第37話 渡辺と竜二いなかった説

 翌日。

渡辺と蓬田は幼稚園にいた。他の園児達から「竜二はどうした?」と再三聞かれたが、二人とも顔を見合せて、口を開かなかった。


「竜二はどうした?」


渡辺が蓬田に聞く。


「お前こそ、竜二はどうした」


蓬田が返す。

 マズいことになった。あの部屋の中で今頃どうなっているのやら?


 一晩寝て冷静に考えると、とんでもない事をした事に二人は各々布団の中で気付いていた。ゴキブリのつがいを部屋に閉じ込めて、一年間ほかっておいた様な惨状になっているのではないか? 

二人は身の毛もよだつ恐怖にかられ、竜二を迎えに行く事無く、幼稚園に逃げ込むように登校してきた次第であった。

しかし、他の園児も、朝方は心配していたが、時間が過ぎるにつれ、誰も竜二の名を言う者はいなくなった。

 その理由はただ一つ。

楽しかったからだ。今まで小石が挟まってぎこちなく回っていた歯車が、たった一人の人間が消えた瞬間、一つの生き物として動き始めたのだ。

 クラスの話が盛り上がっても竜二が「でも、ちょっと待ってくれぜ……」と毎度、話を止めていたから下ネタが佳境に入る前に話が終わってしまっていた事に、みんな気付いていたのだ。

 一人一人が目いっぱいハシャぎ、誰のユーモアにも教室中から笑い声が上がった。

渡辺もここぞとばかりにハシャイだ。

尻を出し、後ろ向きに走り『お尻に追いつけないランナー』と言う一発ギャグを披露する。ランナーは自分のお尻に負けないように一生懸命後ろに走るが、どんなに頑張っても突き出しているお尻を追い抜く事は出来ない、というギャグであった。これがバカウケ。

 渡辺が必死で尻を追い抜こうとすればするほど、教室内の笑いは増大して行った。が、そんな楽しい一時は、蓬田の容赦ない一言によって風穴を開けられる事となる。


「で、渡辺。竜二をどうするんだ?」


 シーン。           シーン。          シーン。


 笑い声が全て石になってしまった。蓬田が容赦無い一言で現実に戻してきた。こいつは鬼か。


「お前、もしかして、助けに行かないつもりか?」


 蓬田は崩れ落ちた幻想に追い打ちをかける様、渡辺に追及した。


「蓬田。俺……助けたくない」


 楽園をその目で見た事で、半ケツの渡辺は思わず本音が出た。それを言ってしまってはクズ一直線である。子供。


「そんな訳にもいかないだろ! お前の抱えている案件だろ、小林は!」


 渡辺は、真顔で説教をしてくる蓬田が何を考えているのか全く理解できなかった。だって、今が楽しければそれでいいじゃないか。何で、竜二を助けなければならないのか。

追い詰められた渡辺は最後の手段で、思わず「てか竜二って誰?」と口をこぼした。


「本気で言っているのか、お前。竜二はお前の為に犠牲になったんだろ!」


 自分だって怖くて助けに行けなかったくせに。

渡辺は、面と向かって言ってやろうかと思ったが、言うとまた部下が引いてしまうと思い、我慢した。明るくて楽しい先生への道は、まだ続いていた。

『アプローチを変えよう』

渡辺は考える。

竜二はいらない。

この楽しい空気を壊したくない。

ずっとこの教室で『面白いひょうきんな保育士』として過ごしたい。て言うか、竜二が今、どんな目に逢っているのかを想像すると怖くて本気で行きたくない。


「なぁ、本当に竜二って男はいたのか?」


そして、考え抜いた末、渡辺の口から、とんでもない言葉が出てしまった。


「はぁ?」

「しかし、蓬田。もしかしたら、竜二と言うのは俺達の心の弱さが生み出した、幻想だったんじゃないのか?」


 渡辺のこの一言で、教室内がザワザワしだした。これは鬼手であった。


「お前、何言ってんだよ?」


 蓬田は呆れたようだったが、基本的に馬鹿が集まっている園児達の思考回路は常識では判断できない。


「渡辺さんの言ってる事、一理あるんじゃないか?」「確かに、竜二さんがいたって言う証拠は何処にも無いもんな」「ていうか、渡辺さん、この角度で哲学を導入して来たぞ!」 「まったく、絶えず進歩している人だぜ」


 渡辺の一言に教室中が湧いた。まさかの『竜二いなかった説』が有力になり出したのだ。

 この流れを逃す訳にはいかない。渡辺は、蓬田の両肩に手を置いた。


「話し合おうよ、蓬田」


 渡辺は、真剣な眼差しで蓬田を見た。「お前、ふざけんなよ」と言う顔で蓬田は睨んでいたが、目の焦点をズラす事で見ない事にした。


「た、確かに竜二なんて男、俺は知らないぜ!」


 新入りの家長のこの一言が『竜二いなかった説』を半分疑っていた者達の背中を押す事となった。そもそも家長は、渡辺以外の園児の名前をほとんど知らなかった。


 渡辺はここで真剣な討論を園児達に促し『竜二いなかった説』を支持するモノは部屋の左、否定するモノは右に集まる様に指示した。園児達はモーゼの海の様に真っ二つに割れた。

 そして、第一回目の開票結果。

 指示;一五人。

不支持;一五人。

蓬田擁する不支持派、渡辺擁する支持派に別れ、討論が始まった。

 渡辺には討論の発起人のはずの家長が、何で蓬田の横に座っているのかが理解できなかった。あんなに仲良かったのに。改めて見ると、何なんだあのアホな顔は。

 渡辺にとっては、たった一人、蓬田の方から寝返らせればいいだけの簡単な仕事であった。それだけで、さっき思い付いたギャグ『オシッコを追い抜く男』がやれる。ギャグの方向性がワンパターンな渡辺であった。

 しかし、蓬田が『写真』というまさかの証拠を園児達に見せた事で、渡辺の狙いは脆くも崩れ去った。笑顔の渡辺と肩を抱いて映っている幸せそうな竜二の姿がそこにはいた。


「うそだ! 合成だ! 心霊だ!」


一人最後まで抵抗した渡辺だったが、最終的に渡辺を指示する人間は斉藤一人だけになり、結果は……。

 指示;二人

不支持;二八人

 圧倒的大差によって渡辺は敗れ去った。こんな時に竜二がいれば、きっと最後まで渡辺の説を指示してくれたに違いない。渡辺はそう思い床を叩いた。


「くそっ! 竜二がいれば!」

「ほら、その竜二を助けに行くぞ」

「いやだ!」

「行くんだよ、クズ野郎!」


 渡辺は「いやだ!」と抵抗しながら蓬田に引っ張られ、興味本位で付いてくる家長と三人で小林のアパートへと向かった。

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