ウィザード・マスター 3

 古い臭いが染み付く屋舎の床を、デッキブラシで力一杯こする。長い年月を思わせるサビや汚れは嘲笑うように付着したままで、グレンの体力を根こそぎ奪おうとした。


 清掃員の経験は役に立たない。人が残す汚れと竜のそれでは勝手が違う。


「ここはな、潰れちまった竜牧場の跡地でな。敷地も屋舎もそのまんまだが、古くなってるから綺麗にしねぇと使えねーんだよ。いやぁ、助かったわい」


 隣で同じ作業をしているザムは、だが、グレンよりも疲労の色なく元気に笑う。


 なんて化け物っぷりだ。隠居していたのでは、なかったのか。


「ほれ、ちゃんと腰入れて磨けぃ。ライダーってのは、そんなもんかぁ?」


 ザムの大振りした掌が、グレンの腰を思いきり叩く。痛い。グレンは眉根を寄せ、困り顔で抗議の視線を送る。


竜舎りゅうしゃの掃除なんて、ライダースクールでやって以来なんだ。できなくても仕方ないだろ」


 ねて言うグレンを、ザムは壮快に笑い飛ばした。


「だろうな。こういう作業は慣れてねぇと疲れるだけだ。それがわかったなら、日々、竜舎りゅうしゃを預かるスタッフに感謝しろよ」


 ザムは自慢げに口元を曲げ、デッキブラシを動かす。律動的な音は小気味よく、熟練の技を見ているような気分になる。


 今、グレンが苦労している作業は、竜舎りゅうしゃスタッフにとっては仕事の一環でしかない。彼らは竜の体を洗ったり、食事を用意したり、調教のための準備をしたりなど多岐に渡って仕事をこなしている。


 生き物を相手にしているのだから、体調管理に気を遣ったりもするだろう。『竜が心配で休日が取れない』とは、セルナンの言葉だ。


 それを思えば、竜に乗るだけのライダーは、なんと気楽なことか。竜舎りゅうしゃスタッフたちに優しくしよう、と、グレンは心に決めた。


「ザムさーん、こっちは終わりましたー」


 外から顔を覗かせたジュナが呼びかけてきた。グレンは、ぎょっとする。彼女は先ほど、屋舎を一つ片付けたばかりのような。


「おお、早いな。よし、キリがいいし休憩にするか。外にベンチがあるからよ、座っててくれぃ」


「あ、じゃあ、お茶、淹れますね。家のキッチン、お借りしてもいいですか?」


「そうか、悪ぃなぁ。いいぜ、家にあるもの全部、好きにしな」


 ジュナは頷き、気力いっぱいに駆けていく。彼女の後ろ姿は楽しげで、疲労感は微塵もない。


 ジュナは調教師だが、ウォーディ竜舎りゅうしゃスタッフでもある。鬼のルクソールの元で学び、生き抜いたのだ。彼女だって竜舎りゅうしゃの熟練者なのだと、グレンは改めて思い知った。


「あの嬢ちゃん、仕事みっちり仕込まれてるな。良い弟子持ちやがって、あのババア」


 デッキブラシを立て、柄の先端に両手を置いたザムが呟く。彼の表情は嬉々たるものだ。口は悪いが、憎んでいるふうでもない。


 ジジイ、ババアと呼び合う名伯楽めいはくらくたち。彼らの間に何があったのか、グレンは知らない。


 ただ、ザムが『ババア』と呼ぶ度に、鬼が怒り狂う形相を想像してしまって胃痛がやって来るだけだ。


「うっし、おれらも負けてらんねぇぞ。根性見せろや、グレン!」


 ザムの掌が、再び、グレンを襲う。グレンは仕方なしに、胃痛は気にしないようにして、気合いを入れて床を磨き始めた。


 ザムと力を合わせ、そう時間が経過しないうちに担当していた屋舎の掃除を終えた。グレンは疲労で凝る肩をぐるんと回しながら、外のベンチへ向かう。


 掘っ立て小屋の近くに木製ベンチがあった。ザムが製作したのだろうか、余り物で形作られたようなデコボコの見た目に野性味がある。傍らには切り株を利用した椅子が幾つかと丸テーブルもあり、休憩場所として最適だった。


 掘っ立て小屋からジュナが、紅茶カップとサンドイッチが並べられた皿を乗せたトレーを持って出てくる。そろそろ、昼食の時間だ。思い出したグレンの腹が、大きな音を立てて鳴る。


「お疲れさま、グレン。はい、これで手、拭いて」


 空腹で口元を曲げるグレンに笑って、ジュナはトレーに乗せた手拭いを器用に取り、渡してくれた。彼女は丸テーブルまでトレーを運び、紅茶やらを丁寧に置く。


 なんという抜群の出来た嫁。グレンは感動を隠せない。ふやけた表情で、ひたすらに彼女を眺めてしまう。


「なに、気持ち悪ぃ顔で、手、拭いてんだ」


 後ろから、ザムに蹴飛ばされた。グレンが苦々しい思いで振り返れば、豪快な老人はガハハと笑って通り過ぎていく。


 ジュナは、ザムにも手拭いを渡した。ザムは切り株の椅子へ腰を下ろし、手を拭き、顔面も拭って気持ち良さげな声を出す。


 グレンとジュナは野性味のあるベンチで落ち着き、三人での昼食が始まった。


「いやぁ、ここまでやってくれるたぁ、思わなかったぞ」


 ザムは嬉しそうにして、サンドイッチを口へ運ぶ。彼の白髭には、鮮やかな黄色のエッグサラダが付いていた。


「食材まで使わせてもらって、すみません」


「いいってことよ。マリーのヤツがお節介で送ってくるんだけどよ、男の一人暮らしじゃあ使い切れねぇからな。明日も来てくれたって、いいんだぜ」


「明日も竜舎りゅうしゃを空ける訳には……」


「ガハハ、冗談だ。気にすんな」


 談笑で食事が進む。ザムの手が素早く伸び、グレンが狙いを定めていたツナサラダを奪っていった。


 あ、と驚きで口を開けるも、美味しそうなツナサラダは既に老人にまれている。なんてことだ。


 悔しい思いで見つめていると、面白そうに微笑むジュナが別のツナサラダを渡してくれた。グレンは喜んで、それを食む。


「ザムさん、一人で竜たちの世話をしてるんですか?」


「おう。どこへも行き場がねぇ竜を引き取ってな。おれらは、竜のお陰でメシを食わせてもらった。夢も見させてもらった。調教師、引退したからって、ほいと離れられるほど薄情にゃあ、なれねぇんだよ。ま、竜への恩返しみてぇなもんだ」


 そう語るザムの顔つきは優しく穏やかだ。彼は竜への愛情を、惜しげもなく言葉に込めていた。


 きっと、ゴルトの死を乗り越えたのだ。そうして再び竜と向き合い、関わり続けていくことを選んだ。


 グレンはザムを、心底から尊敬した。自分も、彼のように生きられるだろうかと思う。


「おれも、ここにいる竜たちも、気ままな隠居生活だ。楽しくやってるぜ」


 ザムの表情は、はつらつとしていた。あの日、泣きわめいてグレンをなじった男の顔は、影も形もなかった。

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