ヴァレイシャス 2

 五月に入り、ドラゴンレース界は徐々に熱を高めていった。


 月末には、ドラゴンレースの祭典たる神竜賞しんりゅうしょうがある。栄誉や伝統の前に、お祭りなのだ。俄然、関係者に気合いが入る。


 どこか騒がしい竜舎りゅうしゃ区画を、グレンは上機嫌で歩いていた。向かう先は、ウォーディ竜舎りゅうしゃだ。


「よう、相棒」


 グレンが屋舎の前で声をかけると、すぐに漆黒の竜が顔を出した。彼は鼻をヒクヒクとさせ、グレンを、正しくはウインドブレーカーのポケットを嗅いでいる。


 ジュピターの顔が、ぱっと華やいだ。彼は手足をじたばたさせ、早くしろとグレンにせがむ。


「兄弟揃って鼻が良いな」


 笑って、ポケットから一個のリンゴを出した。ジュピターが歓喜の鳴き声を発する。


 グレンはリンゴを放った。赤い果実は宙を舞い、大口を開けて待つ竜の元へ。ぐしゃり、ぐしゃり。甘い果汁を飲み込んで、漆黒の竜が幸せそうな顔をする。


「もう、また勝手にリンゴあげて。果物は太りやすいんだからね」


 背後から、尖った声音を投げられた。振り返れば、眉根を寄せ文句たっぷりの目で仁王立ちするジュナ。


 グレンの胸が高鳴る。ジュピターにリンゴを与えるのは口実で、本当は彼女の顔が見たいだけなのだと言ったら、どのように思うのだろうか。


「だって、ジュピターが欲しいって」


 グレンは嬉しさを隠すのに、口元へ手をやりながら応える。反省の色がないと悟ってか、ジュナが詰め寄った。


「だって、じゃないの。いい? カロリー計算も、ちゃんとしてるんだから、勝手にあげられちゃ困るの。ザムさんの言う通りね。グレンは、ペットにオヤツをあげる父親並みに勝手にあげるから気をつけろって」


 ジュナは唇を尖らせる。これは、まだまだ余裕のある怒り方だ。彼女が師と同じく鬼のような顔をしたら逃げるべきだが、今は可愛さを堪能していい。


「なんつう例え方なんだ。ザムじいさんの方が、勝手にやる厄介なじいさんなのに」


「ザムさんは、いいの」


「なんだよ、ひいきかよ」


 グレンは、あからさまに落胆してみせた。


「やめて、笑っちゃう」


 眉根を寄せていたジュナの表情が、ほぐれる。彼女は小さく笑いを吹き出す。それでも堪えようと、眉根を寄せようとするが。


 抵抗虚しく、ジュナは美々しい笑い声を上げた。


 笑わせたいんだよ、もっと。心の中で、グレンは囁く。端麗で男を惚れさせるような笑みは、自分の前でだけが望ましいが。


 不意に、ジュピターがグレンの腕をつついた。彼は牙の間からよだれを垂らしながら、ポケットの中身を気にしている。当然、そこには、もう一つのリンゴが隠れている。


「ジュピター、ごめんなぁ。ジュナがダメだって」


 グレンは身体からだを引いて、相棒からリンゴを遠ざけた。


 がん。そう表現しても相違ないだろう驚きで、ジュピターの目と口が大きく開く。


 漆黒の竜はすぐさま、狙いをジュナに定めた。瞳を潤ませ、か弱そうな情けない表情で見つめる。


 こいつ、竜のくせに、捨てられた子犬のような目を会得していやがる。


 ジュナは、う、と精神的打撃を受けたような、短い呻きを零した。調教は強気で厳しくても、基本、竜に対して甘い彼女である。耐えられるなんて幻想だ。


「…………グレン、あげて」


 見事、漆黒の竜は、優秀な調教師を陥落させた。彼はグレンが放ったリンゴを、幸せそうに頬張る。


 なんて力技だ。捨てられた子犬のような目、教えてくれないものか。


 しゃりしゃり、とリンゴを噛み砕く竜を、二人で眺めた。最近、相棒の調子が良い。食欲旺盛で、調教を行うほどにタイムが良くなり、体は一層、引き締まった。


「ジュピターは去年のうちに成長しきったと思っていたけど、最近になって成長しているのよね。まだ成長途上なのかも」


 漆黒の竜を見つめるジュナは、優しい表情をしている。彼女はジュピターのために、竜調教師試験を五年で突破したほどだ。愛着という言葉だけでは説明できない情の深さがある。


 ふと、グレンの中で疑問が産声を上げた。そもそも、彼女は、どうして調教師を目指したのだろう。神竜賞しんりゅうしょうで事故が起こる前の話だ。


 興味が湧いたら、訊くしかない。雰囲気の良い今なら、聞き出せそうな気配がある。


「なぁ、ジュナは、どうして」


「クリンガーくん」


 穏やかな空気に、角張った声音が割って入った。二人は、共に振り返る。


 長身ちょうしん痩躯そうくの男だった。ダークブラウンの短髪、両目の上から後頭部まで線状に入った金色のメッシュ。耳の下から顎先まで生やしている髭は、野性味というより洗練された色気があり。


 調教帰りなのだろうか、高級ブランドのトレーニングウェアを身にまとい、ヘーゼルの瞳でグレンたちを見据えている。


「オルニエス、さん」


 グレンは呟いた。ザムとの会話が蘇る。


『バルカイト・オルニエスだ。あいつが、おまえとゴルトに接触したライダーだ』


 酷く、喉が渇いていた。呑み込めそうな唾も、ない。グレンは佇んだまま、バルカイトの動向を見つめる。


 すると、彼は、柔和で穏やかな表情を浮かべた。


夢見月賞ゆめみつきしょうでは、きつく当たってしまって、すまないね。許してくれとは言わない。憧れだって言ってくれている君に、酷いことをしてしまった」


 バルカイトは、民衆へ向ける真摯さと何一つ変わらない態度で、グレンと向き合っていた。


 彼の表情が、切羽詰まったように歪む。


「俺はね、引退を決めたんだよ。だから、今日はお願いがあって来たんだ」


 突然、バルカイトは深く頭を下げる。


「今週末、レースの依頼を引き受けてくれないか? 君にしか頼めないんだ」


 頭を下げたまま、トップライダーと称された男は懇願する。


 グレンとジュナは困惑のまま、互いに顔を見合わせた。

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