第九話 イマーキュレイト・ホワイトネス
イマーキュレイト・ホワイトネス 1
ウォーディ
十一月も下旬となれば、早朝は暗く寒さが身に染みた。温かさを取り戻そうと、凍え縮む手足を意識的に動かす。口から漏れ出た白い息が立ち上って、宙に溶け込み消えた。
白い息の向こう、
「グレン」
ジュナは嬉しそうに微笑む。
久しぶりに間近で聞く声と、視界に映る笑顔。グレンは胸の奥がきゅっとする感覚に戸惑いながら、おう、と片手を挙げた。妙に、落ち着かない心持ちだ。
ジュナたちがウォーディ竜牧場へ行ってから、何度か、電話でのやり取りはあった。だから、全くの久しぶりというのでもない。
けれど、心で勝手に生じる喜びは、実際に会う方が何倍も良いのだと告げていた。
「待っててね、今、ジュピター降ろすから」
忙しく動きながらジュナが言うのに、グレンは頷いて。
しかし、じっと待っているのは寒かったし、どこか、そわそわする。グレンは彼女と一緒に
漆黒の竜が顔を出す。寝ていたのだろう、眠そうに、くわぁと欠伸をする。
彼は首を回して周囲を確認し、ゆっくりと出てきた。雄大な体を目にして、グレンは息を呑む。
ジュピターは、夏よりも一回り大きくなっていた。それが堕落の末に太ったのでなく、訓練により成長した結果なのだと筋肉の盛り上がりで知る。かといって、体のバランスは崩れることなく、姿勢はちょうど良い均衡を保っていた。
きっと、弾いたときの爆発力が増している。何者でも追い抜かすような瞬発力がある。漆黒の竜は、短距離で勝つための、理想の
早く乗りたい。身を震わせるほどの加速を体感したい。グレンは、口元が緩みっぱなしのまま眺めているのを自覚する。
「よう、相棒」
声をかけ近寄ると、漆黒の竜は目を細め、ガァと鳴いた。挨拶を返してくれたらしい。グレンは感慨に
なんだ、こいつも、少しは寂しいと思って素直に……。
がぶり。漆黒の竜は大口を開けて、上機嫌なグレンの頭頂部へ噛みついた。
「いてぇ! おい、俺の感動、返せよ!」
涙目で振り払ったグレンを、憎たらしいほどに喜ぶジュピターが見下ろす。
変わっていない。まるで変わっていない。性格が悪く、悪戯好きという厄介な性質が、そのままではないか。
「おまえは、さっさと入れ!」
グレンはジュピターを力尽くで屋舎へ放り込んだ。漆黒の竜は、からかって気が済んだのか、満足げに横たわる。彼は、すぐに寝入ってしまった。
ぐぬぬ、と、グレンは悔しさで呻った。今まで培ってきた常識は、漆黒の竜に通用しない。改めて、油断ないよう注意せねばと自身へ言い聞かせる。
「相変わらずね」
一人と一頭の様子を見守っていたジュナが、優しく穏やかな表情でグレンの隣へ並んだ。一方的に遊ばれている状況が面白くないグレンは、後頭部を掻きながら不満で口元を曲げる。
「あいつの性格、矯正してくれればよかったのに」
「ふふ、ああいうのもジュピターの良いところよ」
ジュナは楽しそうに笑う。その笑顔に、陰はない。夏から時間を経たことで、傷口が塞がり、本来の自然な明るさが戻ってきたのだろう。
ジュナがあまりにも楽しそうだから、グレンもなんだか面白くなってきて、思わず笑みを零した。安心したのだ。彼女が後悔に呑み込まれたままでなくて、よかった。
ジュナは笑いすぎたのか、目の端に滲み出た涙を指で拭った。彼女は自身を落ち着かせるように深呼吸をする。そうして、グレンと向かい合ったジュナは、唐突に小首を傾げた。
「グレン、少し
青い瞳が、まじまじと見上げてくる。嬉しいような、照れるような、温かくて鮮やかな気持ちに満たされていく。
ドルドに認められてから、グレンへのレース依頼は急激に増えた。毎週末、ハティアでレースに出場しているし、平日はできるだけ
その影響で、ジュナたちをウォーディ竜牧場まで迎えに行けなかったが、それは嬉しい悲鳴というものだろう。
清掃員から多忙なライダーへ駆け上がった負荷により痩せたのだろうが、それを馬鹿正直に白状しては彼女が心配する。
「昼を食わせてくれるヤツがいなかったからな、仕方ない」
