ウィザード・マスター 5
昼食後、残りの屋舎も綺麗に掃除をして。陽が沈む前に、グレンたちは山を下りることにした。
グレンのオートバイまで見送りに来たザムは、とても居づらそうに遠くを見ていた。彼は、ちらり、ちらりと二人が帰り支度をする様子を窺っている。
グレンは、ザムの不自然な動きに勘づいた。
「ザムじいさん、俺たちは帰るよ。伝言、あるなら聞く。ヴァリ先生とか、ヴァリ先生とかに」
グレンは、ここぞとばかりに嫌みったらしく笑む。ザムが落ち着かないのは、ルクソールへのしおらしい想いゆえだと判断してのものだ。
ザムが悔しそうに呻る。訳を知らないジュナが首を傾げる。
「うっさいわい。おれだって携帯電話くらい使えるわ」
「え、ここ、電波あるのかよ」
「山ん中でも、ハティアに近ぇだろが」
ザムの強烈な蹴りが、グレンの尻へ叩き込まれる。グレンは飛び上がって、痛みを発する尻をさすった。
元気な老人で遊ばない方がいい。グレンは身のためになることを学んだ。
「ああ、違う、そういうことじゃねぇんだ」
ザムは、もう隠す余裕がないほど、取り乱している。
彼の様子を二人で見守っていると、不意に、赤いキャップを取り去った白髪が深く沈んだ。ザムが腰を曲げ、深い位置まで頭を下げたのだ。
「グレン、すまなかった」
ザムは叫ぶように言う。グレンは戸惑い、小さな肩を軽く叩いた。
「いや、俺、謝ってもらうようなことは、なにも……」
「五年前、いや、もう六年近くになるか、あのときのことだ」
あのとき。グレンの脳裏で、暗闇に響いた
「あのときは、ゴルトを失ったのが辛くて辛くて、どうしようもねぇのを、おまえに当たっちまった。おまえだって辛かったのに、おれは、自分のことばっかりだった。情けねぇ。グレン、本当に、すまなかった」
ザムは、更に深く頭を沈ませる。
グレンは、あのときの感情を思い出していた。身体の痛みが、心の軋みが蘇っていた。
静寂に紛れて押し寄せる絶望も、虚無の闇に溶け込む現実味の無さも、頬を滑る涙が酷く冷たかったことも。全てを思い出せる。
一方的に責められたことを、良かったとは思えなかった。責めるでなく、悲しみを共有して悼みたかった。
けれど、あのときは、仕方なかったのだ。何もかも。
「俺は、ザムじいさんを恨んだことはないよ。謝りたかったのは俺の方なんだ。ゴルトを守れなくて、ごめん。世話になったのに、最後まで
グレンは、ザムの背を優しくさすった。いつか夫人が、そうしてくれたように。彼を苦しめる後悔が、少しでも消えるように。
それが破れたときの落胆や絶望は、誰にも共感できない。調教師という人生の終わり近くまで駆けてきた、彼にしか実感できないものだった。それを、どうして、若造の自分が責められようか。
ずず、と、鼻を
「ちくしょうめ、いつの間にか成長しやがって」
涙声でザムが呟く。頭を下げたまま、肉付きの良い腕で顔を擦る。
ややあって、顔を上げた彼の鼻は真っ赤だった。グレンが笑いを零すと、豪快な老人は照れ隠しのつもりか蹴りを見舞った。
ザムは鼻も頬も紅くして、咳払いをした。彼は、グレンが蹴りの痛さに苦さを含ませ微笑むのと向き合う。
「今なら確信できる。
ザムは真剣な面持ちで言い放った。
「事故から年月が経つうちにな、冷静になって、ゴルトの死に顔を思い出したんだよ。あいつは満足そうだった。接触で暴れるような竜がする顔じゃなかった。でも、おれは確かに、接触して首を上げ下げするゴルトを見たんだ。じゃあ、あれは、なんだったんだと思ってな、六年前の
ザムは、そこで一呼吸、置いた。
グレンは渇きを覚えて、唾を呑み込んだ。隣ではジュナが、同様に緊張した面持ちで言葉を待っている。
ザムは二人を、静かに見据えた。彼は息を吸い込み。
「見つからなかった。あのとき、レース場で流れていた映像の全てがな」
強く、しっかりした口調で、ザムは告げた。
グレンとジュナは、同時に息を呑む。グレンは、信じたくない一心で首を横に振った。
「見つからなかった? だって、映像は協会が管理してるはずだ」
「ああ。レース映像は協会が管理し、いつでも、誰でも閲覧できる。でもな、いくら探しても、あの
ザムは腕を組み、そのときを思い出したのか憤慨する。
「じゃあ、テレビ映像は? ドラゴンレースは人気なんだ、家で録画してた人だっているはずだ」
「おれも、その可能性を考えた。レース場で流れる映像とは別に、放送用の映像はテレビ局が撮影して管理する。ドラゴンレース愛好家なら、録画しとるヤツがおってもいい。それで愛好家を探してるときに、なんだ、あの胸がデカい記者の姉ちゃん」
ザムが両手を胸の前に出して、膨らみをなぞるように動かす。今までの威厳はどこへ行ったのだろう、エロジジイの顔だ。
グレンは、ザムが言う特徴を思考で描く。合致する人間がいないか検索する。
