ドミネイト・ジ・オーシャン 3

 くぐもった叫び声が響く。風のうねりが、耳を強かに打つ。これが海竜なのだと言われれば、なるほど、確かにそうだと納得できた。


 グレンは手綱を上へ引っ張った。ジュピターが、ぐんと上昇し、そのすぐ下を木材が通り過ぎていく。


 グレンは風の音を聞き分けていた。普段、竜に乗っているときに感じるものでない、かすかな違和感を頼りに手綱を操っていた。


 昔、コクに言われたことがある。


『おまえは理論もなにもわかんねーのに、なんでも感覚だけでやっちまう。勘も感性も鋭いんだろうな。だから、天才なんだ』


 親友は、羨ましいと言って笑っていた。


 グレンが天才と呼ばれる所以。竜に関する、絶対的な感性。それは竜の呼吸を把握したり、表情を読んだり、風の音を、気配を掴む感覚的な技。


 集中したグレンには、風の流れが分かった。海竜が、どこで首をもたげ、怒り、荒れ狂うのかを把握していた。理論はない。ただ、感知していたのだ。


「ジュピター!」


 グレンは相棒へ呼びかけ、手綱を下へ引く。漆黒の体躯たいくが沈み、グレンの直上を砕片が飛び去っていく。


 これまでにない集中を感じていた。忘れていた感覚を取り戻した気分だった。


 おそらく、五年間ものブランクは確かにあったのだ。それは竜乗りの技術でも、身体能力でも、レースでの駆け引きでもなく、グレン特有の絶対的な感性を鈍らせていた。


 海竜が叫ぶ。悪魔の呻きを乗せて、うねり、グレンたちを捕まえようと手を伸ばしてくる。


 グレンは手綱を引っ張った。漆黒の体が回転しながら螺旋を描く。正面から飛んできた大きな木材が、螺旋の中心を通っていった。


 グレンの内にある感覚が研ぎ澄まされていく。ここまで戻すのに、半年以上も費やした。ようやくだ。


 グレンは全力で、相棒と共に戦っていた。


 漆黒の竜が悪魔の突風を避ける様は、瞳の発光ゆえ、雲の隙間を自由に走る青い雷鳴だった。グレンに導かれながら、ジュピターは縦横無尽にかける。


 レースは、残り三キロメートル。ついに純白の姿を捉えた。グレンは手綱を引き、ヴォーダンの左側へ竜の首を向ける。


 ジュピターが大きく息を吐き出し、勢いが止まった。瞳から溢れていた青い光が小さくなって、消えていく。魔力を生み出すエンジンが限界を迎えたのだ。


「二段目、行くぞ!」


 グレンは漆黒の首を押した。ジュピターは青い光が消えた瞳で、しかし、闘志を燃やして前を睨みつける。漆黒の翼が宙を打ち、雨風を切り裂いた。


 ジュピターの推進力がヴォーダンのより勝り、純白に漆黒が並んだ。


 アウルがグレンへ顔を向ける。平行して飛ぶシールドの奥にあるのは、驚愕か、狼狽か、激怒か。


 きっと、歓喜だ。グレンが、そうなのだから。


「待たせたな、アウル!」


「グレン! もう来ないかと思ったよ!」


 飛び交う声は楽しげで、子どもがはしゃぎ、遊ぶようだ。


 二人の声を呑み込むように海竜が呻き、猛烈な風が、うなる。


「グレン、避けろ!」


 アウルが焦りを滲ませて叫んだ。ヴォーダンには、まだ竜の魔術使いウィザードの力が残っている。風を利用した鉄壁の防御は健在だ。


 だが、ジュピターは今、己の体のみで飛んでいる。先ほどのように、竜の魔術使いウィザードの推進力を利用しては飛べない。グレンが反応できても、ジュピターの体が応じられないかもしれない。


「グレン!」


 アウルが叫ぶ。グレンの手が動く。


 グレンの動きより、海竜の迫る方が早かった。猛烈な風が巻き上がり、二人と二頭を呑み込んだ。風が、うなりをあげて吹き抜けていく音は、無力な人間たちへ冷笑を向けるようだった。


 けれど、本当に海竜がいたのなら目を見開いていたことだろう。


 そこには、未だ、漆黒と純白が並んで飛行していたからだ。


 アウルがグレンへ、次いで漆黒の竜へ顔を向ける。シールドの奥で、たぶん、困惑した顔をしている。


「アウル、おまえの方が風上にいるんだよ」


 グレンは口の片端をつり上げた。表情は伝わらないだろうが。


「おまえ、まさか、ヴォーダンを利用したのか……!?」


 アウルが驚愕に満ちた声音を零した。


 グレンには、海竜の姿が見えている。もちろん、それが、どの方角から来るのかも。


 ジュピターの推進力はヴォーダンより勝っていた。追い抜かすのは難しくなかった。それでも平行して飛んでいたのは、海竜がやって来て、グレンたちを薙ぎ払うだろうと感知したからだ。


