手に入れられぬものを求める気持ち
一方で水神は、穣神の生み出した森の中にいました。
”すばらしい。誰が創ったのだろう?とても美しい・・・”
木立をすり抜けながら、植物がいかに大地に根をはり、水を吸い上げて成長しているのかを見て感嘆の念を押さえられませんでした。水神がもたらす水は、形を変容させながら生命の殻を通り、放出され元の姿に戻っていく。その様子を観察し、また水のもたらす感覚を味わうことで、水神は生命への慈愛を感じました。水神自身は地神の身体から流された涙から派生したもので、地神の中に自らの居場所はないと思っていましたが、生命はその生命を維持しようとする限り、水を欲することに、水神は満ち足りた喜びを感じるのでした。そして大神のことも、思い出しました。
”私を欲しいと言っていた。私は大神の言を皆まで聞かずに逃げてしまったが、私をほしがっている生命に耳を傾けないのは不公平ではなかったか?”
水神は少し悩みましたが、その靄のような思考を振り払うように大地を駆け抜け、そのあちらこちらに川や湖をつくりました。そしてそこに生まれる生命全てに、愛情のこもった笑みを送りました。
その時、水神の名を呼ぶ地神の声が聞こえました。水神はその呼び声にあまり応えたくはありませんでしたが、地神の呼びかけには力があり、抗うことは出来ず、水神は地神の元へ飛んでいきました。地神は別れた時よりも、疲弊した表情で水神を迎えました。
「何かご用?」
地神は疲れた様子で地べたに胡座をかいていました。
「呼べと言われたんだ。だから呼んだ」
その口調は憎々しげでしたが、力がありませんでした。
「なぜそんなに力を失っているの?」
水神が問うと、答えは背後からやってきました。
「あなたが水神ね?私は穣神。あなたの創った川や湖、水脈はすばらしいわ。木々は大地にのびのびと根を広げ、水を吸い上げている。あなたがいなければそんな風に上手くいかなかったわ」
穣神は人懐っこい笑顔を水神に送りました。一方水神は、警戒を解かずに穣神をまじまじと観察しました。褐色の肌は艶やかに輝き、大きな口と小さめな鼻が魅力的な表情をつくっています。
「あなたがあの木立を創ったの・・・?穣神」
頷く穣神を皮肉るように、地神は鼻をならしました。
「そうだ、我の肉を抉るようにして、あの木々は育っているのだ。そしてこの者が我から力を奪い、自らのものにしてしまった」
水神は両者を見比べました。そして納得がいったように一つため息をつきました。
「私を生み出したあなたが、まさか別の者に打ち負かされようとは。ならば穣神は私よりも力をもっているのでしょうね。私などいとも簡単に消し去ってしまうくらいに」
「まぁ、まさかそんなことはしません」
穣神は水神の言葉に傷ついたのか、すぐさま否定しました。
「私は地を剋する木と言われましたが、あなたを傷つけることは絶対にしません。あなたがいなければ、水がなければ、私は生きていけないのですよ」
「左様、木は水を剋さず。また水は木を乗するが、剋すことはない。お前たちの関係はそこまで密接とは言えぬな」
どこからともなく大神が現れ、穣神の肩に手を置きました。その様子を見て地神は身構えました。自分が捕縛されたことを思い出し、その屈辱を二度も味わいたくはなかったのです。大神はそんな地神の素振りはよそに、水神に目を奪われていました。水神は記憶の中にある以上に優美で力強く、美しかったのです。肌は透き通るように白く、髪は様々な色が織り混ざった結果、波立つような漆黒でした。彼女の身体からは常に水晶のような水滴が落ち、身に纏う空気さえ涼やかでした。
「我から逃げたことを覚えているか?」
「ええ、あなたは私をほしがった。私は縛られることを嫌って、あなたから逃れました」
「今、あの時と同じように願っても、同じ結果になるだろうか?」
大神は穣神の肩においた手に力を込めました。するとまた穣神の腕が蔦状に変形し始めました。それをみて地神は哀しそうに言いました。
「水神よ、お前の自由な精神に敬意を感じている。だが、縛られたくないのは我も同じだ。もうこれ以上力を失いたくない。我の為に堪えてくれぬか?」
「私に大神のものになれと?いいえ、私は誰かだけのものにはならない」
地神は落胆のため息を吐きました。
「さっき大神は木は水を剋さないと言った。しかし、我はお前を生み出した者。お前に水神という器を与えたものだ、私の涙よ。地は水を剋することができる。我はお前から力を奪いたくはない」
驚いたのか、一瞬水神は口を開きましたが、すぐに口元を引き締めました。大神は地神の言葉を聞いて、穣神の肩から手をはずし、水神に歩み寄りました。穣神の腕は何もなかったかのごとく、蔦は消え去ってしまいました。
「地神はお前を生み出したのだ、その者をあまり苦しめるものではない。我はお前に縄をつける訳ではないのだ、悪いようにはしない」
歩み寄った大神は右手をさしのべ、水神にとるよう促しました。水神はためらいを見せましたが、やがてこわごわと自分の手を重ねようとしました。二人の手が重なろうとした瞬間、ジュっと水が蒸発する音が聞こえ、水神はあまりの痛みに叫び声をあげました。大神は負けじと水神の手を握りましたが、強く握りすぎたためか水神の手は手首からもげてしまいました。地神はその様子に驚きながら、水神の身体を抱き止め、泣き叫ぶ水神をなだめるために肩をさすりました。もげた手は大神の手から蒸発して消え去り、水神の手は蜥蜴のしっぽが再生するように手首から生えてきました。ただ元通りになっても水神は痛みと恐怖に震えています。
「なんということだ、なぜ我には触れられぬ?」
大神はおののきました。自分が美しいと賛美する者を、意図せず傷つけてしまったからです。地神は泣き続ける水神を抱き起こし、立たせました。穣神は目の前で起こったことに理解が及ばず、黙ったまま立ち尽くしていました。
「我にはわからぬ。見えぬ。なぜなのだ?」
大神のうろたえる様子を初めて見た地神は、大神への優越感を禁じ得ませんでしたが、表向き水神への憐憫に眉をひそめました。
「あなたが水神を傷つける力を持っていることが原因だろう。我にはそれが見える」
「答えよ、それはなんだ?」
「強すぎる火だろう。あなたのなかで燃え続ける、火だ。強すぎる火は水の克制を受け付けぬ。あなたが今のあなたのままでは、水神に触れることも能わぬ」
大神は自分の胸に手を当てました。確かにその内側には火が燃えさかっています。大神はそのまま自分の胸を抉るように火を取り出そうとしましたが、火は掴もうとする大神の手をすり抜けてしまいます。痛みに耐えながら何度も大神は掴もうとしますが、失敗に終わりました。
大神は胸から手を戻し、反対の手を顔に当てました。胸から引き抜いた手からは血がしたたり落ちましたが、地面に落ちるとすぐに蒸発してしまいました。そして時を同じくして、大神の胸の傷もきれいにふさがってしまいました。しかし彼の感じている絶望と悲哀はかなりのものでした。涙はでませんでした。その分、大神の心に渦巻く感情は薄れず、ついにはある決心を固めました。
「我は我の内にある火を、取り出すぞ。手段を講じよ。我が戻る前に」
そう言い残すと大神は竜巻となって穣神を巻き込み、地神と水神の前からは消え去ってしまいました。
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