第十五話 ヴァレイシャス
ヴァレイシャス 1
暗がりに、テレビ画面の明滅だけがあった。
時計の針は夜中の十二時を回り、シーラッド夫人宅は静まり返っている。家主は眠ってしまったが、リビングには人の気配が残っていた。
グレンは、小さく溜め息を吐いて近づく。リモコン片手にソファーで陣取り、大量の映像ディスクに埋もれる彼女の隣へ腰を下ろした。
「もう、寝た方がいい」
別室だが寝ている家主を気遣い、潜めた声で話しかける。ジュナは、うん、と、気のない返事をした。
これは、寝るつもりがないときの声だ。グレンは諦めて、テレビ画面を見つめた。
ヴォーダンの身体能力を見たジュナは、自身の分析が甘かったと反省し、あれから何度も繰り返しヴォーダンのレース映像を眺めている。責任感ゆえに自分を追い詰めてしまう、彼女の悪い癖だ。
寝かせた方が良いのは、分かっている。無理をさせたくないとも、思っている。
けれど、ここで納得できるまで努力しなければ、一生、後悔するのだと理解していた。
クラウンレース、第二戦目。ドラゴンレースに携わる者であれば、誰も彼もが夢に見る舞台。栄誉と伝統の祭典。今年、最も神に愛された竜を決める戦い。
ヴォーダンが
しかし、世間の関心などは、どうでもいい。
自分たちには戦う意志がある。負けたくない意地がある。諦められない想いがある。それが全てだった。
「ずっと前から気になっていたんだけど、なんか、違和感あるのよね」
テレビ画面を見つめながら、ジュナが小首を傾げて呟いた。彼女は気になるらしい箇所を、リモコンを操作して繰り返し再生している。
「違和感?」
「うん。どのレースも、ヴォーダンは、初めから全力を出す気がないみたいなの」
「それは、全力を出さなくても勝てると計算したからじゃないか?」
「そう、そうよね。そうなんだけど……」
ジュナが眉根を寄せる。彼女の引っかかりが何か、グレンも気になって、テレビの映像を注意深く観た。
映像は、綺麗に整えられた海岸線を映し出している。これは、ケイシュレドだ。ルーキーイヤーステークスの映像だろう。
レースがスタートし、漆黒の弾丸が飛び出す。
陸地が途切れ、竜たちは海上へ飛翔する。ここでも、ジュピターは大差をつけて先頭を飛んでいる。
すると、群れの前に白い影が抜け出てきた。ヴォーダンだ。先頭を飛んでいたグレンには把握しようもないが、案外、早くに、ヴォーダンはジュピターの猛追を始めていた。
純白の竜は羽ばたくことなく、するすると漆黒の竜へ近づく。その瞳に紅い煌めきはない。本気を出していないのだ。
とうとう、ジュピターが捕まった。アウルの手元が動いて、純白の肢体はひねりながら鋭い螺旋を描く。前へ飛び抜けた純白を、漆黒は追えない。突き放され、眺めているだけ。
改めて振り返ってみれば、全くの力負けであった。ヴォーダンは力む様子がないし、アウルの手元だってバレルロールのときくらいしか。
そこで、グレンの両目が見開いた。
「ジュナ、リモコン借りるぞ」
グレンは映像ディスクを掻き分け、ジュナへ寄り、細い指からリモコンを奪う。彼女の細身が驚いて退き、瞬きつつ視線が送られるのを感じたが、構わず映像を早戻しした。
本日、何度目かのルーキーイヤーステークスが始まる。飛び出すジュピター。追うヴォーダン。アウルの手元は、最小限のみ動く。
あの手元の動きに見覚えがある。それはライダースクール時代、身に染む込むまで練習したもの。アウルやコクと競った、熱い思い出。
グレンは確信を以て頷く。
「やっぱり、そうだ。普通、追いかけるとき、手綱を操ったり竜の首を押したりして、ライダーの手は激しく動く。なのに、アウルは、あまり手を動かしていない。これはレースに勝つための操縦でなく、ラップタイムを守るための操縦だ」
グレンの言葉を受け、青い瞳が驚きで揺れた。
ライダーは、レース中のペースを計るため、正確な体内時計を求められる。そのため、ライダースクールでは、一キロメートル通過ごとのラップタイムを定め、その通りに飛行する訓練を行う。
アウルの手元は、ライダースクール時代にグレンが見ていた動きそのものだった。
「ヴォーダンのラップタイムを計ってみよう」
グレンは携帯電話から、ストップウォッチ機能を呼び出した。この機能には、お世話になったものである。
もう一度、スタート時まで映像を戻した。レース開始に合わせ、グレンの指が動く。その後も、ヴォーダンがゴールするまで計り続けた。
計り終えて、グレンは携帯電話へ視線を落とす。予想した通り、全て同じ数値が表示されている。が、その内容に、天を仰ぎたくなった。
「一キロメートルあたりのラップタイム、三十六秒だって? ラストスパート並みじゃないか。なんてペースで飛んでんだ」
同じラップタイムを刻み続けるアウルも凄まじいが、ハイペースで飛び続けるヴォーダンも恐ろしい。敵の脅威さを認識するばかりの結果だった。
「でも、ラップタイムを守って飛んでいたからって、結局は速いってことよね? 途中、どんなペースで飛んでいても、ゴールしたときのタイムが速ければ勝ちだもの。最初が速くても、最後が速くても、全て同じでも、合計値は変わらないし」
「まあ、そうだよなぁ」
グレンはリモコンを放り投げ、ソファーの背もたれに体重を預けた。
ラップタイムを守って飛行するメリットは、マイペースを維持してレースを進められるということだ。マイペースで飛行できれば、精神的にも、体力的にも、最後を踏ん張れるだけの力を蓄えられる。
しかし、それを知ったところで、グレンたちに何ができるのか。ラップタイムが均一であろうが、なかろうが、ヴォーダンのレースタイムが速いことに変わりはない。ただ、それを思い知らされただけで、突破口にはならない。
純白の竜は、
元から、勝ち目のある戦いではなかった。善戦しているだけ、マシなのかもしれない。
「あれ?
