イマーキュレイト・ホワイトネス 3

 海へ向かって、なだらかな階段を降りていく。有名観光地らしく、都市を巡る街道は、どれも綺麗に整備されていた。


 潮の匂いが鼻をつつく。高く昇った太陽に照らされる海と、眼下で広がる砂浜は、だいぶ近い。少しだけ、ひんやりとする程度の風がでていき、歩いて火照った身体からだに心地良かった。


 子どもたちの、はしゃぐ声が耳に届く。幾人とも、すれ違う。海を最大の観光資源とするケイシュレドは、冬である現在、観光のオフシーズンなのだが、観光客の数はそれなりにあった。夏に負けない熱気をまとう彼らの目的は、ドラゴンレースだ。


 ルーキーイヤーステークスは新設されたグレード・ワンであるが、来年のクラウンレースを見据えたスター候補たちが出場するとあって注目されていた。ドラゴンレースの認知度が高いプシティア国の人々は、年末になると来年のクラウンレースについて話題にしたがる。明日にはスターになるかもしれない逸材を、皆、己の目で確かめたいのだ。


 すれ違った何人かが、グレンの顔を見て驚いていた。この国ではライダーの認知度も高い。芸能人と比較しても、ライダーの方が人気の場合もある。スキャンダルにまみれたグレンへの興味は、今も尽きなかった。好奇の視線にさらされるのは、グレンにとって日常だった。


 日常であるがゆえに、グレンは迷う。ジュナが隣にいるときは、特に。


 表に出ることの多いライダーと違い、調教師などの竜舎りゅうしゃスタッフは裏方だ。ルクソールのような有力調教師になれば顔を知られるだろうが、今のジュナは開業したばかりの無名新人調教師。好奇の視線に耐えた経験は、ないだろう。


 だから、グレンはジュナと離れ、彼女の後ろから見守るような距離で歩いた。周りから探るような視線を向けられれば、すぐ、無関係の他人を装えるように。彼女を好奇の視線から守るために。


「ねえ、見て! 海が近い!」


 なのに、だ。ジュナは構わず、遠くからでもグレンへ話しかける。これでは無関係でいられない。


 余程、楽しいのか、彼女は無邪気に笑っていた。彼女が気にしないなら、それでもいいような気もするが、グレンとしては不安で歯がゆい。ゴシップ誌に面倒な記事を載せられでもしたら、彼女を守りきれなかった自分を許せなくなる。


「グレン! 早く!」


 ジュナは、いち早く砂浜へ辿り着き、子どもへ戻ったように叫んでいた。急かされるまま、グレンは仕方なく彼女に続いて砂浜へ降り立つ。


 粒が小さく、きめ細かい砂は、グレンの靴を呑み込もうと沈ませた。スニーカーでも歩きづらい。注意深く歩まねば、足を取られ転んでしまう。


 はしゃいでいるジュナの姿が、咄嗟とっさに思い浮かんだ。彼女が転ばないうちに忠告しようと顔を上げたとき、ちょうど、細身の後ろ姿が大きく傾いていた。


「ジュナ!」


 グレンは叫び、慌てて前傾姿勢になって駆け出す。柔らかい砂に靴が埋まっても力尽くで蹴り上げ、前進していく。


 ジュナが背中から砂地へ倒れようとする寸前、グレンは間に合った。足から滑り込んで彼女を抱き留め、下敷きになり、自身は背を砂に擦りながら倒れる。ダウンジャケットのおかげで、痛みはそれほど感じなかった。腕の中に収まる彼女を確認して、安堵で大きな息が漏れた。


「歩きにくいから、転ぶなよ」


 もう遅いだろうが、先ほど、投げかけようとしていた言葉を口に出す。


 ジュナは身をすくませていたが、もぞりとグレンの上から退き、かたわらに座り込んだ。


「ごめんなさい」


 俯く彼女の顔は、可哀想だと同情するくらい真っ赤だ。グレンは微笑んでみせて、上体を起こすとジュナの頭をがしがしと撫でてやる。怒りたいのでもないし、彼女が無事であれば満足だ。


「怪我は?」


 ジュナの服に付いてしまった砂を払いながら、グレンは問いかける。


「私は、大丈夫。グレンの方こそ、怪我してない?」


 心配そうな色を映す青い瞳が、至近距離できらめいた。今更ながら、手を持ち上げれば触れられる近さであることに気づき、グレンの胸中が羞恥しゅうちで騒がしくなった。


「あ、顔に砂、付いちゃってる」


 ジュナは自身のダウンジャケットからハンカチを取り出し、それでグレンの頬を拭う。


「い、いいよ、付いたままでも」


「ダメ。じっとして」


 彼女は、身体を捻って逃げようとするグレンをしっかりと捕まえ、強引にハンカチを押し当てた。今はグレンの方が子どものようで、すっかり、立場逆転である。


 不意に、遠くからの視線を感じた。周囲へ目だけ向ければ、二人を眺めながら話をする人々。身を案じるようでも、興味のようでも、探るようでもあった彼らの視線は、グレンの内にある不安を掻き立てた。


