第九話 イマーキュレイト・ホワイトネス

イマーキュレイト・ホワイトネス 1

 ウォーディ竜舎りゅうしゃへ、一台の竜運搬車りゅううんぱんしゃが滑り込んできた。グレンはダウンジャケットの襟元や袖口をきっちり直し、事務所の扉を開ける。


 十一月も下旬となれば、早朝は暗く寒さが身に染みた。温かさを取り戻そうと、凍え縮む手足を意識的に動かす。口から漏れ出た白い息が立ち上って、宙に溶け込み消えた。


 白い息の向こう、竜運搬車りゅううんぱんしゃの助手席から一人の女性が降りた。寒風が吹き荒び、ダークブロンドの髪が揺れる。ショートボブのためか耳が寒そうだった。動きやすいジャージ姿の彼女は、これもまた動きやすそうなグレーのダウンジャケットを助手席から引っ張り出す。震えながら着込む青い瞳が、こちらを捉えた。


「グレン」


 ジュナは嬉しそうに微笑む。


 久しぶりに間近で聞く声と、視界に映る笑顔。グレンは胸の奥がきゅっとする感覚に戸惑いながら、おう、と片手を挙げた。妙に、落ち着かない心持ちだ。


 ジュナたちがウォーディ竜牧場へ行ってから、何度か、電話でのやり取りはあった。だから、全くの久しぶりというのでもない。


 けれど、心で勝手に生じる喜びは、実際に会う方が何倍も良いのだと告げていた。


「待っててね、今、ジュピター降ろすから」


 忙しく動きながらジュナが言うのに、グレンは頷いて。


 しかし、じっと待っているのは寒かったし、どこか、そわそわする。グレンは彼女と一緒に竜運搬車りゅううんぱんしゃの後部へ回り、扉を開けた。


 漆黒の竜が顔を出す。寝ていたのだろう、眠そうに、くわぁと欠伸をする。


 彼は首を回して周囲を確認し、ゆっくりと出てきた。雄大な体を目にして、グレンは息を呑む。


 ジュピターは、夏よりも一回り大きくなっていた。それが堕落の末に太ったのでなく、訓練により成長した結果なのだと筋肉の盛り上がりで知る。かといって、体のバランスは崩れることなく、姿勢はちょうど良い均衡を保っていた。


 きっと、弾いたときの爆発力が増している。何者でも追い抜かすような瞬発力がある。漆黒の竜は、短距離で勝つための、理想の体躯たいくを手に入れて帰って来たのだ。


 早く乗りたい。身を震わせるほどの加速を体感したい。グレンは、口元が緩みっぱなしのまま眺めているのを自覚する。


「よう、相棒」


 声をかけ近寄ると、漆黒の竜は目を細め、ガァと鳴いた。挨拶を返してくれたらしい。グレンは感慨にふける。


 なんだ、こいつも、少しは寂しいと思って素直に……。


 がぶり。漆黒の竜は大口を開けて、上機嫌なグレンの頭頂部へ噛みついた。


「いてぇ! おい、俺の感動、返せよ!」


 涙目で振り払ったグレンを、憎たらしいほどに喜ぶジュピターが見下ろす。


 変わっていない。まるで変わっていない。性格が悪く、悪戯好きという厄介な性質が、そのままではないか。


「おまえは、さっさと入れ!」


 グレンはジュピターを力尽くで屋舎へ放り込んだ。漆黒の竜は、からかって気が済んだのか、満足げに横たわる。彼は、すぐに寝入ってしまった。


 ぐぬぬ、と、グレンは悔しさで呻った。今まで培ってきた常識は、漆黒の竜に通用しない。改めて、油断ないよう注意せねばと自身へ言い聞かせる。


「相変わらずね」


 一人と一頭の様子を見守っていたジュナが、優しく穏やかな表情でグレンの隣へ並んだ。一方的に遊ばれている状況が面白くないグレンは、後頭部を掻きながら不満で口元を曲げる。


「あいつの性格、矯正してくれればよかったのに」


「ふふ、ああいうのもジュピターの良いところよ」


 ジュナは楽しそうに笑う。その笑顔に、陰はない。夏から時間を経たことで、傷口が塞がり、本来の自然な明るさが戻ってきたのだろう。


 ジュナがあまりにも楽しそうだから、グレンもなんだか面白くなってきて、思わず笑みを零した。安心したのだ。彼女が後悔に呑み込まれたままでなくて、よかった。


 ジュナは笑いすぎたのか、目の端に滲み出た涙を指で拭った。彼女は自身を落ち着かせるように深呼吸をする。そうして、グレンと向かい合ったジュナは、唐突に小首を傾げた。


「グレン、少しせた?」


 青い瞳が、まじまじと見上げてくる。嬉しいような、照れるような、温かくて鮮やかな気持ちに満たされていく。


 ドルドに認められてから、グレンへのレース依頼は急激に増えた。毎週末、ハティアでレースに出場しているし、平日はできるだけ竜舎りゅうしゃへ顔を出して調教でも乗っている。もしかすると、五年前より働いているかもしれない。


