第52話 渡辺と大人の授業

擦り切れた畳の棘が足の裏にチクチクと刺さる。赤く黒く染まった畳、少しでも気を抜けば犯罪者達に引きずり込まれそうな沼の上にいる気分である。精神がこれほどすり減るステージは、渡辺は初めてだった。


「これが大人の授業なのね」


 思わず、女口調になってしまう渡辺。今までのワルとも警官とも次元が違う。気を抜けば、一瞬で飲まれる。


 平塚は、着ていた上着を全て脱いた。ヨボヨボのただれた体がそこにはあった。とても何かの拳法の使い手には見えない、普通の初老の溶け出したロウソクの様な体。


「そんな体で、俺に勝てると思うのか?」


 渡辺は手加減無用の構えに入ると、平塚は子供を見下ろすようにフッと笑った。


「お前は、何も知らねぇんだな。本当にヤバい奴って言うのは変身するんだよ」


 変身?

 そう言うと平塚は床に転がっていた缶ビールを足で器用に拾い上げ、一気に飲み干した。

 その瞬間、渡辺は身の毛がよだつ寒気を感じた。何が危険か理解できなかったが、全身が危険を察知して固くなった。

 八つぁんはゲップを一回し、飲み干した空き缶を投げ捨てた。そして、もう一本、さらに一本。飲めば飲むほどに八つぁんのドス黒いオーラが五感にビンビン刺さる。

ワルとか正義とかそんな次元じゃない、何かヤバい物体に八つぁんは変身し始めていた。そう気付いたころには足は重い水につかっている様に動かない。畳の血が渡辺の足を引っ張って来た。

 完全に酔いが回った瞬間、平塚は「イテテテ」と肛門を抑え始めた。それは必殺技でも奥義でもない、八つぁんは純粋に痔なのだ。


「渡辺、お前、よく見ると可愛い顔しているじゃねぇか。えぇ?」


 ヤベェ。

恐怖の正体が解った。

八つぁんは酔うとムチャクチャ絡んでくるタイプなのだった。悪酔というアダルトワルの基本技だ。

 八つぁんはジリジリと渡辺との距離を詰めてくる。たまに「いって」と尻を抑えている。

 渡辺は、八つぁんに「こっちに来るな」とけん制のパンチを出した。ボコッと八つぁんの顔面をとらえた。その瞬間であった。


「いぎゃあああああああああああああああああああ!」


 突然、卵から生まれた様な悲鳴をあげる八つぁん。尻をさっきよりも抑えている。


「いだいいだいいだいいだい!」


 八つぁんは尻を抑えながら、畳の上に悶絶してしまった。

 この隙だ。戦闘としては最低だが、今のうちに後ろから、この化物を殺すしかない。渡辺は人殺しの禁をこの瞬間は解く事にした。


 やらないとやられる。


 渡辺は畳に蹲って「いたいいたいいだい」と泣いている八つぁんを後ろから羽交い絞めにし、いつも以上にガッチガチにアームロックを決めた。


 スマン、八つぁん。安らかにねむ……。


「甘ぇよ、坊や」


 完璧に入ったはずのアームロックをすり抜けられた。さっきの贅肉はフラグ。腹とかをへっこませると、意外とスリムなのね!

八つぁんが渡辺の腹に蹴りを食らわせた。完全に死角を突かれ、そのまま腹がくの字に折れ、吹っ飛ばされる。


 なんだ、今の動きは?


 渡辺は苦しみ悶えながら、自分以上に尻を抑えて悶えている人間の最果てを眺めた。


「いだいいだいいだいいだい!」


 八つぁんは痛がって暴れているが、時代に痔を痛がるスピードが、目で追うのが辛いほどに速くなっていく。ブックオフ小林よりも凄い速度で暴れている。


「いだいだいぢあいぢあいぢあ」


 八つぁんは再び、渡辺に向って突進してきた。渡辺はこの化け物を近付けさせないために、何発ものパンチを繰り出した。しかし、「いだいぢあいだいぢあい」と訳の分からない事を言いながら尻を抑えているこの初老に、ただの一発も当たらない。


