ドミネイト・ジ・オーシャン 2

 翌日も、ハクアーナは激しい雨風に見舞われていた。


 本来なら、延期してもいい天候だろう。しかし、観衆がそれを許さなかった。


 国民的競技であるドラゴンレースは、いつだって脚光を浴びる。二頭の竜の魔術使いウィザードが対するクラウンレースは、過去最高の盛り上がりを見せていた。それぞれ、神の名を与えられたことから『神話の決戦』とまで言う者もいた。


 結果、悪天候にも関わらずハクアーナ・レース場は超満員。場外にまで人が溢れる事態となった。ここで延期となれば暴動が起きかねない、そんな熱狂と歓声が渦巻いている。


 昨日より雨風は弱まっており、どうしても飛べないという状況ではない。観衆の安全も確保できる。海竜賞かいりゅうしょうへ出場する関係者らの要望もあって、ドラゴンレース協会はレース開催を決定した。


 スタート地点へ、漆黒の竜が降り立つ。景色の奥で広がる海原では高い波が暴れ、夢見月賞ゆめみつきしょうとは違う場所のような印象を受ける。雨粒がヘルメットを叩き、手綱を握るグローブを、厚手で頑丈なレーシングスーツを濡らしていく。


 寒さは感じなかった。それはレーシングスーツの防寒だけでなく、身の内で燃える熱情が指先まで広がっていたからだ。


 グレンとジュピターの見つめる先に、眩い純白がある。景色の中で浮き上がり、陽がなくとも輝くそれは、神々しさの体現だった。その背に乗るアウルは落ち着き払っているようで、姿勢に迷いはない。彼らは王者として、そこに在った。


「勝つのは、俺たちだ」


 グレンがゆっくりと紡いだ言葉は、風の音で掻き消され、誰の耳にも触れなかっただろう。


 ただ、グレンを背負う漆黒の竜だけが、もちろんだ、と、ハミ部分を噛んで応えていた。


 夢見月賞ゆめみつきしょうの頃と比べて、ジュピターの体はたくましさを取り戻していた。今の彼には他の追随を許さない瞬発力がある。全てを粉砕する爆発力がある。体の内で唸りを上げる心臓が、魔力を生み出すエンジンがある。


 二頭の竜の魔術使いウィザードに差はない。ならば、あとはライダーの技量勝負だ。


「各竜、配置につけ!」


 雨風に負けぬよう、語気を荒げた号令が響き渡った。背に乗るライダーたちが手を動かす。それに従い、竜たちが一列に並ぶ。


 張り詰めた緊張感があった。各々が自覚しているのだ。


 クラウンレース、第一戦目、海竜賞かいりゅうしょう。ここは、ドラゴンレース最高峰の一角。竜が挑めるのは、その生涯で一度きり。栄光を掴めるのは、ただ、一つの陣営。


 カウントダウンのホログラムが降りてきた。雨の中で淡く発光する数字を見つめる。一つ、数字が減るごとに心臓が大きく鳴る。震えそうになる腕を堪えて、前傾姿勢を取る。


 ブザーが、けたたましく鳴った。各竜が地面を蹴る。ジュピターは作戦通り、スタートダッシュを決めて群れの中へ。竜たちの間を割り、こじ開け、漆黒の体躯たいくを強引にねじ込んでいく。


 群れの前へ、輝きを放つ白が躍り出た。ヴォーダンだ。竜の魔術使いウィザードの力を解放したのだろう、純白の竜は羽ばたくことなく飛行速度を上げて他を突き放す。


 団子状態になって風から身を守ろうとするのを嘲笑うみたいに、ヴォーダンは一人旅を始めた。


「あんなの、デヴィリッシュ・ゲイルの餌食だろ!」


 ライダーの一人が、嬉々として叫んだ。これでライバルが減ったと思っているのだろう。


 だが、グレンには、そう思えなかった。純白の竜に乗るのは、天才、アウル・ラゴーだ。無策で飛び出すとは思えない。


 ヴォーダンを先頭に、残りは後方で一塊になってレースは進む。


 既に陸地は途切れ、海上へ舞台を移してから十キロメートルが過ぎた。


 海上では激しい風が吹き荒び、群れの中央へ入り込めなかった竜は体力を削られ、苦しげに呼吸する。なのに、純白の竜は美しい飛行姿勢を保ったまま、余裕の姿で前を飛んでいた。周りのライダーたちが動揺し始める。


 グレンも焦りで心を揺り動かされていた。このまま、追いつけないのではという不安が胸中を満たしていく。


 ヴォーダンの飛行姿勢から察するに、少しも無理をしている様子はない。あれは、マイペースでの飛行。気分良く飛行させては、体力を温存させるだけだ。


 だからといって、仕掛けて、捉えにいく訳にもいかない。レースは、まだ中盤。じっと耐えねば、デヴィリッシュ・ゲイルに捕まるのは自分たちだ。


「お、おい、あいつをよく見てみろ!」


「全然、濡れてないじゃないか! くっ、竜の魔術使いウィザードの力かよ!」


 周りのライダーたちが、悲鳴に似た驚愕を発した。声に合わせてグレンも前方へ目を凝らす。


 輝く純白。背に乗る天才。竜の装具も、ライダーのレーシングスーツも、濡れている箇所はどこもなかった。


 カラクリが見えた。ヴォーダンは魔力によって風を生み出し、操り、自らを囲って守りとした。雨風など、全て跳ね返されていただろう。高性能のエンジン、膨大な魔力を惜しみなく使った鉄壁の戦法だ。


