第35話 渡辺と建物探訪

 アパートのギィギィ鳴る古い木の廊下を歩いていく。

どの部屋の前にも新聞の山や、店屋物の空いた丼などが置いてあり、渡辺は「雰囲気のある建物だ」と、そのノスタルジックさに考えを改め、好感を持った。それと同時に「でも住むのは死んでも嫌だ」とも思った。

入って左から三番目の小林の部屋をノックする。返事は無いが、鍵すらついていない木の戸をあけると、小林は布団を抱きしめで自分の体の匂いを嗅いでいた。


「久々だねぇ。もう放さないよぉ」


 荒い息で布団とイチャイチャする姿を見た渡辺達はさすがに引いた。コイツは本物だ。

 想像を絶する強敵に大きく唾を飲んだ。コイツはもう手遅れだろ。渡辺の脳裏には「もう、殺すしかない」と、すでに更生を諦める選択が浮かんでいた。


「おい、小林」


 蓬田が電気をつけると、小林は指で触られた魚みたいに飛び起きて来た。


「な、何なんですか、アナタ達は!」

「何なんですかじゃねぇよ! 勝手に出て行きやがって!」


 まだ夕方前だというのに、日が入らず暗いジメジメした部屋だった。小林の写真やポスター、等身大の観光地に置いてあるパネルなどが、四畳半に所狭しと置かれ、小林博物館という塩梅であった。

額縁には、小林と小林の名前が書かれた婚姻届、机の上には便箋と赤い水性ペン。ゴミ箱には情熱的に書いたは良いけど、出すのが恥ずかしくて捨ててしまった、小林が小林に宛てて書いたラブレターが捨てられていた。

 鏡には「五秒以上見るな!」と警告文が書かれていた。

後で小林に警告文の意味を聞くと、「以前に鏡に見とれて、目が離せなくなり、餓死寸前のところを大家さんに救出された」のだという。どこまで好きなんだ。

 渡辺は足元にあった薄い本を手に取って、ページを開いた。素っ裸の小林と小林がアンナ事やこんな事をしているシーンが延々に描かれているよく解らない漫画であった。


「なんだぜ、これ?」


 渡辺は横で見ていた竜二に尋ねた。すでにドン引きしている竜二。


「それは薄い本って奴だろ?」


 蓬田が後ろから言ってきた。


「薄い本?」

「何でも、漫画や映画のキャラクターのそう言うのを描いて売るんだと」

「蓬田、詳しいぜ」

「これくらい常識だろ」


 ほう、常識か。渡辺はページをめくっていく。小林が小林によって小林にされていく。まるで蛇が自分の尻尾を食べながら前進していくような不思議な戦慄が渡辺に走り、「満足!」という評価をくだし、「さて、これは没収だ」と甚平の中にしまった。

 竜二と蓬田は部屋中を見渡して、眉間に皺を寄せる。


「何でこんなに自分が好きなんだ、コイツは?」

「当たり前だ、僕だぞ!」


 意味が解らん。


「この世で僕が愛する人間はただ一人、僕自身のみだ……だけど」


 小林はそこで声の抑揚が落ち、舞台俳優みたく沈んだ表情に変わった。


「最近、心配な事があるんだ」


 渡辺は窓を開けた、錆びで触るとベタベタする柵があるだけだった。その上に白い雲の様なパンツが干してあった。その向こうには突き抜ける青空。「なるほど、男の子だ」と渡辺は一定の評価を下した。