 その影響で、ジュナたちをウォーディ竜牧場まで迎えに行けなかったが、それは嬉しい悲鳴というものだろう。


 清掃員から多忙なライダーへ駆け上がった負荷により痩せたのだろうが、それを馬鹿正直に白状しては彼女が心配する。


「昼を食わせてくれるヤツがいなかったからな、仕方ない」


 グレンは精一杯、冗談っぽく、ごまかした。真っ赤な嘘でもない。多忙な身を、味のない健康食品で支えられなかったのは事実だ。


「もう、ちゃんと食べなきゃダメって言ったじゃない」


 ジュナはねて、唇を尖らせる。本人、愛らしさを主張する気はないだろうけれど、その可愛さは久しぶりに見ると破壊力があった。くっ、と、グレンの喉が鳴る。


 今、その表情には勝てそうにない。全面降伏である。


「いや、あっついわー。寒いのに、あっついわー」


 コクが自身を両腕で抱き締めながら、責める視線を送ってきた。そういえば、今回も運転手を引き受けてくれたのは彼だ。つい忘れて、放置していたが。


 寒いやら暑いやら、どうやらコクは不調を訴えているらしい。最近、寒さが厳しいせいで体調を崩したに違いない。可哀想に。


「風邪、ちゃんと治せよ」


「どこまで鈍いんだよ!」


 コクは眉をつり上げて怒った。風邪でないらしい。原因を察しきれず、グレンは首を捻って考える。


 コクから大きな溜め息が落ちた。このところ、彼は溜め息ばかりの印象がある。


 疲れているんだな、と、グレンが気遣わしく見つめれば、それに勘づいたらしいコクは不機嫌に眉根を寄せた。やはり疲れているらしい。今度、礼として食事にでも誘ってやろう。


「とにかく! ジュピターは送り届けたからな。あ、ルーキーイヤーステークスのあたりはハティアでレースの依頼あるからよ、ケイシュレドまで送ってやれないわ。知り合いの運転手、紹介しとくぜ」


 コクは携帯電話を取り出し、ジュナと情報のやり取りをする。


 ルーキーイヤーステークスが開催されるのはハティアでなく、ずっと南へ移動した先にあるケイシュレドという都市だ。ハティアからは離れすぎているし、ライダーが本業であるコクにそこまで頼るのは無茶だろう。


「ありがとう、コクさん」


 ジュナは深々と頭を下げる。コクは、いいってことよ、と笑い飛ばした。


「オレはジュナちゃんを応援するぜ。そりゃもう、色々と」


 コクが親指を立て、任せろ、そう言わんばかりにポーズを決めると、ジュナの頬に赤みが差した。


 二人だけが通じ合っているような受け答えに、グレンの眉がピクリと反応する。いつの間に、二人は仲良くなったのだろう。心がわずかばかり揺れ動く。


「ジュナちゃん、グレンのこと、よろしくな!」


 グレンの雰囲気を感じ取ったのか、コクは居座らず後腐れなく、竜運搬車りゅううんぱんしゃへ乗り込んでエンジンを始動させる。発進する竜運搬車りゅううんぱんしゃを、グレンとジュナは共に見送った。


 グレンは腕を組み、難色を示して、サル顔を思い浮かべる。


 何が『よろしく』だ。面倒を見ているのは、年上である自分なのに。今度、飲みに行ったときにでも抗議してやろう。


「さて、と。ジュピターは寝ちゃったし、マリーさんにも会いたいし、そろそろ帰ろうかな」


 ジュナが伸びをして身体を解す。移動疲れで、節々が凝り固まったようだ。


 この後、グレンに予定はない。いつも通り、愛用のオートバイで彼女を送ってやれる。


 そこでグレンは、渡すものがあったと思い出した。


「ジュナ、ちょっと」


 グレンはジュナの片腕を掴む。驚いて停止する華奢きゃしゃ身体からだを引いて、事務所内へと連れて行く。


 事務机の目前まで歩んで、グレンは大きく咳払いした。


 綺麗にラッピングされた箱を前にして、想像した以上の熱が体内を駆け巡っている。思い出した勢いで連れて来たものの、突っ伏したいくらいに恥ずかしい。


「どうしたの?」


「い、いや……」


 彼女に背を向けたまま、動揺してしまう。何を躊躇ためらうのか、グレン自身が、よく分かっていない。


 不安か、期待か、羞恥しゅうちか。その全てなのか。


「ねえ、グレン」


 ジュナの声音に不安が混ざり始めた。これ以上、待たせるのは酷だ。


 グレンは覚悟を決めて箱を手に取り、彼女の胸へ押し付ける。


「やる」


 最短で言って、彼女の顔を見ないまま再び背を向けた。心臓が痛いくらいに跳ねている。


「開けていい?」


 ジュナから問われるのに頷き、背中越し、静かに開封する音が鳴るのを聞いた。今すぐ逃げてしまいたいのを堪える。


 背中に意識を集中させていると、彼女が息を呑むのが分かった。


「ありがとう、グレン」


 泣きそうで、温かみのある声音。彼女の細い指が、グレンのダウンジャケットの端をつまむ。


「…………必要なもの、だったから」


 感謝の品だ、とは言えなかった。彼女の顔を見るのは、もっと難しかった。


 ただ恥ずかしくて、耳まで熱いのを、ごまかすことばかり考えていた。

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