 もはや逮捕されるべきはコイツだろと渡辺は思った。しかし、彼は警官。世の中理不尽だ。


「いだい!」


八つぁんは足払いで渡辺を畳の腕に倒し、その上から馬乗りになる。


「わ、渡辺ぇ……助けてくれぇ」


 八つぁんの目は完全に白目をむいて、口から唾液がドバドバ出ている。死ぬぞ、この人。

 渡辺は気持ち悪くて、逃げようとするが、腹と上半身を完全にロックされて身動きが取れない。マズイ。俺も死ぬ。


何かされる。


その時、渡辺は顔面に、とんでもなく臭いゲップをされた。最悪のオヤジだ。


「渡辺、お前、よく見るとカワイイ顔してるなぁ。いいなぁ、若いって」


 そう言われた瞬間、渡辺の唇に何かがふれた。その後、生臭い匂いが鼻と口に広がった。


 え?


「柔らかい唇だな、若いのは」


 今度は八つぁんの唇が渡辺の口に当たるのを、確かに感じた。あ、駄目だ。コイツ、あれだ。渡辺の脳裏は危険信号のレッドがブーンブーンと鳴りだした。


「わたなばえぇぇェェェ」


 ブチュブチュブチュブチュ。唇に八つぁんの唇が何度も触れる。顔だけ真っ赤な人形。渡辺の脳裏にあれが過り、疑惑が核心に変わった。

 あれだ……コイツ……ワルじゃない、悪魔、キス魔だ。それはキス(ポエム派)の渡辺とは対極をなす、キス(愛の挽歌)の行いである。


 キス。KISS。ケァス。


 これほど、恐ろしい拳は実はこの世に存在しない。

もし、素手で人を殴るとすれば、そこには『殴られた人間』と『殴った人間』が存在する。ナイフで人を刺しても、誰かが何かを攻撃すればそこには『被害者』と『加害者』が生まれるのだ。


 だが、キスは違う。


キスをするという事は、同時に相手にキスをされているのである。つまり『キスをする人』は同時に『キスをされる人』であるのだ。深淵を覗いている時、怪物もまた深淵からこちらを覗いているのだ。

 平塚源蔵に無理やりキスをされている今の渡辺は、平塚源蔵にキスをしているという事にもなるのだ。

しかし、警察の平塚源蔵はキスをしても、その罪を咎められない。だが警察の平塚にキスをしている渡辺は……平塚源蔵がキスをすればするほど、渡辺のキスの罪はどんどん膨らんでいくのだ。


 これが警察四天王『キス魔の平塚源蔵』の確実に犯人を逮捕する必殺技『ねぇ、して』である。


 ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!ブチュ!


 平塚に唇で床に押し付けられるたびに、渡辺の顔が畳の中へとメリ込んでいく。結構それが痛いが、渡辺の目はすでに死んだ。

全ての感情のヒューズを切って、ただ天井を見上げているだけ。そんな渡辺の頭には昼間見た『世界のレイプ史』の事が。あと『れいぷのじかん』も。

「俺もあの本の歴史の一つになるんだろうなぁ」と、思っている間も、唇にはドル紙幣がすられていく印刷機のスピードで八つぁんのキスの嵐が飛び込んで来ていた。


 ブチュ!ブチュ!ブチュ!


 渡辺はキスをされている間、「えぇ、昔から避妊をしてくれる強姦魔に悪い奴はいないと申しますが……」とよくわからない枕で落語を始めてみたりして、この地獄の時間が終わるのを待った。

 さっきのアニョーガ ジョージ君とお笑いコンビを組んでみたりもした。M-1の二回戦で敗退した。


ブチュ!ブチュ!ブチュ!


 渡辺は想定したより、キスの時間は十五分も伸びた。


 平塚の酔いが醒めた時、すでに渡辺の顔はその辺に捨ててあるマネキンの様に真っ赤になっており、顔は平塚の口紅の中に沈んでいた。


「これが現実だ。渡辺、お前じゃ俺の相手にすらならねぇ」


平塚はそう言って、ティッシュで唇を拭き、ポケットから手錠を取り出した。


「強制わいせつ罪でお前を逮捕する」


 渡辺はただ、天上を見ていた。瞬きもせず、ただ天井を。全身はスポンジみたいにフニャフニャで力が入らない。悔しくも無く、悲しくも無く、負けたという自覚も何も無い。


 ただ、「これが大人のキスなのね」と思った。

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