第十二話 ロード・トゥ・クラウン
ロード・トゥ・クラウン 1
ルーキーイヤーステークス後から、ジュピターの新たな戦いが始まっていた。
己の肉体を根本から作り替えるための、減量である。
短距離体型のジュピターには、重い筋肉が付いてしまっている。それは凄まじい瞬発力を生むものだが、長距離を飛ぶときは重石でしかない。余計な筋肉を削ぎ落とすことが、クラウンレースへ挑む第一関門であった。
運動を必要最低限にとどめ、徹底的に食事を制限する。体を飢餓状態にまで追い込んで、ようやく、筋肉の分解が始まる。口で説明するのは容易いが、それを実践するとなれば精神力の根比べだ。
生物にとって食事とは生きるために絶対必要とするもので、生理的欲求を満たそうとする本能による行動だ。理性より本能が勝るのは至極当然で、ましてや本能に忠実な竜にとって食事を制限されるのは耐えがたい苦痛だろう。
しかし、漆黒の竜は、並の竜ではなかった。
「ジュピターの様子は?」
ウォーディ
ジュナは表情を曇らせたまま首を横へ振り、
「全然、食べようとしてくれないの。食べさせようとしても、私のこと追い出して……」
ジュナは苦しげに呟く。
グレンは屋舎内と外とを隔てる仕切り扉の上から、奥を覗いた。漆黒の竜は、じっと動かず寝そべっている。食べやすく砕いた果物や、栄養剤を染み込ませた穀物やらが入った桶から顔を背けて。
ジュピターは、並の竜ではなかった。その賢さは、目的意識を理解するほどであった。今の彼は、全て、ヴォーダンを倒すためだけにある。人間が定めた減量の限界値を、己の精神力で超えようとしていた。
これでは足りない。ヴォーダンに勝てやしないのだ、と。
けれど、負けた屈辱を燃料にして燃え上がる熱情が、ジュピターの体を蝕んでいた。ルーキーイヤーステークスへ出場した頃と比べ、体は痩せ細り、気性の荒さを含んでいたぎらついた青い瞳は、死んだように生気を失っている。
「ジュピターが全く食べなくなって、何日になる?」
「もう一週間よ。そろそろ本格的な運動を再開して、飛ぶのに必要な筋肉を戻していかなきゃ、
二人は揃って、顔をしかめる。
今は、一月の下旬だ。
「俺が押さえつけてでも食べさせる」
グレンは屋舎の仕切り扉を開け、漆黒の竜へ近づいた。
ジュピターは顔を上げ、グレンを認識するや否や、体を起こして睨みつけ低く唸った。瞳に光なく唸り声も弱々しい姿は、なんの迫力もない。グレンは構わず歩んだ。
「グレン、気をつけて。弱ったジュピターでも、暴れたら危ないから」
仕切り扉へ身を乗り出して、ジュナが声をかける。グレンは片手を挙げ、彼女に応えた。
「よう、相棒」
グレンは挨拶をして、ジュピターの
「なんで食わないんだ。これじゃあ、レースに出られないぞ」
ジュピターは睨み続ける。放っておけ、と、彼の目が言っていた。
「なぁ、確かに今のままじゃあ、ヴォーダンに勝てないかもしれない。でもな、
グレンは慎重に言葉を選び、穏やかに言い聞かせた。優しい口調とは裏腹に、胸中では焦りが募っている。
自分は、また、相棒を守れないのではないか。失うのではないか。あのときの絶望感が押し寄せる。
ジュピターは、ふん、と鼻を鳴らしてグレンから顔を背けた。話を聞かないという主張である。弱っても、彼は、彼だった。
ぴくり。グレンの眉が動いた。人が心配しているのに、この底意地の悪い竜は。説得している自分が馬鹿馬鹿しくなるほどに、憎たらしい。
「おまえな……!」
話を聞かないのなら、仕方ない、実力行使だ。グレンは桶へ手を突っ込み、リンゴの切れ端を掴む。素早い動きでジュピターの頭を片腕で抱え込み、鼻っ面へリンゴを持ってきた。
ジュピターは、じたばたと暴れる。逃れようと首を振る。
「グレン! ジュピター!」
ジュナが叫んだ。グレンは拘束を解くことなく、竜を押さえつけたまま。
漆黒の竜は、のたうち回った。それでもグレンを引き剥がすほどの力なく、もがいて、やがて動きを止めた。息切れし、呼吸が荒々しい。彼は死んだ目でグレンを見つめる。
「俺を振り払う力すらないじゃないか! ちゃんと食えよ! 頼むから!」
グレンは沈痛な面持ちで叫んだ。
ほら、と、リンゴを口元へ押しつける。牙の隙間から、よだれが溢れる。
ジュピターは、いやいやと頭を振って、ぐっと顎に力を入れて口を閉じた。意地でも食べない。彼の決意が、漆黒の皮膚を通して伝わってくる。
勝ちたい気持ちは分かる。引き下がれない誇りも分かる。
けれど、それは相棒を失ってまで貫き通すものじゃない。
「ジュピター!」
グレンは力任せに、竜の口をこじ開けようとした。
瞬間、
吹き飛ばされたグレンは、よろけ、屋舎の壁へ背中から当たって止まる。宙へ舞い上がった寝わらが、ぱらぱらと、グレンの直上から落ちて頬を掠めていく。共に飛ばされたリンゴの切れ端が、足元で転がっている。
何が起こったのか理解できなかった。風は仕切り扉の方向からでなく、間違いなく壁の方から吹き込んできた。外からやって来たのでない、何もないところから生じたのだ。
表情に驚愕を浮かべてジュナを見れば、彼女も同様に信じられないといった顔をしていた。
グレンは視線を相棒へ戻す。漆黒の竜が、こちらを見ている。死んでいた青い瞳に、かすかな光が灯っている。その、かすかな光が何であるのか、グレンは知っていた。
それは、闘志の輝きだ。
「ジュピターは、意地や根性で
直感的に思うまま、グレンの唇が言葉を紡いでいた。
人を引き剥がすだけの突風、その衝撃が身体に残っている。脳裏で閃いたものが正解であるのか、全く分からないが。
相棒の目は言っていた。何も諦めちゃいない、信じろ、と。
「おまえ……まさか……」
グレンは独りでに、囁くように零す。
ジュピターはグレンたちへ背を向け、寝転んだ。漆黒の竜は体力が果てたように、すぐ寝入ってしまった。
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