「つまり、最近、僕は避けられている気がするんだ」

「誰にだ?」

「僕にきまってるだろ」


 竜二と蓬田は顔を見合せた。


「小林、二度目だが、どうも理解できないんだ」

「……しょうがない」


 小林は窓際に腰掛け、足を組んだ。そして、再びシカゴを眺めた。


「君達は人を愛した事があるかい?」

「ない」


渡辺は即答した。バイト先の女子大生、紗栄子さんなど、すでに遠い昔。


「愛、それは……孤独」


 そう言って小林は、潤んだお目目で渡辺達を見た。そして薔薇の匂いを嗅ぎ、「はぁ~」と大きなため息をついて、目を閉じ、こう言った。


「以上!」


 説明終了。


「だから、その説明じゃ解らねぇっつーの!」

「愛を知らない者に、この気持ちを伝える事は出来ん! 帰れ! お前達に、逆上がりができない者の気持ちが解ってたまるか!」


 渡辺が「逆上がり?」と聞いた。

小林は、股間が近づいてきて、思わずシャブリついてしまうから、逆上がりができないんだとか。可哀想な象さん。


「渡辺はな、お前の更生を園長から命じられてるんだぜ!」

「ふん、渡辺? 何だそれは。くだらん」


 渡辺は鼻で笑われた。渡辺と言う事を笑われてしまった。ショックを受ける渡辺。何がいけなかったのか。


「テメェ! 渡辺を馬鹿にするのは許さないぜ!」


 渡辺よりも先に竜二が噛みついた。


「下らん。たかだか渡辺ごとき、愛の前では無力なのだよ。渡辺の相手などしている暇は無い。早く、自分自身との関係を修復しなければ、いけな……」


 ばごーん! 小林のアゴに、目にも止まらぬ速さの火の玉が飛び込んできた。


「ぐっぶぉえい!」


 小林は、避ける間もなく、そのまま床に崩れ落ちた。


「渡辺を馬鹿にするんじゃねぇぜ!」


 竜二は、倒れた小林の上に馬乗りになり、二発三発と顔面に拳をブチ込んで行った。あの、マッドセガールの園児が束になっても敵わなかった相手を竜二が一人でボコボコにしていたのだ。


「竜二、止めろ」


 蓬田が止めに入る。


「なんだぜ、蓬田? 俺とやるぜ?」


 竜二は馬乗りになったまま、止めに入ろうとした蓬田を睨み付けた。


「ひぃ!」


蓬田は竜二の顔を見て、悲鳴をあげた。目に血の稲妻が走り、もはや竜二では無かった。竜二は普段は雑魚だが、渡辺を馬鹿にされた時に限っては、渡辺ですら手が付けられない野獣と化すのであった。

 竜二はその後、「小林をジャイアントスイングをする」とワガママを言い出した。部屋は四畳しか無いのに。

 蓬田は「それは、さすがに」と竜二を止めようとする。渡辺はメジャーで、部屋の広さと小林の身長を測って「竜二さん、無理ですね」と伝えた。冷静。


「馬鹿野郎! 渡辺が馬鹿にされて、黙っていられるか。俺は投げるぜ」

「えぇ! 本当に投げるんすか!」


渡辺はADみたいな口調になっていた。

言って聞かない竜二は、本気で小林を投げようと両足を持ち上げた。

 このままでは小林の頭はバッコンバッコンと壁にぶつかり、敷金が帰ってこなくなる上に、死んでしまう。二人は「竜二さん、どうか今日の方はその刀をお収めください」と土下座して、竜二にお願いした。


「拳を収めるだぁ? 渡辺、お前は渡辺本人だぜ! 自分が馬鹿にされてるんだぜ! 悔しくねぇのか!」

「悔しいです! それはもう、悔しくて悔しくてたまりません! されど、殿っ!」


 渡辺は額を床に付けながら竜二にお願い申す。何で謝っているのか解らない渡辺だった。

 その後、竜二に「お前は渡辺である自覚が無いぜ! もっと渡辺としてのプライドを持つぜ!」と説教をされ、挙句には「今のお前に渡辺の名は使わせられないぜ」と渡辺の名を剥奪される渡辺。ショックを受け、途方にくれる渡辺。

 蓬田が「『渡辺』は暖簾分けとは違うんだ」と説明しても聞く耳を持たない竜二であった。


 渡辺は渡辺の名を使うことを許されなくなった。

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