バディ・フォーフェイト 2

 薄暗い廊下で、足を引きずりながらグレンは歩んだ。絶対安静と言われていた。松葉杖に頼っても上手く歩けず、時折、床にへたり込んでしまう状態だった。それでも行かねばならなかった。


神竜賞しんりゅうしょうの最中、おまえたちは他の竜と接触した。そのときゴルトが制御できないほど暴れて、コースの壁に激突しながら墜落したんだ』


 俯くコクに代わって説明したアウルの声が、脳裏で再生される。


 馬鹿な、と、グレンは思った。ゴルトはレース中の闘争心こそ凄まじいが、冷静で賢い竜だ。制御できないほど暴れたなんて信じられない。何かの間違いだ。


 神竜賞しんりゅうしょう当時の記憶が戻らない分、グレンは真実を確かめたかった。相棒がいない世界を認めたくなかった。


 グレンのいる病院は、ハティア・レース場近くにあるものだろう。ならば、ボルテシア竜舎まで遠くない。深夜の闇に紛れれば誰に発見されることもない。


 息を切らしながら歩む。一歩ごと、身体中を襲う痛みに歯を食いしばって耐える。そうして、やっと辿り着いた竜舎りゅうしゃは暗闇の中、静けさに包まれていた。グレンは壁に身体を預け、ゴルトのいる屋舎おくしゃを目指す。


「ゴルトっ……」


 掠れた声で呼ぶ。屋舎の中から竜が頭を出す。月光に照らされたのは赤い色だった。グレンは赤い竜を通り過ぎる。


「おい、ゴルト……くっ……」


 グレンの膝が折れ、地面に手を突いた。松葉杖が転がる。肩で息をするグレンの頭上に気配が現れ、月光を遮った。期待を込めて見上げた先には知らない顔。緑の竜が不思議そうに首を傾げて見つめていた。


 グレンは眉根を寄せ、唇を引き結ぶ。転がっていた松葉杖を手繰り寄せると、どうにか立ち上がって、また足を進ませた。


 グレンの存在に気づいた竜たちが次々と顔を出す。けれど、一つだけ。よく知る屋舎だけ竜の顔が見えない。


「ゴルト!」


 思いきり叫んだ。辿り着いて屋舎の中を覗く。


 真新しい寝わらが敷き詰められていた。その上には、たくさんの花束や果物が並べられている。丸々として赤く熟したリンゴもあった。ゴルトの大好物だ。


 彼なら、すぐかじり付いて、頬張って、幸せそうな表情で飲み込むだろう。早く次をよこせと、鼻で腕を突っついて。ないと答えれば残念そうに気落ちして。


 甘えて頬を擦り寄せる仕草。闘志のたぎった戦う顔。壮大な天空を切り取ったような青い瞳。何もかもを思い出せるはずなのに、最期だけが思い出せない。


 屋舎にゴルトはいなかった。寝そべった形跡のない、ふかふかの寝わらが。供物として置かれた花束や果物が。屋舎の主が失われた事実を告げていた。


「グレンじゃあねぇかぁ」


 背後から間延びした声を投げられた。振り返ればザムが手にした瓶を掲げ、よう、と楽天的に挨拶する。彼の視線は泳ぎ、足元は覚束おぼつかない。瓶の中身は酒だろう。それに溺れるザムは見たことがなかった。


「おまえ、病院じゃなかったかぁ? 治ったんかぁ? わけぇもんは治りが早くていいねぇ!」


 陽気なザムは瓶に口を付け、ぐっと持ち上げて傾けた。飲み下す音が無遠慮に鳴る。だらしなく緩んだ口元から酒が零れていた。


「ザムじいさん、俺は」


「早く病院に帰んな。ここにゃあ、用ねぇだろ」


 詰め寄らんばかりに口を開いたグレンを、ザムの低い声が押し留めた。酔っ払い、ふらついている彼の眼光は、どうしてか刃物のように鋭い。怖じ気づく自身を心の中で叱り、グレンは松葉杖で支えながら近寄る。


