クラッシュ・オブ・サンダー 2

 グレンはロッカールームにいる。今は清掃員としてでなく、ライダーとして。独り、静かに時を過ごしていた。


 ライダー用レーシングスーツに袖を通すのは、いつぶりだろう。ベンチに腰かけ、太ももに肘を置く体勢で考える。もう思い出せないほど昔の気がした。それほど、ここへ戻ってくるまでの道のりが苦しかったのだ。


 五年前、神竜賞しんりゅうしょうの事故でグレンは身体にも心にも大怪我を負った。けして再起できないものでなかったが、いっそ、ドラゴンレースに背を向け離れても良かった。


 育ったところに帰ろうか。トナムもジェルトも快く迎えてくれるだろう。今なら、まだ、いくらでも人生をやり直せる。竜に乗らない人生を歩んだって、いい。空を眺めながら、ずっと考えていた。


 それでも、グレンはリハビリを乗り越えライダーへ復帰するのを望んだ。迷いながらでも勝手に身体からだが動いていた。幼い頃に抱いた憧れを、捨てることができなかったのだ。大切なものを失っても、尚、諦められない想いがあった。


 アウルに投げかけられた言葉が脳裏を過ぎる。


 ドラゴンライダーは、竜に乗ることでしか存在証明できない人間。他の世界では生きていけない。


 本当に、その通りだ。離れられなかった。竜に乗れなくても、レース場で働く清掃員だとしても、ドラゴンレースに関わっていたかった。みっともなくとも、しがみついていたかった。どんなことが、あっても。


 不意にロッカールームの扉が開いた。反射的に目を向けて、レーシングスーツを着た小悪党風の男と目が合う。褐色の肌に、彫りの深いサル顔、オールバックの黒髪。思い出にある馴染み深い男はロッカールームの出入り口で佇んだまま、茶色の瞳でグレンを見ていた。


「レース、乗るんだろ」


 勢いを失った声音が、ゆるりと耳を打つ。グレンは、ああ、と頷いた。


「……怪我、すんなよ」


 彼は、それだけを告げてロッカールームを出て行った。


 身体を反転させる一瞬、横顔が心配そうに歪められていたのに気づいて、グレンの胸中に懐かしさが広がる。彼は昔から、友を見捨てられない人情家だった。


 あの事故後、原因は何かと世間は興味津々だった。専門家なる人物がテレビのワイドショーに登場して、グレンのミスであることや、ゴルトが生まれ育った環境を批判した。どのメディアも一斉に、グレンとウォーディ竜牧場を糾弾きゅうだんしていた。


 その状況下にあってもアウルとコクは友であり続けた。しかし、ライダーも人気商売だ。新人で売り出し中の彼らがグレンと親しくいることは、不信感を生み、依頼の減少へ繋がり、死活問題になる。


 結局、グレンは彼らを突き放した。差し出された親切を拒絶した。彼らだけでもドラゴンレース界で不自由なく生きていてほしかった。


 あのときの決断に痛みこそあれ、後悔したことはない。今、彼らはライダーとして活躍している。それが、あの決断は間違いでなかったと証明していた。


「あの頃から変わってないな、おまえは」


 グレンの口元が綻ぶ。あの頃のままでいられないと思っていた。だから、変わらないものの存在が、純粋に嬉しかった。


 壁の時計を見上げれば、新竜戦しんりゅうせん開始の刻限が迫っていた。グレンはフルフェイスヘルメットとグローブを脇に抱え、ロッカールームを出る。途中、すれ違う人々がグレンを好奇の目で眺めたが、仕方ないと割り切って歩んだ。


 ハティア・レース場の建物は、三階建てになっている。一階の町側に入場ゲートや売店など商業設備があり、その裏、大平原に面した側に関係者の控え室やコースへの出入り口が置かれていた。


 観客席は二階と三階で、そちらからはコースに立ち入れない。観客席でも大平原側はぽっかり開いているのだから、飛び降りればコースへの立ち入りは可能だが、相当な高さを落下することになるので何本かの骨は諦めるべきだろう。


 グレンは慣れた通路を、不慣れな感覚で進んだ。ブーツの音が、やけに響く。


 コースへの出入り口付近まで進んで、同じ新竜戦しんりゅうせんに出場するライダーや関係者たちの姿が見えた。皆、グレンの存在を認識すると小声で話し始める。それらを気にしたり構うのは面倒の一言なので、グレンは我関せずといったふうに歩んでコースに出た。


