち砕くかだ。すでに彼を打ち砕くことは一度試したが無駄だった。我にはもう一度彼を打ち砕くだけの力は残されていない。方策は一つしか残っていない」
地神は水神の目を見つめて話しました。
「水神よ、お前に我のための犠牲を払えと言いたくはない。だがお前の望みと我の願いが矛盾することは避けたい」
水神は地神の視線に耐えきれず、目を逸らしました。地神は自分を生み出した者、彼女は地神の言うことを聞きたい衝動に惑わされそうだと思ったのです。
「我の願いは・・・、少なくとも平静ではありません」
「ではなんだ?」
水神は先ほど大神にもがれ、再生した手をしげしげと観察しました。それは傷一つない、元のままの手のように見えます。
「我は、束縛されることを望みません。水が上から下へ流れるように、心のままに在りたい。そして全ての生命の中に自分を感じたい。現にこの地に育まれている生命は、我を必要としています。その子らに我は自分を与えることを厭いません」
話している内に水神は自分の言葉に元気づけられる気がしました。そして心を決したように、晴れやかな笑顔を見せました。
「我は我を必要としている者全てに我を与えたい、もちろんその中には、あの大神も平等に入っています。彼が我を必要とするならば、それに応えましょう。でもそれは、彼が我が他の生命に我を与えることを邪魔しないという条件つきでのことです」
地神はしげしげと水神の顔を観察しました。彼女は彼の内側から生まれた、涙から生まれたちっぽけな存在のはずでした。しかし今彼の目に映る彼女の横顔は、生きとし生ける者すべてに愛情をもち、またそれら全てから愛を受け取っている、揺るぎない絆を持った者でした。地神はいつの間にか自分が生み出した者が自分を上回る力と器を持っていることに気づかされたのでした。
「ならばお前の望むように、大神に契りを求められるように、我は力を尽くそう」
地神は掠れた声でつぶやくと、心を決めました。己の激情に振り回されることなく、平穏に過ごすことを半ばあきらめ、生命の営みに、その力の奔流に身を任せることに。彼は水神と繋いでいた手をほどき、水神の創った湖に進んできました。足下は水にからめ取られ、ずぶずぶと泥の中に沈む感覚がありました。そして地神は水神の方に振り返り、声をかけました。
「水神よ、我は今一度大地に潜る。だがお前はこの湖の底の泥の中から、我ではない何者かを引っ張り出さねばならない。かなりの苦行になるだろう。できるか?」
水神は地神の覚悟を感じ、黙ってうなずきました。それを見て地神は穏やかな笑みを浮かべた様に見えました。
それを確認する間もなく、次の瞬間、地神の姿は消えてしまいました。湖の水面には波紋一つ残っていません。
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