ヴァレイシャス 3

 五月第一週。ハティア・レース場で行われる、二十四キロメートルの一戦。緑葉賞りょくようしょうは、神竜賞しんりゅうしょうの予選レースだ。


 あの日、バルカイトから依頼されたのは、ヴァレイシャスという銀色の竜だった。


 引退を決めた彼は、竜を引き継がせるライダーを探しているらしい。中でも、このヴァレイシャスは気性が荒いため技術を要するので、グレンにしか乗りこなせないという話だった。


 グレンは手綱を操って、銀色の竜を飛び立たせる。空へ上がったところで、ガアア、とヴァレイシャスは荒々しくえた。グレンの手綱に逆らって、頭を上下に振る。


「大丈夫だ、まだレースは始まっちゃいない。大丈夫だ」


 グレンは優しく声をかけて、銀色の首筋を撫でる。ヴァレイシャスは目をぎょろつかせつつも、大きな鼻息を吐き出して落ち着いた。グレンは安堵して、スタート地点へ竜の頭を向ける。


 バルカイトの言う通り、なかなかの暴れっぷりである。今日は、骨が折れるレースになりそうだ。


 溜め息を吐きたいのを堪えて、思い出すのはジュナの声。


『グレン、気をつけて。本当に危険だと思ったら、やめていいんだからね』


 彼女は不安げに、何度も、何度も声をかけてくれた。


 六年前の神竜賞しんりゅうしょうで、グレンとゴルトに接触したのがバルカイトだと、ジュナも知っている。降って湧いたレース依頼を警戒するのは当然だ。


 それはもちろん、グレンも同様なのだが、心の奥でバルカイトを信じたいという気持ちがあった。


 それに、依頼を引き受けて彼と話す機会が増えれば、六年前の話が聞けるのではないか。彼が引退した後、ゆっくりけばいい。そうして楽観する気持ちも、あったのだ。


 ヴァレイシャスが暴れるのを、なだめながら、スタート地点へ到着する。神竜賞しんりゅうしょうへの切符が懸かっているとあって、各竜、各ライダーに緊張感が漂っていた。


 ジュピターは海竜賞かいりゅうしょう二着が認められて、神竜賞しんりゅうしょうへの推薦を得ている。そのせいか、グレンの心情は楽なものだが、ヴァレイシャスにだって譲れない思いがあるのだ。グレンは自身の胸をレーシングスーツの上から叩き、気を引き締めた。


「クリンガーくん」


 横から、穏やかな声音が投げかけられた。視線を滑らせれば、そこにはバルカイトの姿。彼も、このレースに出場していた。


「君にヴァレイシャスを任せておいて、他の竜に乗ってしまうなんて、申し訳ない。仲良くしているオーナーの竜でね、どうしても断れなかったんだ」


 シールドが上げられたヘルメットの奥、ヘーゼルの瞳が柔らかい眼差しを向けてくる。グレンは首を横へ振った。


「人付き合いは大事だって、俺も学びました。仕方ないですよ」


「そう言ってくれると、ありがたいね。じゃあ、お互い頑張ろう」


「はい! よろしく、お願いします!」


 爽やかな笑みを、互いに交わす。ヘルメットのシールドを下げる。バルカイトは手綱を操り、竜の首を他へ向けた。


「各竜、配置についてください!」


 係員が声を張り上げた。バルカイトの後に続いてグレンも手綱を引き、ヴァレイシャスを所定の位置へ移動させる。


 銀色の竜は、その四肢で地面を抉るほどに力んでいた。発汗が酷い。もしかしたら、二十四キロメートルまでスタミナが保たないかもしれない。


 緑葉賞りょくようしょうは、神竜賞しんりゅうしょうの予選レースだが、全く同じコースは通らない。洞窟を使用するレースは栄誉あるものと決められているため、今回は大平原だけを使用するコースだ。


 各竜、スタート準備が整った。カウントダウンのホログラムが降りてきて、数字を減らしていく。


 ヴァレイシャスが、ハミ部分を思いきり噛んだ。ギリギリと音をたてる姿は、狂気そのもの。これでは、他の竜に少し触れただけで暴れ回ってしまう。群れの中は危険だ。スタートは、ゆっくりでいい。


 ヴァレイシャスは、トップライダーが育てた竜だ。心配ない。きっと、どこまでも飛べる。


 ブザーが鳴った。各竜、地を蹴り上げる。


 ヴァレイシャスは先頭を行きたがったが、飛行速度を上げてしまえば、スタミナが最後まで保たない。なだめて、なだめて、最後方まで下げる。


 レースは二十四キロメートルの、中距離だ。道のりは、長い。気分良く飛行できれば、終盤にヴァレイシャスは落ち着くだろうし、ひとまずは様子見だ。


 それぞれの思惑を乗せて、レースは進む。大平原の中央を突っ切って、残り十四キロメートル地点を通過した。


 ヴァレイシャスは頭を上げ下げしたり、蛇行して飛行したり、なかなか落ち着かなかった。グレンの計画に暗雲がたちこめる。銀色の竜が、どうして暴れているのか、分からないままであったのだ。


「ヴァレイシャス、大丈夫だ。心配するな」


 グレンは銀色の竜へ声をかける。彼の心を理解しようと、その瞳を覗き込んで。


 心臓が止まったような衝動があった。


 銀色の竜は、瞳に厳烈げんれつなる怒りを宿していた。この世の全てを敵と思うような、憎悪にも似た炎が燃え盛っているようだった。


 その横顔を、グレンは知っている。かつて相棒だった、黄金色の竜とそっくりな顔だった。


 夢の光景を思い出す。胃がひっくり返るような吐き気が襲ってくる。記憶が氾濫している。恐ろしいものが蘇ってくるようで、身がカタカタと震え出す。


 そのとき、銀色の竜が体をくの字に曲げた。苦痛が込められた咆吼ほうこう。竜が怒り、暴れる。身を震わせていたせいでグレンは一歩遅れ、対応できないまま操縦不能となった。


