ビコーズ・ラブ・ユー 5

 花束を持って、病室へ足を踏み入れる。花瓶を探すべきであったが、そんな気分にはなれず、ジュナは手近にあったテーブルに花束を置いた。


「アウルか」


 ベッドから、グレンの声がして咄嗟とっさに顔を向けた。彼は静かに、じっとしたまま、天井を見上げていた。


「う、うん。声、聞こえてた?」


 伝えてくれと預けられた言葉を、心の中で握り締める。このまま潰して、なくなってしまえば、どんなにいいだろうかと思う。


「ああ、聞いてた」


 けれど、そんなことは、できないのだ。


 ジュナはベッドの傍まで歩み、背の低い丸椅子へ腰を下ろす。グレンの顔にアッシュグレーの髪が付着しているのを見つけ、払って取ってやった。


「アウルさんが、神竜賞しんりゅうしょうで待ってるって」


「そうか」


 グレンは嬉しそうに、幸福そうに笑んだ。それが、あまりにも素敵に映ったものだから、ジュナの胸中で心臓が飛び跳ねた。


 そんな顔、やめてほしい。言えるものも、言えなくなってしまう。


「ジュピター、俺以外は乗せなかっただろ」


 グレンの目が、ジュナへ向いた。ブラウンの瞳には、答えが分かりきっているという自信が溢れている。


 強気に言って出て行った手前、正直に言うのは悔しかった。自分にできることはないのだと思い知らされたようで、認めたくなかった。


 グレンがジュナを見つめている。言葉を待っている。


 その純粋な瞳の前で隠し通すなんて、不可能だった。


「ジュピターがね、相棒はグレンだけなんだって」


 ジュナは降参して、仕方なしと口元を緩ませた。グレンが満足そうに笑う。


「あいつめ、俺の前では、なんとも思ってないようにいるくせに」


「きっと、照れて言えないのよ。あなたは、言えるの?」


「レース中なら、言えるぞ。普段は、まあ、言えないな」


「ほら」


 二人で吹き出す。笑い声が病室を満たす。


 こうやって笑い合える日が一年後も二年後も、その先も、ずっとあれば、よかった。彼の傍にいて、美味しそうに食事する姿や、おどけて笑う顔、戸惑って困ったり、頼もしく頷いたり、照れて、はにかんだり。何気ない日常を、彼と過ごしていきたかった。


 それは、叶わない夢かもしれない。


 グレンが表情を引き締める。純真なブラウンの瞳が、真っ直ぐにジュナを捉えている。


「俺は、神竜賞しんりゅうしょうに出たい。これを乗り越えないと、この先、生きていけない気がするんだ」


 グレンは落ち着いた口調で言った。彼自身が死の宣告を受け入れているようで、分かっていてもジュナの心が悲鳴を上げる。


神竜賞しんりゅうしょうにはヴォーダンだけじゃない。さっき、バルカイト・オルニエスが、エテルネルグランツと出場するって表明したわ。また、なにかを仕掛けてくるかもしれない。危険よ」


「だからこそ、だ。俺は、六年前の決着をつけなくちゃいけない」


 グレンの瞳は、変わらず煌めいている。綺麗に輝いて、胸を締めつけてくる。


 彼の意志は固い。止めるのに、一縷いちるの望みもないだろう。それでも口を動かさずには、いられない。


神竜賞しんりゅうしょうに出なくたって、真実を公表することはできる。カラさんが協力してくれているんだもの。マリーさんだって、ドラゴンレース界での権力者じゃない。私も、なんだってする。あなたが命を懸けてまで出なくたって、仲間たちが助けてくれるじゃない」


 言いながら、視界が滲んでいるのを認識した。


 グレンが眉根を寄せ、苦しそうな顔をする。そんな顔をさせたくないのだと、ジュナは目元を掌でこする。


「ねぇ、グレン」


 呼びかけたとき、伸びてきた手が、こする手を止めた。


「俺は、あの日の神竜賞しんりゅうしょうに、大切な何かを置いてきてしまったんだ。ずっと、そんな気がしてた。忘れ物を取りに行きたいんだ」


 涙で濡れた手が、大きくて骨張った指に握り込まれる。


 ジュナは、グレンの顔を見てしまった。


 ブラウンの瞳は澄んでいて。頬は綻び、穏やかで。口元はわずかに曲がり、美しい線を描いて。


 彼は今までで一番、優しくて、柔らかくて、格好良くて、愛おしい顔をしていた。


 調教師として判断するなら、許可しないだろう。友人として考えるなら、やっぱり止めるだろう。ただの同居人だったとしても、きっと止めたはずだ。


 でも、ジュナには止められなかった。ジュナは調教師としてでなく、友人でもなく、ただの同居人でもなかった。


 彼を愛する者として、傍にいたのだから。


「お願いよ、グレン。ちゃんと帰ってきて」


 彼に、お願いなんて、なんのお守りにもならないだろうけれど。


「約束する。絶対、帰ってくる」


 約束なんて、絶対なんて、不確かなものでしかないけれど。


 二人の手は、強く結び合っていた。ここが在るべき場所なのだと主張するように。

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