「俺、何も覚えてないんだ。何があった? ゴルトが暴れたって本当なのか?」


 目前まで寄ったグレンを見上げ、ザムは瓶を宙に掲げたまま止まった。彼の両目は驚きで見開かれている。


「覚えて……ねぇってか?」


「そうだ、何も! 思い出せない!」


 グレンは松葉杖を投げ捨て、ザムの両肩を掴んだ。名伯楽めいはくらくの眼が戸惑いで揺れる。瓶を持つ手が震えていた。


 ザムは俯く。


神竜賞しんりゅうしょうのコースには難所がある。太古の時代、火山活動でできたっつう狭い洞窟を通る場所だ。昔から竜同士の接触が絶えねぇそこで、事故は起きた。他の竜がゴルトにぶつかって、あいつは、じたばたと暴れた。狭いとこを猛スピードで飛んでんだ、一瞬のミスが命取りだ。次の瞬間にゃあ、おまえらは洞窟の壁に衝突して墜ちてった」


 震えるザムが語る、神竜賞しんりゅうしょうの出来事。実感のないそれは、とても空虚なものに思えた。グレンはザムを揺する。


「おかしいだろ! ゴルトが暴れるなんて! 何かあったに決まって」


 ガシャン。瓶が地面に打ちつけられ、破片が散乱した。


「控え室で映像を観てたんだよ! ゴルトは頭を上げ下げして暴れて、おまえは手綱を引いたが制御できなかった!」


 ザムがグレンの胸ぐらを掴み、持ち上げた。彼の拳に物凄い力で喉を圧迫され、息が詰まる。


「レース中の竜は気が立ってんだよ! 接触で暴れるなんざ当たり前だろ! 暴れる竜をどうにかすんのがライダーの仕事だろうが! あれは、おまえのミスだ!」


 ザムの言葉に殴りつけられ、グレンは全身の血脈が凍りつくのを感じた。


 おまえのミス。自分の、ミス。受け止めることができない。


「なのに、なのによぉ、こんな不出来なライダーをゴルトは守ったんだ!」


 ザムの両目から涙が溢れる。


「あいつは墜ちる最中、おまえを抱えた! 結果、ゴルトがクッションになって、おまえは助かった! あいつが自分を犠牲にしたからだ! おまえが壁に当たらねぇように! 地面に打ちつけられねぇように!」


 ザムは放心するグレンを強く揺らした。


「なぁ、返してくれよぉ! あいつは、おれの夢だったんだ! なぁ、グレンよぉ! 天才なんだろ、おまえはぁ!」


 ザムは泣き叫んで揺すり続ける。グレンは表情をなくしたまま、彼を眺めていた。夢の中にいるみたいだった。何一つ、現実でない気がしていた。


 ザムは突然、手を放した。グレンの腰が落ち、地面へ座り込む。


「ああ…………酒が、なくなっちまったなぁ…………」


 先ほどまでの激昂が嘘だったみたいに、ザムはひっそり呟いた。グレンの視界にあった彼の足が動く。遠ざかる、ふらついた足音。


 竜舎りゅうしゃに静寂が戻っても、グレンは地面に座り込んでいた。


「俺のせいで、ゴルトは……」


 辛そうに目を伏せたアウルとコクを思い出す。泣き叫ぶザムの言葉が頭に響いている。


「ゴルト、おまえ、本当に……俺を、守って……」


 グレンは屋舎へ顔を向けた。相変わらず黄金色の竜は顔を出さない。相棒のいた、そこには虚無の闇だけが広がっている。


「ゴルト」


 震えた声音で呼びかける。人懐っこい甘えた顔が覗くでもない。綺麗で澄んだ青い瞳が見つめてくるのでもない。嬉しそうな鳴き声が返ってくるのもない。


 空間が、ぼやけた。頬に冷たさが流れた。短く詰まった声が、勝手に口から漏れていた。


 グレンは蹲った。相棒の名を呼びながら、会いたいと純粋に思っていた。

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