「胸がデカい? 胸……胸……あ、カラのことか!」
グレンは彼女の姿を思い浮かべ、自信を持って答えた。ザムが、だらしない表情のまま頷く。
いきなり、グレンの脇腹を鋭く突く痛みが襲った。
襲ったものの正体を見れば、不機嫌に眉根を寄せたジュナが肘を突き立てていた。
痛い。とても、痛い。自分が何をしたというのだろう。
「あの、ジュナさん……?」
「グレンが、胸、胸って言うから、カラさんを守ろうと思って」
ジュナは腕を組み、ふいと顔を背けた。胸、と聞いて、不可抗力により視線を落としてしまったグレンの目に、細身の胴体が映る。
グレンは悟ってしまった。ジュナは、胸がふくよかでないことを気にしている。絶対、そうだ。今後、胸については言及しないという誓いを、即、打ち立てた。
ま、まあ、と、ザムが青ざめて仕切り直す。可哀想に、ジュナの鉄拳を見てしまったから怯えているのだろう。
「そのカラにな、会ったんだ。向こうも
ザムは感心したように言って、頷く。
「それで、結局、愛好家は?」
「おお、見つけたぞ。録画もあった。けどな、おまえたちが墜落した洞窟の映像だけなかった。機器の故障で撮影に失敗したとか、アナウンサーは言っておったわ」
また故障か。グレンは天を仰ぐ。
「そこまで故障が続くと、意図的なものを感じますね」
機嫌を直したジュナが、考え込みながら口を挟んだ。ザムが素直に頷いて同意する。
「そうだな、こりゃあ仕組まれたもんに違いねぇ。カラは撮影機器を貸し出してるメーカーに心当たりがあるとかで、引き続き調べるって言ってたな。おれは、当時の
ザムは決意の籠もった瞳をしていた。それは名伯楽と呼ばれた現役時代を彷彿とさせる、ぎらついたものだった。
彼の瞳がグレンを捉える。
「なぁ、グレン。今のおまえなら、受け止められると信じて言うぞ」
ザムの表情に、並々ならぬ意志が垣間見えた。それを真摯に受けて、グレンは頷く。
「映像は残っちゃいないが、あの
ザムの顔は冴えない。言ってみたものの、彼は迷いを見せた。
きっと、良くないことなのだろう。迷うのは、グレンを気遣っての思いからなのだろう。言い淀む理由に、心当たりがないでもなかった。
「言ってくれ」
グレンの中で、放っておいてはならないという直感が囁きかけていた。これも、越えねばならない試練だと感じていた。
ザムはグレンを見つめ、深呼吸を一つ。彼は、おもむろに口を開いた。
「バルカイト・オルニエスだ。あいつが、おまえとゴルトに接触したライダーだ」
グレンは、ひゅ、と短く息を呑む。それ以上の呼吸を、肺が拒絶したみたいだった。
心臓が早鐘を打つ。全身の血脈が騒いでいる。
グレンの右手を、ジュナが柔らかい掌で包んだ。知らず、力一杯、握り締めていたらしい。
ジュナが不安そうに見つめている。グレンは精一杯、強がって微笑んでみせた。彼女の温かな掌を、丁寧に剥がす。
昔の自分であれば、聞いてそのまま崩れ去るところだった。でも今は、倒すべき相手も、守るべき大切なものも傍にある。
自分は、独りきりで戦っているのではない。
「教えてくれて、ありがとう。ザムじいさん」
グレンは静やかな表情でザムに背を向け、ヘルメットを被った。ジュナには青いヘルメットを渡し、彼女より先にオートバイへ跨がってキーを差し込む。
「グレン、六年前のことは、とりあえず気にするな。今はクラウンレースのことだけ考えろ」
ザムが力強くグレンの腕を叩く。
「おまえは、おれが認めたライダーだ。ずっと可愛がってきた弟子みたいなもんだ。おまえなら、勝てる。気張って戦ってこい」
豪快な老人は、晴れやかに、信頼を滲ませて笑った。それは昔と変わらない、気持ちの良い笑顔だった。
グレンはヘルメットの奥で笑い返す。ジュナが後ろへ乗り込むのを確認して、もう一度、ザムへ視線を向けた。
「ザムじいさん、また来るよ」
「おお、いいぞ、来い。また掃除、押しつけてやっからなぁ」
ガハハ。ザムは、いつものように豪快に笑い飛ばす。
しかし、彼は、はたと気づいて真面目な顔つきになった。
「やっぱりだな、そのぉ、なんだ、ルクソールにな。季節の変わり目だから体調には気をつけろと、伝言を……」
豪快さは鳴りを潜め、ザムは頬を紅く染めながら呟いた。まるで、恋を覚えたばかりで恥じらう女子のようだ。
「乙女か」
微笑ましさにグレンは笑う。後ろのジュナも、きっと、口元を緩ませていることだろう。
うっさいわい、と、照れつつ
今頃、相棒は留守番で退屈している。早く帰って、今日の話を聞かせてやりたかった。ザムのことや、昼食のサンドイッチの美味しさや、ジュナに殴られたことも。
漆黒の相棒と共に
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