第十四話 ドミネイト・ジ・オーシャン
ドミネイト・ジ・オーシャン 1
雨粒が窓へ全力で当たり、弾けていった。暴風が遠征用の
四月第二週。
春の時期、ハクアーナでは強風が吹く。荒天にも、なりやすい。それにしたって、近年、稀に見る強烈すぎる雨風だった。
「はい……はい……わかりました、ありがとうございます」
携帯電話を手にするジュナが、礼を言って通話を切る。窓から外を眺めていたグレンは振り返り、彼女へ視線を向けた。
「レースの運営は、なんだって?」
「予報では明日になれば雨風が落ち着くから、現状、
ジュナは眉間にシワを寄せ、答える。陣営の指揮官である調教師からすれば、開催するか、しないかも不透明な状況は、やきもきするだろう。
「漁船が転覆して大破だって。乗組員は……無事みたいねぇ。よかったわぁ」
彼女は、のんびりとして、乗組員の親族であるかのように安堵の表情を浮かべた。昨日から、何隻もの船が突風によって転覆させられている。テレビでも、誌面でも、それらのニュースは絶えることがなかった。
漁師の間で話し継がれてきたものがある。
この時期、命が惜しくば海へ出るな。何者も屈服するしかない。乗り越えられない。
それは、ハクアーナで春の間にだけ猛威を振るう。海上を薙ぎ払い、船を転覆させる悪魔の突風、デヴィリッシュ・ゲイル。空の竜さえ撃ち落とす、海竜の怒り。
竜を撃ち落とすことは、さすがにない。漁師たちの間で話し継がれているうちに、誇張されたのだろう。
しかし、他の地域にない突風が行く手を阻むのは事実。
「ねぇ、グレンちゃん、ジュナちゃん。こんなに酷い
いつの間にか新聞紙を折りたたみ、グレンとジュナを交互に見据えて夫人は言った。彼女の瞳には、強い
グレンは窓際から離れ、夫人の元へ歩む。彼女の正面で、顔が向き合うよう屈み込んだ。
「俺は、出たい。アウルとヴォーダンが出るなら、戦いたいんだ」
グレンは伝えられるだけの熱を込めて言う。
クラウンレースは、それぞれ、竜の生涯で一度しか挑戦できない。アウルたちと戦える
夫人は眉尻を下げ、困ったような顔になった。その夫人へ、ジュナが寄り添う。
「明日になって無理そうなら、私が調教師として諦めさせます。だから、お願いします。戦える望みがあるうちは、諦めないでください。ジュピターも、そう言うと思います」
ジュナの瞳に、相棒と似た青い炎が揺らめいていた。
グレンも漆黒の竜を思う。相棒は、今、雨風から避難して、頑丈な屋根があるレース場屋内で留まっている。彼も、闘志を
終生の好敵手と決めた純白の竜と、同じ
困り顔の夫人は、うーん、うーん、と悩んでいる様子だった。グレンとジュナは、顔を近づけ、夫人を見つめ続ける。こうなったら、折れるまで傍にいてやる気持ちだった。
「…………仕方ないわねぇ」
ぽつり。夫人が降参宣言を零した。
「いい? 危なくなったら、すぐに帰ってくるのよ? 約束ね」
夫人は、ジュナというより主にグレンへ向け、言い聞かせる。彼女は不満げに、けれど温かみのある微笑みを浮かべた。グレンは一生懸命、何度も頷く。
「それじゃあ、作戦会議かしらねぇ」
夫人が両手を、ぱんと叩いた。身が引き締まる思いで、グレンは着席する。
ジュナはこれまでのように、ホワイトボードの前へ立った。
「知っての通り、今年の
ジュナがホワイトボードに黒ペンを走らせる。ヴォーダンに、デヴィリッシュ・ゲイル。かつてない強敵の名が記された。
「デヴィリッシュ・ゲイルを乗り越えるには、やっぱり、群れの中でじっとしているしかないと思うの。他の竜を風除けにして、終盤まで我慢して、ゴール付近で一気に抜け出す。まあ、
「体が戻ったジュピターなら、スタートダッシュができる。他のライダーも群れの中へ潜り込みたいだろうが、こちらの方が速い。最初の位置取りは問題ないと思う」
「と、なると、一番の問題は……」
皆の目が一点へ集中した。ジュナが、そこへ赤丸を描き込む。
ヴォーダン。やはり、最大の敵は純白の竜ということだ。
「なぁ、ウォーディ先生、ヴォーダンに弱点とかないのか?」