 太陽の光が降り注ぎ、たくさんの観客席や、レース映像を映すため設置された巨大スクリーンが見える。フェルジャー大平原をぐるりと囲む山々は、マガローン火山を擁するブルスタッド山脈だ。人工物と大自然の共存が眼前に広がっていた。


「グレン」


 変に上擦った声音で呼ばれる。振り向けば、出会ったときと同じ黒いスーツを着たジュナが、レース用の装具を身にまとうジュピターを引いて連れてきた。


 レース当日、調教師などの竜舎りゅうしゃスタッフは一応、仕事での来訪であるのでビジネススーツで身を固めるのが定番だ。


 彼女はスーツを着こなす以前に、可哀想なくらい動きが硬い。出会ったときは平気そうだったから、スーツを着慣れないせいでなく、おそらく初レースに対する緊張だろう。


「ジュナ、リラックス」


 グレンは穏やかに笑いかけ、深呼吸をしてみせた。ジュナも一緒に息を吸い、大きく肩を上下させる。そんな二人を、ジュピターが首を傾げて不思議そうに見つめていた。


「あなたは緊張しないのね」


 ジュナが恨みがましい視線をよこすのに、グレンは片眉をつり上げ心外だと示す。


「俺だって緊張する。でも、やっぱり、この雰囲気は良いな」


 グレンは観客席へ振り返り、嬉々として言った。今日は満席とまではいかないが、なかなかに席が埋まっている。人々は巨大スクリーンを見上げ、時折、歓声を上げた。


 大平原からの風が頬を撫でていく。草と土と竜の匂いが混ざり合っていく。心臓の脈動が力強さを増していく。


「……そう、よかった」


 ジュナは安心したように呟いた。


「各竜、配置についてください!」


 レース運営係員の号令が響き渡る。観客の声が一際、大きくなった。


 グレンはヘルメットを被り、グローブを装着する。ジュピターが姿勢を低くした。その背に乗って、ジュナから手綱を受け取る。


 ジュピターは相変わらず素晴らしい背中だった。肌の色艶も良い。ジュナが調教師として最高の仕上げをしてくれた成果だ。


 あとは、ライダーがきっちり仕事をするだけ。


「行ってくる」


 グレンはヘルメットのシールドを下げる。ジュピターの胴体を軽く蹴って合図を出し、大平原の空へ飛び立った。


 グレンたちが出場する新竜戦しんりゅうせんは十キロメートルのレースだ。今回は神竜賞しんりゅうしょうのように洞窟を通る経路は使用せず、大平原のみを利用したコースとなっている。


 観客席から見て大平原の奥からスタートし、大平原を横切った後、緩やかに弧を描いて観客席の目の前に設置されたゴールまで飛行する。まさに【コ】という字の通りだ。


 スタート地点までの飛行は準備運動だ。ジュピターはグレンの手綱に素早く反応して従ってくれる。調子は良さそうで、懸念は何もない。


 他の竜を目で追い、様子を探る。ライダーと折り合わず喧嘩したり、神経質になって周りを恐れ身を小さくしたり、気合いが足りず迫力のない様など、未熟さを露呈ろていする年若い竜が多い。


 その中にあって、やはりというか、落ち着き払った竜が一頭。ボレトが乗る緑色の竜、プリマクラッセは図抜ずぬけた存在であった。


 グレンたちはスタート地点へ降り立った。前日のくじ引きで決められた順番に並び、静止する。グレンたちの隣には、因縁の相手がいた。


「本当に出場してくるとはね。どうせ勝てないのに」


 ヘルメットの奥から嫌みったらしい声が聞こえてくる。レース直前でも口の減らないヤツだ。


「言ったろ、可愛い後輩を指導するためだって」


「ふん、最低人気の竜で何ができる? 邪魔だけはしないでくださいよ、先輩」


 ボレトは息巻く。


 ドラゴンレースは国が協力する賭け事だ。当然ながら、今回の新竜戦しんりゅうせんも対象となる。各竜に賭けたときの予想配当金額は、ジュピターが最も高額であった。つまり、誰にも勝ちを期待されていないので人気がなく、賭けている人数が少ない分、当たるとデカい。


「それは良いな。ジュピターに賭けてくれた、優しい連中の懐を温めてやれる」


 グレンは思いっきり意地悪く笑んでやった。まあ、シールド越しでは見えないだろうが。ボレトが苛々したように呻ったので、効果はあったかもしれない。


 各竜、スタートの体勢が整った。頭上からカウントダウンのホログラムが降りてくる。十、九、八……グレンは、あぶみを踏んで中腰のまま前傾姿勢を取り、手綱を握り締める……三、二、一……。


