イン・ザ・パスト 2
グレンは、ボストンバッグがどんどん膨らんでいくのを見ていた。ビニール製の安物であるそれは既に許容量を超えているようで、机上に置かれたまま破裂するのではないかとグレンの内心を焦らせる。
「先生、それ以上は入らないよ」
グレンはボストンバッグの奥へ声をかけた。え、と顔を上げたトナムは手を止めたが、その表情は不安で陰っている。
「でもね、グレン。出立の準備は万全にしておくものですよ。着替えは必要だし、勉強道具もあった方が良いわね。非常用の薬や食糧も備えて安心だし、ああ、元気がないときに食べられるお菓子も……」
トナムは喋りながら思いついたものを手に取り、バッグへ押し込んだ。あれがいい、これじゃない、と独り言を呟きながらバッグの中身を整理している。忠告は、おそらく忘却されたのだろう。グレンは溜め息を吐く。
「着替えはライダースクールの寮にも用意されているし、体調や体重管理があるから薬も食糧も持ち込み禁止。あと、勉強はしない」
グレンはトナムの後頭部を見下ろしながら、今度は強めの声音を投げかけた。へ、と彼女は気の抜けた顔を向けてくる。
「でも……」
「先生、俺、もうそんなに子どもじゃないんだ」
溜め息混じりで言えば、トナムは
彼女の明らかに気落ちした様子はグレンの良心を突いた。もっと、優しい言い方があったのかもしれない。そう思い直すものの、言ってしまったものは覆らない。傷つけた申し訳なさで居心地の悪さを味わう。
「グレン、子どもが家を出るときの母親は、みんな、そうなっちまうもんだ。おまえのことが心配で堪らないんだよ」
二人の様子を見守っていたらしい男が、快活に笑いながら口を挟んだ。彼は汚れた作業着に、無精髭で、短く刈り上げられた頭髪の多くは白髪だった。
笑顔が人懐っこい中年の明るい調子で、重い雰囲気が塗り替えられていく。グレンは、ほう、と安堵の息を吐いて男を見た。
「
呼ばれた男は、にかっと豪快に笑う。
ジェルト・ビガー。彼はグレンが育った児童養護施設の近くにある、竜牧場の長だ。幼いグレンが訪問した際、牧場長とは言えず、略称したのが現在も続いている。グレンに一から竜乗りを教えた師匠のような人物だ。
「おう、そろそろ出立の時間だから迎えに来てやったぞ。玄関で呼んでも来ねぇから、準備で忙しかろうと助太刀にな」
「ああ、すみません、牧場長。もう少しで終わりますから」
トナムは頭を下げ、気落ちした様子を引っ込め手を動かす。ジェルトは、ゆっくりでいい、と彼女を落ち着かせた。
ボストンバッグは、相変わらず肥大化している。トナムは疲労の
「先生、あとは俺がやるよ」
「私にやらせてください、グレン。あなたにできること、これくらいしかないから」
トナムは手を止めない。グレンは彼女の後頭部を眺めるしかなかった。
最近、白髪が増えてきたのだと悩む赤毛は、確かに昔より
グレンに両親の記憶はない。記憶に残らないほど幼い頃に、亡くなったせいだ。
児童養護施設に引き取られ、それからずっと面倒を見てくれたのがトナムだった。施設の皆のことを家族ほど大事にしていないグレンであったが、彼女のことだけは特別だと思っている。
そんな彼女と共に過ごす時間は、あと、
「あんなに小さかったグレンが、もう十五歳たぁ、月日の流れは馬鹿にできねぇなぁ。しかもライダースクールに入学できるなんて、俺たちの誇りだな!」
ジェルトは大げさに笑ってグレンの背中を勢い良く叩いた。腹まで響く音と衝撃に、グレンの喉奥から呻きが出る。
「受験者が二千人いて、合格者は十人だけって聞いたときには心配でしたけど……。合格させてもらえたなんて、本当に、ありがたいことで……」
トナムは手を休めることなく恐縮している。
「筆記試験は散々だったらしいがな! おまえ、勉強はやった方がいいぞ! ま、俺もできねぇけどな!」
ジェルトの無骨な手に何度も叩かれる。グレンは咳き込みつつ、気恥ずかしさと嬉しさを感じていた。
トナムが母親代わりなら、ジェルトは父親のような存在だ。二人が喜んでいるなら、それでいいと思う。
そうしているうちに出立の準備が整った。トナムと施設の皆が見送りに、ジェルトの軽トラックまで来ていた。普段は汚れの目立つ軽トラックが、この日は綺麗に磨き上げられており、見慣れない車体に出立を促されているようでグレンの胸中が騒ぐ。
育ててくれたことに恩はあるものの、施設に愛着はないと思っていた。いつか必ず出なければならない場所だから、情を持たないようにしていた。しかし、今、グレンの内には確かな哀愁があった。感情の変化に乏しいと言われ自覚もあったが、それでも、離別に心が揺れ動いているのだ。
「トナム先生、グレンは俺が無事に送り届けるんで」
ジェルトは肥大したボストンバッグを荷台へ放り投げ、皆に一礼すると運転席へ乗り込む。グレンも彼に続こうとして、だが足を上手く動かせない。
「グレン」
佇んでいるとトナムに呼ばれた。彼女の声が震えているから、たぶん、泣いているのだろう。振り返ればグレンも情けなさを露呈しそうで怖かったが、彼女の声には勝てなかった。振り向き、トナムと向き合う。
施設を出ると決めた以上、グレンの居場所は、ここにない。もう、帰ってくることはないだろう。だから、誇りより意地より、母親と思う存在を記憶に焼き付けておきたかった。
「
トナムは胸の前で重ねた自身の手を、ぎゅっと握り締めた。彼女の頬は
いつの間にか追い抜いてしまった背丈。記憶にあるよりも小さく感じる彼女を見ながらグレンは頷く。
「先生も、元気で」
グレンは早口で告げると、さっと助手席へ乗り込んだ。これ以上は涙が零れてしまう。
ジェルトがエンジンをかけ、軽トラックが発進した。サイドミラーに映る見慣れた景色が遠ざかっていく。建物も、草木も、見慣れた顔も、何もかも。
「泣いていいんだぞ」
ジェルトが小さく言った。彼は大粒の涙を流していて、鼻水を
何も持たず生まれ、そのまま放られ、己だけで生きていくしかないと感じていた。児童養護施設で育ったことに負い目はないが、周りの人間が気を遣ったり遠ざけたりするのに、おまえは他と違うのだと強迫してくるような苦しさがあった。
感情が乏しいのは、鈍くすることで周りから守ろうとする防衛本能かもしれない。周りの力を借りず、自分だけで生きていく術が欲しかった。
けれど、実はどうだろう。自分には温かい感情があって、周りには離別で涙を流してくれる人がいる。なんて幸せ者なのだろう。他と違う分、いや、それ以上に幸福であったのだ。
「
口を緩ませながら応えれば、ジェルトは、うっせぇ、と
軽トラックで揺られながら、車窓へ視線を移した。窓に映る人物は、苦しげに眉根を寄せている。馴染み深い景色は、なぜだか、ぼやけて滲んでいた。
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