グレンは縋る思いで、ジュナの方へ
ルーキーイヤーステークス後、ヴォーダンは予選レースに出場することなく
弱点といえば久々のレース出場であることが突破口になるかもしれないが、竜のタイプは様々で、本番前に肩慣らしが必要な竜もいれば、長い休養でリフレッシュした方が実力を発揮する竜もいる。ヴォーダンが久々を苦にしないタイプであれば、攻め入る隙はないという悲観だけが存在するのだが。
「弱点、あるかもしれない」
ジュナが顎に手をやりながら、ぼそりと呟いた。僅かな希望に縋りながらも、答えに期待していなかったグレンは、がたりと椅子を鳴らして驚く。
「ほ、本当か!」
「たぶんね」
ジュナは細い指で黒ペンを取り、ホワイトボードへ書き込んでいく。
「ヴォーダンの出場したレースを、もう一度、観てみたの。デビュー戦、それから第二戦目については
ホワイトボードに、新たな文字が書き加えられた。
デビュー戦、十月。
第二戦目、十一月。
ルーキーイヤーステークス、十二月。
「これを見て。ヴォーダンのデビューは遅めで、秋頃だった。デビュー勝ち後、十一月のレースに出場して優勝、十二月のルーキーイヤーステークスへ駒を進めた」
「ん? それ、一ヶ月間隔だな」
「そう、短い間隔よね。だから、こう考えたの。ヴォーダンは
ヴォーダンが、
首を傾げるグレンを察してか、ジュナはペンで指しながら口を開く。
「推測だけれど、ヴォーダンには、なにかしらの欠陥があるんじゃないかしら。一ヶ月の間隔では短すぎて、
「身体面?」
「ええ。おそらく、ヴォーダンは身体能力に関しては平凡よ」
ジュナは、はっきり、確信を持っているように言い切った。
「デビュー戦と第二戦目、ヴォーダンは首一つ分、先着しただけの辛勝だった。そのときの二着は、その後、予選レースにも出られない平凡な竜よ。もし、ジュピターのように
ジュナは勝ち気に笑む。
美しいとさえいえる論理に、希望と、活力が
「なるほどねぇ。身体的な問題を抱えているなら、レース出場間隔は、できるだけ空けたいわよねぇ。だからルーキーイヤーステークスから
「その通りです。予選レースから本番の
すらすらと言葉を並べていくジュナに、グレンも、夫人も頷いてばかりだった。
彼女は一流の調教師だ。鬼のルクソールにも、豪傑ザムにも認められた実力は凄まじい。
「今回、ジュピターの作戦は『二段式エンジン』よ。レース中盤までは群れの中にいて、デヴィリッシュ・ゲイルをやり過ごす。終盤になったら、体を動かすエンジンと魔力を生み出すエンジン、そのどちらかをフル回転させて群れを脱出。片方のエンジンが切れたら、もう片方のエンジンを回して飛行速度を維持、ゴールを目指す。どちらのエンジンを先に始動させるかは状況を見てだから、ライダーに委ねるわ」
「わかった。俺の役目だな」
グレンは二人へ、胸を張って
ヴォーダンの位置取りによっても臨機応変に対応しなければならないが、勝つための光明は見えた。完全無欠の強敵と思っていたヴォーダンに、手が届きそうな感覚があった。
けして沈まない陽はなく、また、昇らない陽もない。完全など、ありえないのだ。
「ねぇ、グレン。ジュピターの体は、見た目は元通りよ。でも、急に肉を増やした負担は、確実にあるの。無理はできないわ。気をつけてね」
ジュナが心配そうに呟くのに、グレンは大きく頷いてみせた。
そのとき、事務所の壁から衝突音が響いた。三人の身体が驚きで跳ねる。
グレンは急いで、窓から外を確認した。飛ばされてきたのだろう、所々が欠けてボロボロになった木製椅子が転がっていた。グレンは眉間にシワを寄せ、それを見つめる。
自分たちは、勝利へ手をかけている。勝ち目も、希望もある。
なのに、どうして、胸騒ぎがするのだろう。
外では雨風が荒れ狂っていた。それはまるで困難な旅路を暗示しているかのようで、グレンの心を掻き乱していった。
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