 今のジュピターに、竜の魔術使いウィザードの力は使えない。ならば、使える者を利用すればいいだけのこと。


 ヴォーダンが展開する鉄壁の防御。純白の竜が小さな体躯でも、溢れる大きな魔力に隠れるのは容易い。


 そして、もう一つ。ヴォーダンが風上にいるということは。


 ぽつり。アウルのヘルメットに雨粒が当たった。


 アウルは驚いて純白の竜へ顔を向ける。これまで、歪んだ表情など見せたことがなかったヴォーダンは、苦しげに顔をしかめていた。


「風除け、助かったぞ!」


 グレンが漆黒の竜を押した。低く、雄々しいえ声を発して、ジュピターが羽ばたく。


 ヴォーダンが風上にいることで、ジュピターの風除けになっていた。いくらヴォーダンが膨大な魔力量を持っていたとしても、海竜は、それを削り続ける。


 その結果、力を使いすぎたヴォーダンは魔力エンジンを停止させ、一息入れて休憩できたジュピターは体力も気力も充分。最後、ヴォーダンを振り切るだけの力があった。


 レースは、残り一キロメートル。互いに魔力エンジンは停止し、あとは身体能力での勝負のみ。


 ここからは、ジュピターの独り舞台だ。


「いけぇえぇええぇぇぇ!」


 グレンの絶叫と、漆黒の咆吼ほうこうが混ざり合う。


 漆黒の体躯が、純白を抜き去った。ジュピターは力強く羽ばたき、ヴォーダンに体一つ分の差をつける。漆黒が純白に競り勝った瞬間だった。


 このまま。このままだ。グレンは祈りながら竜の首を押す。


 レースは、あと、どれくらいだろうか。決勝線のホログラムが視認できない。いや、きっと、雨だから見えないだけで、ゴールはもうすぐのはずだ。


 このまま。このまま。グレンは祈り続ける。


 不意に、甲高い鳴き声が、祈りを突き破った。風の音や、当たり方の感覚が変わる。空気の色も変わった。グレンは振り返る。


 純白の竜が大口を開け、空へ咆吼を響かせていた。


 漆黒の竜のそれとは明らかに違う、異質なもので。金属製の打楽器が、美しい音色を奏でるように。


 純白の眩い絶望が心を埋め尽くす、そんな鳴き声だった。


 ヴォーダンが、ジュピターを睨みつける。鬼気迫るその目は、見る見るうちに染まり。


 赤く、紅く、光り輝いた。


 ヴォーダンが純白の翼を広げる。しなやかに力強く、宙へ打ちつける。闇夜で煌めくテールランプのように紅い瞳が煌めいて、純白は漆黒を猛追した。


 純白の竜は一回、翼を打ちつけるだけで、ぐんと前進する。全身が極上のバネのように柔らかく、強靱きょうじんだから、しならせることで凄まじい瞬発力を生み出しているのだ。彼は、グレンたちの前で初めて、ジュピターと同等の恵まれた体躯を躍動させていた。


 身体能力が、平凡。その考えは、改めなければならない。グレンは思い知る。


 純白の竜は、今まで、本気を出していなかっただけだ。


「ジュピター!」


 グレンは前を向き、相棒の首を押す。けれど、ジュピターは苦しげに頭を上げ、飛行姿勢を崩した。スタミナ切れの仕草だ。相棒の顔を見て、はっとする。


 夢見月賞ゆめみつきしょうで削れた体を、急いで戻した反動が現れたのだ。ジュピターの体は万全でなかった。


 漆黒の巨躯きょくに、純白の細身が並びかけた。まるで地獄の業火であるように、全てを燃やし尽くす炎。紅く輝く瞳がジュピターを睨みつけている。


 きっと純白の竜は、認めたのだろう。漆黒の竜こそ、我が終生の好敵手と。激しい情熱が全身をほとばしったに違いない。王者として、負けられないと。


 ヴォーダンが甲高く吼えた。バネを利かせて純白の体躯が伸び、紅い流星がジュピターの横顔を通り過ぎて。


 純白の竜が、体半分、前へ出た。そこで、二頭は決勝線を飛び抜けた。


 ゴールインした二頭が、力尽きたように失速していく。紅い流星も消える。


 雨は細くまばらになり、風は頬を撫でる程度まで落ち着いていた。海竜の声も、既に聞こえない。


 グレンは相棒を労って、息切れする首筋を撫でた。これが、現状の精一杯だ。これ以上は、どうしようもない。


 体を急に戻した反動がなかったとしても、どうか。最後、ヴォーダンが見せた推進力は、万全のジュピターより勝っていなかったか。


 そう、今のジュピターには、ヴォーダンに本気を出させるだけが精一杯なのだ。


 並んで飛行していた漆黒と純白は、それぞれ反対の方角へ首を向けた。それは勝者と、敗者の分かれ道。


 自分たちに何が足りないのか、分からなかった。今は、何も考えられなかった。


 ただ、事実として。


 自分たちは彼らの本気に、為す術なく押し潰されたということだけだった。

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