 今のヴォーダンに、デヴィリッシュ・ゲイルは太刀打ちできない。行く手を阻むことも、純白の体力を削ることも、撫でることだって、できやしないだろう。


「風神の名は、伊達じゃないってか」


 グレンは呟き、奥歯を噛み締めた。相手の強大さばかりを、見せつけられていた。


「負けてられるか!」


 グレンの隣にいたライダーが悔しさを滲ませ、竜の首を押した。ライダーに従い群れを飛び出した茶色の竜は、玉砕覚悟と叫ぶ勢いでヴォーダンとの差を詰める。彼らにも引き下がれない思いがあるのだ。


 アウルが気配に気づき、振り返る。ライダーは必死に手を動かし、雨に打たれても尚、茶色の竜は前進していく。


 純白の竜まで、あと、一歩。茶色の竜が意地を見せるかと思えた。


 そのとき、低く、くぐもった音が辺りに響いた。巨大なものが叫び声をあげるような恐ろしさに、身体がすくむ。皆、辺りを警戒している。


 再び、叫び声が聞こえた。それが猛烈な風がうねる音だと気づいたとき、純白に迫っていた茶色の竜へ何かが飛んできていた。


「避けろ!」


 グレンは力一杯、叫ぶ。


 茶色の竜に乗るライダーは飛来してきた何かに気づいたが、既に遅く、竜は己の肌色によく似た何かによって体を折り曲げられた。茶色の塊が二つと一人が墜ちていく。


 墜ちていく最中、飛来してきたものの全容が見えた。それは木材だった。無残に破壊され、引き千切られた砕片のようだった。


 グレンの思考に、あるニュースが再生される。漁船が転覆して、大破。船の形状を思い描く。飛来してきた木材は、船底の形に似ていた。


 転覆し大破した漁船は、回収されていない。まだ、海を漂っている。


 巨体の叫び声のような、猛烈な風のうねりが響いた。群れの右前方にいた竜が体を曲げ、ライダーと共に墜ちていく。その様を見つめて、ライダーも、竜も、身が危険にさらされていることを知った。


 各々が、あることを思い出していただろう。


 この時期、命が惜しくば海へ出るな。何者も屈服するしかない。乗り越えられない。


 それは、ハクアーナで春の間にだけ猛威を振るう。海上を薙ぎ払い、船を転覆させる悪魔の突風、デヴィリッシュ・ゲイル。空の竜さえ撃ち落とす、海竜の怒り。


 今までグレンたちが身に受けてきたものは、ただの強い風であった。海を漂う木材を巻き上げ、宙へ運び、竜へ衝突させたものこそ、本物のデヴィリッシュ・ゲイルなのだ。


 漁師たちの間で話し継がれているうちに誇張された、伝説だと思っていた。そうではなかった。あれは、事実だった。


「だ、ダメだ! これ以上は無理だ!」


 グレンを囲んでいた竜たちが、一頭、また一頭と離れていく。彼らはレースを中断し、棄権するのだろう。


 これは異常事態だった。例年にない、デヴィリッシュ・ゲイルの脅威。こんな海竜賞かいりゅうしょうは、グレンの記憶にない。


『いい? 危なくなったら、すぐに帰ってくるのよ? 約束ね』


 夫人の優しい声音が思考を満たす。今の環境下で、その声を聞いてしまえば甘えたくなった。彼女を悲しませないためにも、決断するべきだった。


 やがて、グレンの周りには一頭もいなくなった。


「よう、相棒。俺たちも棄権するか?」


 グレンは漆黒の竜へ問いかけた。


 ジュピターは、前を見据え続けている。愚直に、前だけを。


 視線の先に、純白の姿があった。背に乗る天才は、動じず、冷静に手綱を操っている。彼らの後ろ姿に、王者としての風格があった。何者にも、自然にさえ負けたくないという意志があった。


 グレンは、口の片端をつり上げる。


「そうだよな。あいつらが飛んでるんだ、俺たちも飛ばないで、どうする」


 声に高揚感があった。愉快さがあった。揺るがない決意があった。


 ジュピターが口元を曲げた。彼も全く同じ気持ちなのだと分かって、グレンは嬉しかった。


「デヴィリッシュ・ゲイルは、俺がなんとかする! おまえは思いっきり飛べ!」


 グレンは手綱を緩めて、相棒へ前進の合図を出した。


 気概に呼応するように、青い炎が灯る。漆黒の竜は瞳を燃やしながら咆吼ほうこうする。


 雨中で燦然さんぜんとする青い流星が、海上で弾けた。


 異常事態の海竜賞かいりゅうしょうは、残り、五キロメートル。歴史に刻まれるであろうそれは、竜の魔術使いウィザード竜の魔術使いウィザード、純白対漆黒のマッチレースとなった。

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