グレンは精一杯、冗談っぽく、ごまかした。真っ赤な嘘でもない。多忙な身を、味のない健康食品で支えられなかったのは事実だ。
「もう、ちゃんと食べなきゃダメって言ったじゃない」
ジュナは
今、その表情には勝てそうにない。全面降伏である。
「いや、あっついわー。寒いのに、あっついわー」
コクが自身を両腕で抱き締めながら、責める視線を送ってきた。そういえば、今回も運転手を引き受けてくれたのは彼だ。つい忘れて、放置していたが。
寒いやら暑いやら、どうやらコクは不調を訴えているらしい。最近、寒さが厳しいせいで体調を崩したに違いない。可哀想に。
「風邪、ちゃんと治せよ」
「どこまで鈍いんだよ!」
コクは眉をつり上げて怒った。風邪でないらしい。原因を察しきれず、グレンは首を捻って考える。
コクから大きな溜め息が落ちた。このところ、彼は溜め息ばかりの印象がある。
疲れているんだな、と、グレンが気遣わしく見つめれば、それに勘づいたらしいコクは不機嫌に眉根を寄せた。やはり疲れているらしい。今度、礼として食事にでも誘ってやろう。
「とにかく! ジュピターは送り届けたからな。あ、ルーキーイヤーステークスのあたりはハティアでレースの依頼あるからよ、ケイシュレドまで送ってやれないわ。知り合いの運転手、紹介しとくぜ」
コクは携帯電話を取り出し、ジュナと情報のやり取りをする。
ルーキーイヤーステークスが開催されるのはハティアでなく、ずっと南へ移動した先にあるケイシュレドという都市だ。ハティアからは離れすぎているし、ライダーが本業であるコクにそこまで頼るのは無茶だろう。
「ありがとう、コクさん」
ジュナは深々と頭を下げる。コクは、いいってことよ、と笑い飛ばした。
「オレはジュナちゃんを応援するぜ。そりゃもう、色々と」
コクが親指を立て、任せろ、そう言わんばかりにポーズを決めると、ジュナの頬に赤みが差した。
二人だけが通じ合っているような受け答えに、グレンの眉がピクリと反応する。いつの間に、二人は仲良くなったのだろう。心が
「ジュナちゃん、グレンのこと、よろしくな!」
グレンの雰囲気を感じ取ったのか、コクは居座らず後腐れなく、
グレンは腕を組み、難色を示して、サル顔を思い浮かべる。
何が『よろしく』だ。面倒を見ているのは、年上である自分なのに。今度、飲みに行ったときにでも抗議してやろう。
「さて、と。ジュピターは寝ちゃったし、マリーさんにも会いたいし、そろそろ帰ろうかな」
ジュナが伸びをして身体を解す。移動疲れで、節々が凝り固まったようだ。
この後、グレンに予定はない。いつも通り、愛用のオートバイで彼女を送ってやれる。
そこでグレンは、渡すものがあったと思い出した。
「ジュナ、ちょっと」
グレンはジュナの片腕を掴む。驚いて停止する
事務机の目前まで歩んで、グレンは大きく咳払いした。
綺麗にラッピングされた箱を前にして、想像した以上の熱が体内を駆け巡っている。思い出した勢いで連れて来たものの、突っ伏したいくらいに恥ずかしい。
「どうしたの?」
「い、いや……」
彼女に背を向けたまま、動揺してしまう。何を
不安か、期待か、
「ねえ、グレン」
ジュナの声音に不安が混ざり始めた。これ以上、待たせるのは酷だ。
グレンは覚悟を決めて箱を手に取り、彼女の胸へ押し付ける。
「やる」
最短で言って、彼女の顔を見ないまま再び背を向けた。心臓が痛いくらいに跳ねている。
「開けていい?」
ジュナから問われるのに頷き、背中越し、静かに開封する音が鳴るのを聞いた。今すぐ逃げてしまいたいのを堪える。
背中に意識を集中させていると、彼女が息を呑むのが分かった。
「ありがとう、グレン」
泣きそうで、温かみのある声音。彼女の細い指が、グレンのダウンジャケットの端をつまむ。
「…………必要なもの、だったから」
感謝の品だ、とは言えなかった。彼女の顔を見るのは、もっと難しかった。
ただ恥ずかしくて、耳まで熱いのを、ごまかすことばかり考えていた。
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