第二話 イン・ザ・パスト

イン・ザ・パスト 1

「また勝ったよ。また、こいつだ」


 男が唐突に手を叩いた。すぐ近く、頭上でパンと響く乾いた音に驚いて、グレンは身をすくませる。


 保護者を待っている最中だった。大人がいない状況で頼れるのは自分だけ。身に危険はないかと注意深く見上げる。


 男は二人いた。先ほど大きく手を叩いた男と、丸めた新聞紙を脇に挟み腕を組んでいる男。二人揃ってショーウィンドウを覗いているが、買い物を始める気配はない。ガラスの奥、商品として展示されているテレビの画面だけが目的のようだ。顔までよく見えなかったが、身なりに清潔感は見当たらず、記憶の中にいる誰よりも年寄りだとグレンは思った。


「このライダー、一日で、いくら稼いでんだろうなぁ」


 新聞紙を抱えた男が、心底からだろう羨む声を零す。隣の男が頷いた。


「竜に乗れさえすりゃあ、若いうちにデビューできんだろ? いいよなぁ、俺もレースで勝ってスターになりたかったぜ」


 おまえじゃ無理だ。まあな。そう言い合って男たちは笑う。


 彼らが何について話しているのか、興味がグレンを動かした。やかましい声を潜ってガラスに額をつける。


 テレビ画面には、たくさんの人が映っていた。音は聞こえないが、誰もが空へ顔を向け、拳を突き上げたり掌を伸ばしながら口を大きく開けている。叫んでいるようだった。


 一体、何を見ているのだろう。グレンの疑問に応えるようなカメラワークで画面が動く。それが空を捉えたとき、グレンはまぶたを大きく開けた。


 一人の男と一頭の竜が空を舞っていた。傷だらけで、上空で姿勢を保つのがやっとな印象だった。けれど、それは力強く、堂々たる姿だった。


 男が拳を突き上げれば地上の人々も拳を突き出す。竜がえれば、人々は喜んで飛び跳ねた。間違いなく彼らが主役だった。


 ああやって飛ぶのは、どんな気持ちなのだろう。どうしたら、あんなふうに飛べるのだろう。


 ボロボロのまま歓声に応える人と竜は、最高に格好良かった。彼らは、心に明確な憧れを抱かせた。


「ああ、グレン、こんなところに……って、なにを見ているのです?」


 横から女性の声がしたと思えば、彼女はグレンの背後へ移動してショーウィンドウ奥のテレビ画面を見た。


 白いブラウスに、紺のロングスカート。赤い長髪は背中で三つ編みにされ、愛用の眼鏡には曇り一つない。背は低いが物怖じせず、丁寧な口調ながらも真っ向から立ち向かう豪気さもある。彼女、トナム・ガエリは、グレンの保護者だった。


 突如とつじょとして割って入った女に騒がしくしていた男たちが驚き、自らを恥じたのか興を削がれたのか立ち去っていく。


「ねえ、先生。これ、なにやってるの?」


 グレンは振り返り、トナムを見上げる。彼女は眼鏡を押し上げ、少し困ったような表情になった。


「これはドラゴンレースという競技です。人気だけど賭け事もするのが、あまり好ましくないですね。国が協力しているから安全っていうのは、まあ、そうなんだけれど」


 彼女らしい回答だった。グレンは、真面目、という言葉を彼女の行動から知ったぐらいだ。常日頃、共に暮らす子どもたちの模範たれと心がけているのだろう。


 グレンに、賭け事のなんたるかは理解できなかった。それが悪いものとも思えなかった。ただ、自分の心を躍らせたものがドラゴンレースという競技で、それを知れたのが嬉しかった。


「さあ、あなたがこっそり抜け出している間に、小学校入学の手続きは終わったから帰りましょう。せっかく街まで出たんだから、みんなのお土産を買いましょうね」


 トナムはガラスに引っ付いたまま離れないグレンの手を取ると、優しくゆっくりと引いた。待つのは退屈すぎて逃げ出した手前、罪悪感もあり、グレンは仕方なく彼女の隣に並んで歩き出す。


 町には人が溢れ、店にはきらびやかな商品が並んでいた。どれも、グレンが暮らす児童養護施設にはないものだった。トナムが楽しそうに話している。


 グレンは、あの光景が頭から離れなかった。ドラゴンレースへの興味が、後から後から波のように押し寄せた。身体からだが、うずうずとする。じっとしていられない。そんな感覚は初めてだった。


「どうやったら竜に乗れるの?」


 グレンは我慢ならず、質問した。トナムは眼鏡の奥にある眉根を寄せる。


「あのねグレン、ドラゴンレースは……」


「乗りたい」


 グレンは衝動に突き動かされるまま言う。言葉を遮ってまで主張するのに、トナムは声を詰まらせた。


 うーん、とうなって数秒。変わらず真っ直ぐ見つめるグレンに根負けしたのか、彼女は口元を緩ませた。


「施設の近くに竜牧場りゅうぼくじょうがあったと思います。頼めば乗せてくれるかしら」


 トナムは、やれやれ、と微笑んだ。グレンは喜び、繋いだ手を揺らす。彼女はそれに応えるように手を揺らしながら、嬉しそうに目を細めた。


「赤ん坊の頃から、あなたを見ているけれど、こんなにお願いされたのは初めてかもしれませんね」


 トナムの表情は優しかった。それは、グレンの記憶にしっかりと焼き付いている。

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