第5話マオ

――放課後のチャイム。

――踵の折れた上履き。


 私を構成する記憶が、また少し増えました。

 不思議です。

 記憶の容れ物は一人ひとり異なる脳で、共有したり覗き見することはできないけれど、私達は共通言語という記号で繋がり合うことができ、他者の記憶や感情を想像することはできる。

 それは、この世で起きる全ての事象が、地球という舞台に限られていて、空気も大地も水も、私達は皆で共有しているからです。だから私達はさして相違なく、他者の記憶の風景を、自分の脳内で概ね再現できるのです。そして、共感ができるのです。

 けれど、そうなると不安です。

 私は、今、この地球に存在しているのですから、ありとあらゆる事物を見聞きすることができます。

 もしも私の記憶が、誰かからの貰いもので、私自身の記憶であると思い込んでいるだけだとしたら――。私の身体が体験したはずの記憶が、誰かの体験を想像し、自分のものに置き換えたものだったら――そう考えることは、非常に恐ろしいことです。

 私のアイデンティティは不透明です。

 そんなこと、普通は思わないでしょう。

 私は異様なのです。そんな恐怖に囚われるのには訳があって、私は自分の記憶に――いいえ、存在に自身がないのです。


 私達の暮らす地球は、壊れかけているそうです。といっても、私は、地球が本当に球体なのか、どのように壊れているのか、この目で確認したわけでもないし、調べようともしていない。

 自分という一個体が見渡せる範囲なんて、本当に小さく、そこからどれだけ拡大していったら、地球の全体に辿り着けるのか、皆目見当もつきません。


――警察官のお父さん。

――教師の母。

――飼い犬のハナ。

――好きな人、カイト。


 変なコマーシャルがありました。

「地球は私を見放した――」

 というテロップが最初に流れ、球体がぐるぐると回っているだけのコマーシャルです。十五秒間で、変化といえばその球体が段々と小さくなって消えていくだけです。

 シンプルかつ後ろ向きなそれは、環境問題を訴えるものみたいです。

 その日の朝も、私はいつもと変わらず朝食のトーストを頬張っている。

 もぐもぐ、と動く口の隙間から洩れる声は、物の少ない小さなリビングに、少し響いて、膨張するように消えていく。

 二〇ⅩⅩ年の夏、環境汚染がようやく問題視されてきたころにはもう手遅れで、事態は深刻のようですね。愚かな人間は、見放されても仕方がないのかもしれません。

自己陶酔に浸った馬鹿げたコピーが、声に出したら意外にもしっくりときます。

 けれど、今の私には現実感がないのです。本当に地球は壊れているのだろうか。私達も壊れているのだろうか。

 日々、マスメディアを騒がせる異常現象、醜悪化していく経済、その影響を受けてか、人間も少しずつ狂い始めていますね。小さなこの町も、犯罪が増えました。


 妙な噂を耳にしました。

 近年、増え続けるゴミの投棄場所が確保できず、収拾のつかなくなった廃棄物処理の一案として、あらゆる物質を粒子レベルへ分解し、放散してしまう、という技術が研究され、実現も間近だといいます。

 そんなことが可能なんでしょうか。

 そんなことをして、それこそ地球への影響は大丈夫なんでしょうか。

 私は素朴にそう思うのですが、そんな浅はかな私の疑問はとうに有能な科学者によって解決されているのでしょうね。

 科学者たちは、何度も実験を繰り返し、データを採取し、確率の計算に明け暮れている――そして、この分解装置のプロトタイプの製品化が実現した矢先、とある学生集団によってあっけなくもそれは盗まれてしまったというのです。

 この奇想天外で恐ろしいニュースは、私だけが知っていることではありません。

 町の皆が噂しています。

 犯行声明はなく動機も不明、後に関連事件も起きていない――紛失したプロトタイプの捜索は迅速に進んでいるそうですが、詳細は報道された訳ではありませんし、私達の元には真相は何も入ってきません。


 このプロトタイプは、機械のような形ではなく、薬品のように粉末であるという。生物兵器に聞こえは似ています――なんでも、ソルトやペッパーのように振りかけると付着部より物質の細部に浸透し、その性質を変えながら分解作用をもたらす。不安定な粒子が結合するよりも速いスピードで、無害とされている化学反応が薬品によって齎される。そうやってどんどん侵蝕されるように分解が進んでいく様は、まるで癌細胞のようだ――そう言っていたのは、私の父です。

 また、同時に再構築――リサイクルの研究も進められているようですが、それには細胞の地図とも言うべきDNAの存在が重要な鍵となってくるそうで、現段階では、もっと生物学的な知見が必要のようです。

 この夢のような試みは、廃棄物に限ったものではなく、やがては医学の発展にも貢献し得ることでしょう。次世代への課題は遺伝子工学にあるとか、何とか――私にはよく分からないことだらけです。

 私はそもそも、社会とか科学の授業みたいな話に疎く、環境がどうとか、世界の情勢がどうとか、私にはさっぱりです。日常を生きることに精一杯。今見えている事柄以外は全て現実離れしています。 

 

 本当かどうかも、分からない噂。


 そういえば、もう一つ克明に思い出しました。

 魔法の粉について――詳しいことは何一つ知りません。けれども存在の有無に関しては、私は身をもって知っていました。



 私は、ちゃんと発声していますか――。

はっきりしない語りで切に誰かへ話し掛けている――。




――私の意識は、いま、どこにある――。

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