グレンからリモコンを取り返したジュナは、別の映像を観ていた。降りしきる雨、荒れる海原が見える。
「そりゃ、そうだろ。最後、ヴォーダンは抜かれて本気を出したんだ。負けるのに比べたら、ラップタイムを守ろうなんて関係な……」
はたと、グレンの唇が止まった。
負けるのに比べたら、ラップタイムを守ろうなんて関係ない。その一文が、心に不思議な取っ掛かりを作っていた。
グレンはまた、ジュナからリモコンを奪う。今度は驚かれるでもなく、単に抗議の視線を向けられたが、何かを掴めそうで気にしていられない。
漆黒と純白が並び、最後の最後、純白が抜け出した。そのまま、決勝線を飛び抜ける。
グレンは携帯電話の表示を見た。終盤まで秒数が均一に刻まれているのに、最後の一キロメートルだけが速い。
「グレン?」
携帯電話を見たまま静止するグレンへ、困惑気味にジュナが話しかけてきた。グレンは、がばりと身体を寄せて彼女の両肩を掴む。
「見えたかもしれない、勝機が」
グレンは喜色満面で言った。ジュナが困り顔で、頷く。
「し、勝機?」
「そうだ。
ジュナの顔が、益々、困惑を極める。グレンは彼女の肩を放し、テレビのリモコンを手に取った。
「
リモコンを手に、
「じゃあ、勝てないリスクがあったのに、それでもラップタイムを守るため先頭を飛んだというの? なんのために?」
「さあな。でも、これで言えることがある。
ジュナの青い目が見開き、らんらんとした光が灯った。頭の回転が早い彼女であれば、これで理解したはずなのだ。
レースにおいて、事前に相手の作戦が分かるというのは、大きな利点だ。それを前提に、こちらの作戦を考えられる。
しかも、それが正確なラップタイムを刻んでくれるのであれば、尚更。レースの組み立てまでもが、手の内だ。
「ええと、仮に、
ジュナは興奮した様子で、宙へ視線を走らせながら呟く。グレンは満足げに、口元を曲げる。
「ヴォーダンがゴールするまで、六分四十八秒ある。後半の十二キロメートル、六分四十七秒で飛びきればジュピターの勝ちだ」
前半が遅くても、後半でそれを補うくらい速ければ問題ない。最終的なレースタイムは、全ての合計値でしかないのだから。
ジュナの表情が明るくなる。彼女は
「ジュピターには、後半、追い上げる力がある!
「そうだ!
ハティアは、初めて漆黒の雷が走った場所なのだ。
ジュナの輝く笑顔が向けられる。グレンも嬉しくなって、微笑んで見つめ返す。
宝石のような青い瞳が、すぐ近くにあった。手を伸ばせば、いいや、首を伸ばすだけで触れられそうな。
グレンは、気分が上がるあまり、ジュナの顔と至近距離でいることに気づいた。
「あっ……よ、夜中、だったな」
咄嗟に視線を逸らして、身体の向きを変える。興奮していたジュナも我に返ったようで、頬を紅く染めて身体を縮ませた。
時刻は午前二時を過ぎている。ジュピターの調教開始時刻は朝六時頃だから、二時間、眠れたら良い方かもしれない。
「もう寝なきゃダメね」
「あ、うん、そうだな」
ジュナがリモコンを操作して、機器の電源を切る。テレビ画面の灯りが消え、リビングに闇が降りる。
「おやすみ」
暗闇の中で、彼女の笑う気配があった。引き留めそうになるのを堪えて、おやすみ、と、返す。
静かな足音。階段の軋み。彼女が遠くなっていく。
グレンは立ち上がらず、ソファーへ腰を埋めた。
「いつも、可愛いんだよなぁ……」
グレンは情けなく零し、両手で顔を覆った。
あと二時間は、眠れそうにない。
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