第50話 渡辺とアニョーガ ジョージくん(アラブ人)

「渡辺、頑張れ!」

「渡辺さん、あと少しです! 頑張ってください!」


 自信を取り戻した渡辺の、マッドセガール坂相手に一歩も引かず前へ進む姿に、周りにいた人々も心を打たれだした。それは、厳しい社会での日々で自分に自信を失っていた者達だった。


「甚平の兄ちゃん、腹痛なんかに負けるな! 俺もヤクザの仕事頑張るからよ!」

「アタシも彼氏にフラれたけど、また新しい結婚詐欺の相手を見つけるから! 漏らしちゃ駄目よ!」

「俺、アンタが漏らさなかったら、勇気を振り絞って国家機密を漏洩させるよ!」

「僕の会社、倒産寸前だけど。僕、鉄棒の逆上がりができるように頑張るよ、甚平のお兄ちゃん!」

「私も脱税しようか迷ってたけど。芸術のためなら脱ぐわ!」


 次第に渡辺が進んでいく後ろにはマッドセガール市民たちの応援の行列ができ始めていた。


「渡辺さん、もう自分を抱きしめる感じで! 自分が一番かわいいと思ってください」

「当たり前だ! 俺より可愛い奴がどこにいる! アイドルはウンコをしねぇんだ!」


 あんよがじょうず! あんよがじょうず! あんよがじょうず!


 その大合唱は、すでに百人近くの大合唱になっていた。


 渡辺もその声援を聞き、頭に『アニョーガ ジョージ』という十九歳のアラブ人(市場の生肉にたかるハエを追っ払うのが上手い)を思い浮かべ、便意を紛らわせることに成功していた。

声援は確かに渡辺へと届き、力となっていたのだ。


 そして、ついに渡辺はあの食い逃げ破りのマッドセガール坂を登りきったのだ。


「渡辺さん、さぁ、自分へのご褒美です!」


 小林の声に、渡辺は頷き、右に左に揺れながら個室トイレのドアをノックした。


 コンコン。


「はいってまぁーす」


 え……。

トイレの中から聞こえてきたその一言に、観衆は絶句した。あんなに苦労して登ってきて……嘘でしょ。


 嘘だ! 


渡辺がドアノブを引くが、鍵がかかっている。マジだ。天国への階段は崩れ落ち、渡辺は奈落の底へと堕ちていくように、その場にへたり込んだ。


「渡辺、そこでへたり込んだら邪魔だぜ」


 なんの空気も読まないモラル男、竜二が渡辺を便所の前からどかす。


「終わった」


 その場にいた誰もが心に思っていたが、口には出さなかった。

 渡辺は脳裏に死を悟った象の習性が流れていた。

象は、死期を悟ると群れを離れ、そして誰にも看取られる事もなく一人、ひっそりと死んでいくのだという。


「俺も、誰にも看取られず、孤独に漏らすしかないのか」


 渡辺は弱々しく、声を漏らした。「それ、ただの野糞だろ」と蓬田の制止が入った。野糞をしたら、警察に捕まりかねない。


「……まだ、次のトイレがありますよ、渡辺さん」

「えっ」


その声に渡辺、そして群衆は顔を上げた。


「小林……」

「ここまで来れたんです、渡辺さんなら絶対、次のトイレにもたどり着けます! 行きましょう!」


「小林……お前ってやつは……。ハートにズッキュンじゃねぇか!」


 絶望の淵に叩き落された、渡辺、蓬田、竜二、みかん組、通りすがりの人は、小林の一言に光を見た。そして、泣いた。


「そうだぜ、また次のトイレまで行こうぜ! 渡辺!」


 あたりから拍手が起こった。

渡辺もそこにいる人々全てが忘れていた、大切な真実を思い出した。この世界には人類のアナルの数よりも遥かに多い便器が存在しているのだということを。


諦める理由なんて何もない。


「話は聞かせてもらったぜ! 兄ちゃん達!」


 振り返ると、マフラー音を威嚇する動物のように轟かせ、あの坂道を登ってくる一台のハーレーがあった。


「あれは! オマルスクーター!」


 群衆は、全員同時に叫んだ!


『オマルスクーター』

 元々、時代の最先端を行くファッションにも敏感な赤ん坊達から「肛門括約筋を満足に閉められない我々でも、ちょっとそこまで行くのに便利な乗り物が欲しい」という要望があり開発されたバイクである。

スクーターの座席と荷台部分にオマルを付けた事によって下の処理も抜群で、スピードも三輪車以上、軽トラ未満の高速移動が可能である。

 赤ん坊の間で「バブバブバブバブバブバブ」と口コミで広まったオマルスクーターはその快適さから成人用も開発され、タクシーとして便意を催しながらも移動を余儀なくされたサラリーマンたちに好評な乗り物である。


「やった……」


 渡辺の心に過去に感じた事の無い達成感と便意があった。オマルスクーターは渡辺の目の前で停車した。


「礼はいらねぇぜ、にいちゃん……乗りな!」


 おおおおおおおおおおおおおおおお! 絶望の底から再び、歓声が突き上げてきた!

 渡辺はさっそく、甚平の裾を揚げ、股間を運転手が持って来た毛布で隠し、ハーレーの後ろに乗り込んだ。


「で、どこまで行くんだい?」

「快感まで」

「ひゅー!」


渡辺もここは粋なジョークで返した。

運転手はアクセルをふかし始めた。


「飛ばすぜ!」


 オマルスクーターは、ものすごいホイルスピンで渡辺の排便の音を隠しながら、あっという間に道の向こうに見えなくなった。

 渡辺を見送る群衆は、誰が言い出したわけでもなく「万歳三唱」でハーレーが小さくなって行くのを見守った。


「やったぜ、蓬田!」

「ああ。今回は小林に助けられたな」

「え、いや。僕は」

「何言ってるんだよ! お前のおかげで、渡辺は間にあったんだぜ!」


 と竜二は小林の肩に手を置いた。


「僕に触るなあああああああああ!」


 竜二は小林の拳を顔面に浴びて、吹っ飛んだ。

 蓬田が「やれやれ」とコメディのハッピーエンドのように、この物語を終えようとしたその時、間を壊すように携帯が鳴り出した。


「あぁ、蓬田か! 渡辺は、どうした?」


 蓬田は電話の向こうの髭男にも「やれやれ、心配性さん」と首を振った。


「安心しろよ。渡辺なら無事に、オマルスクーターに乗り込んだぜ!」


 蓬田の言葉に外野が再び「うおおお!」と沸いた。喜び、再確認。


「はぁ! ちょっと待て! 渡辺は、そこにおらんのか!」

「当たり前だろ? 野糞で地球便器化問題を引き起こす気か? 渡辺のエコが泣くぜ」


 蓬田のジョークに群衆は笑った。


「ばっかもーん! それは警察の白バイだぁ!」

 ……え? 携帯から漏れてきた髭男の声に、群衆は一気に静まり返った。

「渡辺は、どこ行ったんだ?」

「……いや、快感まで、すっ飛んでったけど」

「快感ってどこだ!」

「……地図には載ってねぇわ」


 蓬田は背中から冷や汗がドッと噴き出してきた。


 やられたぁぁぁ!

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