 ブザーが鳴った。各竜が地面を蹴り、空へ飛び立っていく。素晴らしい瞬発力でスタートしたプリマクラッセが、一気に先頭を奪った。他の竜も負けじと追いかけるが、プリマクラッセの速さに追いつけない。


 ジュピターは遅れ、最後尾でのスタートとなった。


「はははは! そんな重い竜じゃ、プリマクラッセについてこられないよ!」


 ボレトの高笑いが降ってくる。プリマクラッセはぐんぐんと速度を上げ、他の竜を突き放した。一人旅は許さない、とライダーたちが竜の首を押して、押して、猛追の様相を見せる。


 ジュピターは離され、最後尾に一頭、ぽつんと取り残された。


 早くもレースは中盤に差し掛かる。大きく弧を描く箇所で、各竜、体を傾けて飛行した。


 先頭は変わらずプリマクラッセ。ボレトは竜の背に座る楽な姿勢で、余裕たっぷりに手綱を持っていた。油断していても誰も追いつけない、追い越せない。プリマクラッセに食らいつこうと翼をばたつかせていた竜たちが、一頭、また一頭とスタミナ切れで速度を落としていく。


 レースは曲線箇所を過ぎ、観客席がそばにある最後の直線へ差し掛かった。残り、二キロメートル。プリマクラッセの先頭は揺るぎない。


 そのとき、観客たちが、ざわめいた。緑の竜へ向かって伸びてくる漆黒の影を見たからだ。


 プリマクラッセから離れること、たった、十数メートル。ジュピターは他の竜たちを抜き、いつの間にか二番手まで追い上げていた。


「なんで!? なんで!?」


 ボレトは恐怖と混乱の入り混じった叫びをあげた。彼は楽な姿勢を捨て、急いで中腰になって竜の首を押す。


 グレンは、ほくそ笑んだ。彼には何もかもが謎だろう。


「新人! おまえはペース配分ってものを教わらなかったのか!」


「ペースぅ!?」


「プリマクラッセを、よく見てみろ!」


 ボレトの視線が前を向く。彼の身体が硬直したように動かなくなった。いや、動かせなくなったのだ。


 プリマクラッセは、だらしなく口を開け、息も絶え絶えの状態だった。体の動きはバラバラで、速さを出すための連動性がなくなっている。飲み込む力もないのだろう、牙の間から唾液が伝い流れる。それはボレトの高そうなレーシングスーツへ落ち、汚く濡らした。


「おまえはプリマクラッセの強さを過信して、オーバーペースで飛び続けたんだ! あおられた他の竜も一緒に! しかも自分だけ楽な姿勢になって、更に負担をかけてな! 俺たちは出遅れたんじゃない、後方で待機してスタミナを温存してただけだ!」


「くそぉぉぉおおおおぉ!!!!」


 ボレトは、自棄やけになって緑の竜を押した。


 本来、ライダーが竜の首を押すのは、頭の上げ下げによって翼を動かす筋肉との連動性が生まれ、加速していくからだ。だが、今のプリマクラッセに連動性が生まれる余力はない。余計に体勢を崩して減速するだけである。


「いいか、新人! ライダーは楽になるな! 体内時計で正確にペースを計れ! 曲がるのも下手だから練習しろ! とにかく練習しろ!」


 ジュピターはプリマクラッセの背後に迫っていた。ジタバタとする緑の竜に巻き込まれないよう、グレンは進路を大きく下へ取る。プリマクラッセの下へ潜って追い抜かすことを選択した。


 レースは残り、一キロメートル。余力充分のジュピターが、自滅したプリマクラッセをかわすのは必然だった。


「ははははは!!!!」


 ボレトが狂ったように笑った。プリマクラッセが暴れながら下降してくる。


 プリマクラッセはジュピターの進路上へ、のしかかるように降りてきた。グレンは更に下へ進路を変える。だが、ボレトもより下へ手綱を引き、ジュピターの進路を塞いだ。


 ジュピターと地面の距離は、もうない。これより、下降できない。


「このまま地面に墜ちろぉぉおぉぉぉ!!!!!」


 ボレトは仕上げとばかりに、思いきり手綱を引いた。彼は、これで勝負が決したと思ったはずだ。


 それは、グレンも思っていた。これで決まった、と。


 グレンはジュピターの首を押し、進行方向を下へやった。ジュピターは下降する。限界を超えて下がっていく。


 瞬間、大平原に漆黒の雷が走った。

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