第16話 渡辺とバイトリーダー
翌日。
渡辺はむさ苦しいひげの森こと、園長こと、髭男の部屋、つまり園長室に呼び出された。
「剃れ、髭」
「開口一番がそれか。座れ、渡辺」
「剃れ」
「座れ」
「俺は忙しいんだ」
ソファの上に寝転ぶ渡辺。
「……ワルモンが出た」
何っ! 渡辺は身を乗り出した。そして、そのまま部屋を後にしようとした。
「おいおいおい。何で出て行く! ワルモンだぞ、お前の本業はなんだ!」
このフェイントには流石に驚いた髭男、必至で渡辺を制止させる。
「俺は今、ワルに忙しい。ワルモン退治なら、他を当たってくれ。じゃあ、シフトだから」
そう言って、渡辺はやっぱり出て行った。そのまま戻って来なかった。
その後、園長室に蓬田と竜二が呼び出された。
「アイツは、何を考えてるんだ?」
激高する髭男に、二人は顔を見合わせ、口を揃えて言った。
「俺らにも解らん」「ぜ」
「解らんってお前らの先生だろうがアイツは! なんで責任を持って面倒みないんだ!」
怒りが収まらない園長に、蓬田は「そっすね」と気の無い返事をした。
渡辺はその日もバイトに励む。もうレジを間違える事は無かった。今、思えば初日は何をあんなに慌てていたのだろうか?
優しいお客様。尊敬できる先輩達。憧れの女子大生。吹き溜まりマッドセガール工業幼稚園には無い世界がそこにはあった。
その日のバイト終わり、渡辺はいつも通りに更衣室で「辞める辞める」言いながら着替えていた。今日も頑張って金を巻き上げたぞぉ。
「渡辺」
えっ? 少女漫画のような声が出た。呼んだのは、怖くて今まであまり話した事が無かった先輩であった。
「店長が呼んでるから、ちょっと来い」
……なるほど。
その言葉を聞いただけで、渡辺は「いよいよ、おいでなすったか」とおもむろにズボンの中の匂いを嗅いだ。アルバイトなどという凄いワルを行う奴らだ、覚悟はしていた。
臭くない。
渡辺はホッとして「解りました」と先輩と店長の元へと向かった。「何でパンツの匂いを嗅いだんだ?」と道中、先輩に聞かれた。渡辺はとぼける先輩の頬っぺたを「言わすなよ」のリズムでチョンチョンした。
「何を考えてるんだ、お前?」
「え?」
先輩の意外な反応に驚いた。違うの?
渡辺は「じゃあ、俺は何で呼ばれたんだ?」とやっと不安になり出した。
店長の部屋で待ち受けていたのは、渡辺の想像の遥か下の出来事であった。
「実はね、渡辺君。最近、店の売り上げが実売と全然合わないんだよね」
「へぇ」
「何がおかしいんだろうねぇ、渡辺くん?」
「お前の頭だろ」
店長と先輩は、パソコン画面を覗きこんでいる。
渡辺は「何で自分が呼ばれたんだろうか?」と思いながら、ボーッと素振りしながら立っていた。
「それでね、渡辺君に聞きたいんだけど。ちゃんと言われた通りにレジ打ってる?」
「なに? どういう意味だ!」
「君は新人でミスも多いだろ? ひょっとしたら最後のレジ確認で数字が合っていないのに、そのままにしてたりするんじゃないかなぁって」
「テメェ、俺のワルを侮辱する気か!」
渡辺は店長の言葉に、思わず怒鳴ってしまった。ワルにはいつも真面目だ。最初は確かにミスが多かったが、自分なりにちゃんと仕事をして来たつもりであった。最近は周りの先輩からも褒められ「自分は信頼されているんだ!」と自信が出てきた矢先なのに……。
「渡辺君、どうかな? ん?」
店長の声が遠くに聞こえた。悔しい。俺は信用されていなかったんだ。ワルが未熟だったのか。
渡辺はすでに泣いていた。
「俺は、生まれて来ちゃいけない子だったんだな!」
あまりの悲しさに思考は物凄い速度でオーバーラップしていた。誰もそこまでは言ってない。
「店長、渡辺はちゃんとやってますよ!」
「え?」
渡辺はその声に涙を拭いた。誰?
「俺が終わった後にちゃんと確認してますけど、渡辺は間違いはしてません!」
言ったのは、なんとあの怖い先輩であった。
「本当かい、それ?」
店長がメガネをくいっとやった。
「というか、渡辺を疑われるのは、一緒に仕事して来た俺達も疑われているみたいで、正直、気分が悪いんでやめてください!」
「先輩……」
渡辺の頬を涙がつたった。いつも怒られてばかりで怖い先輩だと思っていたのに、「マジで埋まればいいのに」とか思っていたのに、ちゃんと自分の事を見ていてくれたのだ。
「渡辺、泣かなくて良い。お前は悪くないんだ!」
渡辺は泣いていたが、この言葉は腑に落ちなかった。いや、ちゃんとワルしてるだろ。
「先輩……」
それでも渡辺は感激で涙が止まらなかった。
「どうかしたか、渡辺?」
「キスして」
渡辺のその一言で、その場はお開きとなった。渡辺の疑いは晴れたが、謎の帳簿が合わない事件発生であった。先輩から「原因が解らんので、お前も調べてくれ」と直々に特命を授けられた。
渡辺も拳を握って、この姿なき敵に戦いを挑む決意をした。
アルバイト、一縷の隙もない見事なワルだ。このワルをつまらぬ行いで邪魔している野郎がいる。とんでもねぇ、野郎だ。
「この謎は俺が解決してみせますよ! ワルを邪魔する奴をとっちめてやる!」
と、渡辺は更衣室で大見得を切って、バイト全員を沸かせた。そして「開! ケツ!」と叫び、シジミのようにつぶらな肛門を皆にみせて「お奉行様ぁぁ!」とさらに更衣室を沸かせた。既にみんなの人気者だった。
翌日。
幼稚園終了後。足にしがみ付いて追いすがる竜二に、容赦のない蹴りの嵐を食らわし「俺はバイトに生きるんだよ!」と唾を吐く渡辺。
「で、でもよ! オルガンの練習してくれよ! あと園長先生が今日も呼んでるぜ」
「俺はあの先輩に着いて行くって決めたんだよ! 園長には『剃れ or 死ね』と言っておけ!」
と、捨て台詞とツバと、園児みんなへの投げキッスを残し幼稚園を後にした。
他の園児達も「何があの男をそこまで駆り立てるんだ?」と不思議に思っていた。たかがバイトなのに。
その後、竜二と何人かの手下がスパイを兼ねて渡辺のバイト先の古本屋に向かった。
「渡辺、様子を見に来たぜ!」
「あ、竜二様、いらっしゃいませ!」
さっきまで蹴りを食らわしていた相手が店に来たのに、渡辺は己を殺し、竜二に笑顔で頭を下げた。
それを見た手下数名は「リュ、竜二さんに敬語って」と何か気持ち悪くなり、店の便所でゲロを吐いた。「ゲロ、ありがとうございます!」と、それの後始末をしに来たのも、雑巾を持った渡辺であった。
「存分にゲロを吐いてください! 僕が受け止めますので!」
渡辺は汚くなった雑巾を片手に、笑顔で手下に頭を下げてトイレを後にした。完全にプロのアルバイトであった。
その日を境に「あれは、見てはいけない渡辺だぜ」と竜二も「生きるための軸がブレるぜ」と言う理由でバイト先には近づかなくなったという。
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