パシーブ・ディバイン・ドラゴン 2

 ハティアは歴史ある町として観光業に力を入れている。町の中心部は古き良き風情を守るため、景観を壊す高層ビルなどの近代的な建物は禁止されていた。


 しかし、ハティアにはプシティア国首都として、経済の中心地であるという側面もある。人口が集中し、当然ながら新しいオフィスビルや住宅なども必要になり、それらは町の中心部を避け、外へ、外へと広がっていった。


 そうやって発展したのが、ハティア経済地区である。


 そして、今。グレンの前には超高層ビルが、そびえ立っていた。


 見上げて、息を呑む。何か大きいビルができたな、とは思っていたが、近くで見る機会がこれまでなかった。


 グレンが間借りしているシーラッド夫人宅は町の中心部にあり、レース場は郊外の更に奥、フェルジャー大平原に面した地区にあるため、経済地区は通り過ぎるだけなのだ。買い物目的で商業施設を訪れることはあるが、オフィス街には馴染みがない。


「夫人は、このビルに行けと言ってたが……」


 独りでに呟いて、改めて超高層ビルを眺める。


 竜は夢と名誉と熱狂を与える代わりに、金を食う生き物である。食費だけでも人間の数十倍必要であるのに、管理費、遠征費、故障すれば治療費など、オーナーの金銭的負担は莫大ばくだいである。


 多額の資金が必要になるため、ドラゴンレース協会はオーナー資格を与えるのに一定以上の年収を第一条件にしていた。その額は明かされていないが、竜のオーナーは富豪であることに間違いない。


 それを理解してはいるものの、グレンが見上げる超高層ビルの、なんと凄まじいことか。天辺てっぺんは、どこだろう。これが富の象徴というなら、今まで会ってきたオーナーたちとは規模が違いすぎる。


 グレンは唾を呑み込んで、自身の頬を両手で叩いた。


 気後れなど、していられない。夫人が繋いでくれた縁を手放さないよう、しっかり自分を売り込んでレースの依頼をもぎ取らねば。


 意気込んでグレンは歩き出す。ビジネススーツを着た忙しそうな会社員たちに混じって、超高層ビルの正面から踏み込んだ。


 すれ違う人々から、不審な目を向けられる。どこか変なのだろうか。なるべく綺麗なジャージを選んだつもりなのに。グレンは心の中で首を捻りながら、受付でシーラッド夫人からの紹介だと告げた。


 すぐに秘書と名乗る男性がやってきて、案内されたのはビルの最上階だった。グレンにはよく分からない、おそらく価値のある絵画や陶器などの骨董品が並ぶ廊下を通り、最奥の扉を秘書がノックした。


 失礼します、と秘書が口に出し、磨かれ煌びやかな扉が開かれる。


 室内は四十平方メートルほどの広さだ。奥の壁は全面がガラス張りで、ハティア全域が視界に飛び込んでくる。その他の壁に変わったものはないが、それぞれに骨董品が飾られている。


 部屋の中央付近には、高級そうな執務机と、応接用だろう三つのソファーが中心を向いて置かれていた。そのソファーに二人の男が向き合って座っている。


 グレンたちは室内へ進み入った。


「クリンガー様を、ご案内いたしました」


「わかった」


 秘書の言葉を受けて、部屋の奥側に座っていた男が立ち上がった。男が近づいてくるのを見て、秘書は一礼して去る。


 男は大柄だった。いや、大柄と一言で表現できるものでなく、高身長の立派な体躯たいくに加え、太っているせいか横にも広く、迫力はメッシオ以上かもしれない。アッシュブロンドをボウズに近いくらい短く刈り揃え、グレーの瞳は無感情で冷淡さがあった。高そうなワインレッドのスーツを着こなし、風貌ふうぼうだけで考えれば極道の雰囲気である。


 グレンは夫人の言葉を思い出した。


『見た目はちょっと怖いけれど、悪い子じゃないのよぉ』


 これが、ちょっと。夫人の感覚が分からない。


 男はグレンの目前で立ち止まると、頭の頂点から靴の先まで観察するように眺めてくる。


「グレン・クリンガー。天才と呼ばれたライダー、か」


 立派な体躯に見合う、想像通りの低い声音が鳴った。迫力で胃が潰されそうになり、グレンは密かに深呼吸する。


「シーラッドのばあさんから話は聞いている。まあ、座れ」


 男は言うなり身体からだを反転させ、ソファーへ向かう。彼が夫人の話にあった人物のようだ。


 ドルド・ルイジ・ピシティアーノ。年齢は五十歳代だったか。外見はともかく竜を見る目は確かで、今やグレード・ワンのほとんどで彼の竜が優勝している。特に、一回でも制すれば幸運という神竜賞しんりゅうしょうを十回も勝っており、付いた異名は、神竜しんりゅうを見抜く男。