 銀色の竜が、暴れる。もう一度、接触の衝撃が来る。グレンは接触してきたライダーを見た。近くにあったから、シールド越しでも分かった。


 そこにあったのは、他人を嘲笑う底知れない妬みを伴った、ヘーゼルの瞳だった。


 銀色の竜はグレンを背に乗せたまま、制御を失って暴れた。接触した竜をも巻き込み降下していって、地面に銀色の肢体を打ちつける。その衝撃で、グレンは放り出された。


 身体からだが芝生に落ち、弾む。耳の奥で鈍い音が重なって鳴る。跳ねながら転げ、徐々に勢いを失って止まる。視界に飛び込んできたのは、広漠こうばくたる青い空。


 意識は途絶えていなかった。竜が先に地面へ着地してから投げ出されたことと、青々と生い茂る草地が、柔らかい土が、多少のクッションになって衝撃を和らげてくれた。


 芝生で大の字になったグレンは、割れたシールドの隙間から空を見つめていた。痛みを自覚するのは、やめた。感覚がない箇所もあったが、それも気にするのはやめた。


 思い出したのだ。全て、思い出した。


「あーあ、俺の竜も墜ちちまったか。腕が落ちたかねぇ。六年前は、おまえだけを沈めてやれたのに。ま、俺に怪我がないだけ上出来か」


 やけに楽しそうで、深刻さの欠片もない声が聞こえた。グレンは動かない身体で、視線だけを向ける。


「ヴァレイシャスの暴れっぷりは、なかなかだったろう?あれには、ゾウだって暴れるほどの興奮剤を仕込んであったからな。おまえを墜とすには、六年前と同じがいいと思ってね」


 そこには、ヘルメットを外し、愉快そうに口元を歪めた男が立っていた。彼の表情は醜く、悪魔のようで、品性が下劣だった。


 グレンが憧れた、トップライダーの姿はない。バルカイト・オルニエスは、きっと、死んでしまったのだ。目の前の男は違う。そうあって、ほしかった。


「なんで、って顔だな。おお、そんなに教えてほしいか」


 男が屈む。グレンを見下ろして、にたりと笑う。


「おまえは若く、才能があるからだよ。天才なんて言われやがって。おまえに俺の苦労は、わからない。デビューしてすぐに活躍したおまえなんかに、デビューしたのに数年は活躍できなかった俺の気持ちなんか……!」


 かつて憧れだった男は、憎しみを滲ませながら、そう吐き捨てた。


「嫉妬、の、ために、ゴルトを」


 かは、と、グレンは吐いた。血の味がする。


 男が狂ったように笑い出した。


「そうだよ、嫉妬だよ! 間違いない! 俺はなぁ、やっと掴んだ地位を放したくないんだ! 引退!? はっ、馬鹿げている!」


 笑いながら芝生に膝を突いた男が、グレンの破れたレーシングスーツを掴む。首元を引っ張られ、上半身を強制的に起こされ、グレンは痛みで呻いた。


「なのに、ドルドさんは、おまえを気に入っている! 俺を排除して、おまえをトップライダーの座に押し上げようとしている! そうなったら、俺はおしまいだ! ドルドさんに消されちまう! だから、おまえがいたら、困るんだよ!」


 男は恐怖に支配された顔で、欲に塗れたまま叫んだ。


 妄想だ、と言いかけて、グレンは咳をする。呼吸が、ままならない。意識が遠くなっていく。


「おまえだって、ドルドさんに逆らったら消されるからな! あの人の権力で、頷かないドラゴンレース関係者はいない! 六年前なんてドルドさんの力で、あっという間に捏造さ! まあ、苦しんでるおまえを見るのは楽しかったがな!」


 男は独白を続ける。なんて醜悪なのだろう。


 グレンは、右腕に精一杯の力を込めた。ぜぇぜぇと息をして、のろのろと持ち上げて、男の頬を、こつんと殴りつける。


「おま、えは、ゆる、さ、ない……!」


 薄れゆく意識を、どうにか保って、男を睨みつけた。


 夢を奪われた絶望を。家族と離れた後悔を。戦えない悔しさを。失った悲しみを。


 この男は、何も分かっちゃいない。己の欲望に従うまま生きてきた男に、何が分かるのか。


 男は、急に表情をなくした。掴んでいたレーシングスーツを放し、グレンの背を芝生へ落とす。


 叫びたいほどの痛みが駆け抜けた。けれど、喉が潰れてしまったように、掠れた息が漏れるばかりだった。


「その怪我じゃあ、神竜賞しんりゅうしょうは無理だな。良いザマだ」


 男は、ぼそりと言い残して立ち上がる。彼は覚束ない足取りで、ふらり、ふらりと歩んでいった。


 遠くからサイレンの音が聞こえてくる。事故に備え、常時、レース場で待機している救急隊が到着したのだろう。


 グレンは、自分の身体がどうなっているのか、知りたくなかった。教えてくれるな、と思っていた。胸の内で煮えたぎる憤怒を晴らすのは、自分でありたかったから。


 青い空が見える。竜でかければ、きっと気持ち良いだろう空が、広く、どこまでも広く存在している。


 流れていく雲を目で追っているうち、グレンの意識は深く沈んでいた。

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