「見られてる。離れた方がいい」


 ジュナの手を掴み、顔から引き剥がす。ところが、彼女はグレンの手が止めるのも構わず、尚も顔を拭おうと腕に力を入れた。


「なぁ、ジュナ」


「見られてもいいじゃない」


 ジュナはあっさり、すぱっと言い切った。その切れ味の良さにグレンは意表を突かれ、口をぽかんと開ける。


「私、慣れてるから。ああいう視線」


 彼女は、ごく自然に、それが当たり前の理屈であるというように零して、グレンの顔を拭い続けた。


 なんて馬鹿なことを言ったのか。グレンは自身を殴りつけたくなった。自分は本当に、何一つ、彼女を理解していない。


 この五年間、好奇の視線に曝されてきたのは、グレンだけでなかった。メディアの餌食になった、被害者たち。ウォーディ竜牧場もまた、人々の関心事だった。


 遠巻きにされ、噂され、非情な目を向けられて。家族と離れ、己を責め、強くなるしかなくて。


 彼女は、どれほどの苦しみに耐えてきたのだろう。


 想像ができない。だって、それはグレンの味わった辛酸しんさんとは違うものだ。彼女だけが感じることのできる苦しみだ。分かる、などと軽々しく言えない。無闇に、身勝手な理解を押し付けてはならない。


 だと、しても。


 苦しみを共有して、慰めてやりたい。少しでも楽にしてやりたい。これからは笑顔でいられるよう、守っていきたい。


 そう思うのは、傲慢ごうまんだろうか。不相応な、願いだろうか。


「はい、取れた」


 ジュナが満足げに言って、ハンカチをしまう。彼女が腰を浮かせるのにならって、グレンも立ち上がった。二人して自身の尻や足をはたき、砂を落とす。


「そんな顔しないで。デートなんだから、楽しくいたいの」


 彼女の表情に暗さはなかった。グレンを励まし、思い遣る慈愛だけが、そこにあった。


 自分より年下の彼女が、とても大人に見える。グレンは苦い思いを、自嘲にして零した。


「……ダメだな、俺は。もっと楽しませるよう、がんばるよ」


「これからに期待、ね」


 グレンは自嘲から、ジュナは慈愛から。違う意味合いの笑みが、互いの口元に浮かぶ。それは楽しげな微笑みへと変わり、やがて、二人の口から笑い声が奏でられていた。


「私ね、海って、あまり来たことがないの。もっと近くで見たい」


 ジュナの温かな指が、グレンのふしくれ立つ指に絡み、引く。導かれるようにして足を踏み出せば、眼前には太陽の光を受けて輝く青が広がっていた。雄大な自然が二人を待っていた。


 グレンは、心の内へ清々しい風が吹き込んでいくのを感じていた。沈みかけていた気分が上昇する。身体から余計な力が消え、安楽に満たされる。


 また、救われた。いつだって、彼女は救ってくれるのだ。


 グレンは歩きながら、自分を導き続ける華奢きゃしゃな背中を見つめる。


 彼女に何を返してやれるだろう。どうやって感謝を伝えたら、いいのだろう。何を贈ったって伝えきれない。竜に乗ることでしか彼女を助けてやれない自分に、何を、どれだけしてやれるというのか。


 そんな悩みさえも、きっと、彼女は優しく包んでくれるのだ。馬鹿ね、と笑って。


 グレンの胸の奥で、何かが大きく動いた。その何かが転がり、心の中央へ辿り着くと、かちりと音をたてて隙間にはまる。納得している自分がいた。驚く自分もいれば、やはり、と頷く自分もいる。


 そうなのだろうか。自分は、彼女のことを。


「ねえ、グレンは、海に来たことあるの?」


 ジュナが振り向いた。眩しい笑顔が向けられるのに、どきりとして、思わず立ち止まってしまう。


 手を繋いだままの彼女も足を止めた。グレンの行動を疑問に感じたのか、青い瞳が窺うように見上げてくる。その瞳が美しいことに気づき、動揺して、なかなか口が動かない。


「グレン?」


「あ、いや、海か? どうだった、かな」


 簡単な質問に答えられない。思考は鈍り、彼女の瞳ばかり見つめてしまう。


 これではいけない、と、一握り残った理性でグレンは目を逸らして。遠くから眺めるばかりだった人々の中から、幾人かが歩み寄って来るのを認識した。


 近づいて来るのは、ファンかもしれない。そうでないかもしれない。どちらにせよ、今、邪魔をされたくない。


 どうすべきか考え、辺りを見回したグレンの直上を、一頭の竜が飛んでいった。観光地によくある、ドラゴンタクシーだ。竜に乗っての移動や遊覧は、昔からの人気レジャーである。砂浜の奥へ視線をやればドラゴンタクシーの乗り場があり、一頭の竜が残って待機している状況だった。


 グレンは閃く。自分はどうあっても、ライダーでしかないのだ。


「走るぞ」


「え!?」


 急展開に驚くジュナの手を、今度はグレンが引く。彼女は砂につまずいて転びそうになった。先ほどの出来事が、映像となって脳裏に浮かぶ。走らせるのは無理かもしれない。


 グレンたちが去る気配を察してか、歩み寄って来る幾人かが走り出した。柔らかい砂を蹴るのに難儀し、すぐには追いつかないだろうが、時間的な余裕はあまりない。


「ジュナ」


 グレンは呼びかけ屈むと、彼女の背中と膝裏に腕を差し入れ、横抱きにして持ち上げた。


「グレン!?」


「口、閉じないと、舌噛むぞ」


 戸惑いながらも、しがみつくジュナに、悪戯っぽく口角をつり上げてみせて忠告を一つ。


 グレンは、砂を思いきり蹴って駆け出した。

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