 いずれドラゴンレース協会長になるだろうと噂されるほど、発言力の強いオーナーだ。


『ドルドちゃんに気に入ってもらえば、良い宣伝になって、他のオーナーからも依頼が来るようになるわよ。難しいけれど、がんばって!』


 笑顔で送り出してくれた夫人の言葉を、また思い出す。これだけの大人物と知り合いだなんて、本当に、能ある鷹は爪を隠すとか何とかだ。


 ドルドの後を追うと、もう一人、ソファーに座る男と目が合った。瞬間、グレンは歓喜と興奮で肌が震えるのを自覚する。


 長身ちょうしん痩躯そうくの男だった。ダークブラウンの短髪はツーブロックでかき上げられ、両目の上から後頭部まで線状に金色のメッシュが入っている。耳の下から顎先まで生やしている髭は、野性味というより洗練された色気があった。紺色のサマージャケットと枯草色のテーパードパンツに、大人の落ち着きが垣間見える。


「バルカイト・オルニエス!」


 思わず叫んでしまって、グレンは、はっと気づき口を両手で押さえた。感激のあまりフルネームで、しかも呼び捨ててしまった。


 バルカイト・オルニエスはライダーだ。過酷なため現役でいられる時間が少ないと言われるライダーの中で、現役最年長の四十三歳であり、今も活躍し続けるトップライダーである。国民に誰が最強かと問えば、多くの人が彼の名を口にするだろう。


 彼の素晴らしさは成績のみでない。一八〇センチメートルという長身でありながら、ライダーを続けていることに感動がある。


 竜が背負う重量を均一にするため、ライダーには体重制限がある。体重が少なければ重りを乗せるだけで調整できるが、ライダー自身が重すぎる場合どうにもならない。重りで調節することもできず、公平性に欠けるため、体重超過ライダーは出場停止となってしまう。


 身長が高ければ相対的に体重も増えていくので、ライダーの身長は低い傾向があり、一六五センチメートルくらいが平均値だ。ちなみに、グレンは一七〇センチメートルだ。


 竜を制御するには筋肉も必要なのだが、それに頼り鍛えすぎると体重が落ちにくくなる。身長が平均値でも減量に苦しみ、脱落していった者は多い。ライダーにとって体重制限とは、引退するまで付き合わなくてはならないものなのだ。


 それを、彼は長身というハンデを背負いながらやっているのだ。二十年以上も、頂点に君臨し続けながら。


「君は……」


 バルカイトはグレンを見上げ、ヘーゼルの瞳を瞬かせた。彼に見つめられているという事実だけで、グレンの緊張は増す。


 彼こそ、幼き日のグレンが憧れたライダーだった。


 トナムに連れられて訪れた町、そこで大人に混ざって見たショーウィンドウ越しのテレビ画面。観衆に応える彼と竜の姿。今のグレンを形成する光景が、いつでも鮮明に思い出せる。


「初めまして! グレン・クリンガーです! ずっとテレビで観てました!」


 姿勢を正して一気にまくし立てた。グレンとバルカイトに面識はない。トップライダーである彼に、干された若造が近づけるはずがない。


 バルカイトはグレンの勢いに、きょとんとしていた。ややあって、彼は状況を理解したのか穏やかに笑ってみせた。


「初めまして、クリンガーくん。こちらこそ、いつもテレビで観ていたよ」


 バルカイトは立ち上がり、手を差し出す。グレンは慌てて、だが、失礼のないよう応じてそっと握る。


 挨拶が済み、二人はドルドと向かい合う形でソファーに腰を下ろした。


「オルニエスには、ワシの竜をよく勝たせてもらっている。ウチの主戦ライダーというヤツだ。もしかしたら、これから仲良くしてもらうかもしれんぞ」


 ドルドは生来のものだろう低い声音で、眼光鋭いままグレンへ言い放つ。


 もしかしたら。その言葉に淡い期待と薄い望みを抱く。


「だが、ワシを認めさせればの話だ。シーラッドのばあさんからの紹介でも、半端なライダーに依頼するつもりはない」


 ドルドの目に冷厳さが増す。たった今、グレンが抱いたものを奪い取るようなそれは、戦慄させる威風もあった。


 それでもグレンは引き下がれない。ドルドの眼光に負けない強さでありたいと思い、表情を引き締めて視線を返す。


「具体的には?」


「今週末、ワシの竜がグレード・スリーのレース、イダテンはいに出る。そいつを勝たせることができれば認めてやろう」


「えっ、あの竜ですか?」


 ドルドの発言に、バルカイトが驚いて口を挟む。ドルドは、ゆっくり頷いた。


「ワシが素質を見込んだ竜だ。実力は間違いない」


「しかし……」


「なんだ、ワシに意見するのか」


 食い下がるバルカイトをドルドが睨みつける。バルカイトは一瞬、表情を引きつらせ、黙り込んだ。


 グレンは改めて、ドルドという男の危険性を思い知る。トップライダーである、あのバルカイトを黙らせるほどの権力。威勢。おそらく彼は、それを振りかざすのに躊躇ためらいがない。


 ドルドに突き放されれば、他のオーナーも皆、彼を恐れてグレンを遠ざけるだろう。グレンへのレース依頼は、なくなる。それほどの権力と影響力を、彼は持っているのだ。


 失敗はできない。もう引き返すことも、できない。認められるしかない。


「明日、レース前、最後の調教がある。とにかく乗ってみろ、竜舎りゅうしゃには話をつけておく」


 ドルドは厳しい表情のまま告げた。そのグレーの瞳に、異論の許与きょよは映ることがなかった。

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