ダウン・アンド・アウト 6

 駐車場で、オートバイにキーを差し込もうとしていたときだった。足音が近づいてきて顔を向ければ、一人の女が歩いてくるところだった。


 細身で小顔、パンツタイプの黒いスーツがよく似合う若い女だった。肩にかけるビジネスバッグも黒で落ち着いた雰囲気だったが、ダークブロンドの髪は耳が隠れる程度のショートボブで活動的な印象も受ける。


 青い瞳が、真っ直ぐグレンを見据みすえていた。空の青さを余すところなく詰め込んだようなそれは、どこか見覚えがあった。会ったことが、あるのだろうか。グレンは記憶を探ってみるが、欠片も出てこない。


 そうしているうちに、黒いスーツの女はグレンから三歩ほど離れた位置で足を止めた。


「グレン・クリンガーね?」


 はきはきとしていて勝ち気な声音が問いかけた。いぶかしみながら、グレンは頷く。


「俺に何か?」


 単刀直入に聞く。面倒事なら関わらないつもりであった。グレンはいつでもキーを差し込めるようオートバイへ手を乗せる。


 に、と彼女が口端をつり上げた。整った顔立ちで形作られる挑戦的な笑みは、グレンの心に僅かな動揺を誘う。


「あなたに会ってほしい竜がいるの」


 彼女の声は自信に満ちていた。会えばいい、それだけでいいと言外に含ませていた。言葉に偽りはないようだった。


 会ってほしいのが竜とは、なんと奇妙な誘い文句か。一体、彼女は何者なのか。


 おそらく彼女は知っている。一般人からすれば奇妙なものだが、対するのがライダーであれば、それは極上の殺し文句であると。グレンは自然、オートバイから手を離していた。


 グレンの行動を受けて、彼女は歩き出した。どうやら後を追えばいいらしい。グレンは彼女の背を見つめながら足を踏み出す。


 黒いスーツの女は駐車場の端にあるエレベーターに乗り、地上へ出て、慣れた様子で進んでいく。グレンが後を追いながら先へ目を向ければ、遠くに、背の低い横長の建築物が、数多く連なって幾つもの列を形成している区画が見えた。レースへ出場する竜たちが暮らしている竜舎りゅうしゃだ。


 基本、どのドラゴンレース競技場にも竜舎りゅうしゃは存在する。所属する竜が生活拠点として暮らしていたり、レース出場のため遠征してきた竜が滞在するからだ。その中でもハティアは所属する竜やレース開催数が多く、国で一番の数だろう。


 レース開催日であるため関係者の多くは競技場内にいるせいか、竜舎りゅうしゃは閑散としていた。レースに出場しない竜の世話を任されたのだろう数人が、急くことなく、のんびりと働いている。神竜賞しんりゅうしょうはお祭りみたいなものだ、こんな日に留守番なんて、やっていられないという気持ちもあるだろう。グレンたちを気にする素振りもない。


 黒いスーツの女は、竜舎りゅうしゃが建ち並ぶ区画を通り過ぎ、更に奥まで進んだ。竜舎りゅうしゃの奥は、大平原を利用した竜の調教場だ。調教師であれば誰でも使用できる公共の場となっている。


 調教場といっても、眼前には大平原が広がるだけの風景で、施設や競争路があるのではない。空を飛んで訓練する竜に地上は関係がないから、特別な施設は必要なかった。


 竜の調教は多くが早朝に行われるので、昼を過ぎた今は竜も人もいないはずだが。疑問に思うグレンの進む先で、ただ一頭、待ち構えている黒い影があった。


「この子よ」


 黒いスーツの女が立ち止まる。グレンは全身の血脈が瞬時に騒ぐのを感じた。


 黒よりも深い、見事な漆黒の竜だった。皮膚の色艶いろつやが良く、筋骨隆々な体格は平均値を超えてかなり大きい。筋肉があるだけでなく、質も柔らかそうだ。翼の可動域も広いだろう。佇まいの姿勢も申し分なく、全身の均衡きんこうが取れている。


 何よりも、雰囲気が並の竜ではなかった。活躍し、名竜めいりゅうと称されるものは、皆、他の竜とは一線をかくす雰囲気を纏っている。この漆黒の竜が持つものも、間違いなくそれだった。グレンは身を震わすほどの雰囲気を知っている。また、そういう逸材に会えるとは思っていなかった。


 しかし、グレンは首を振る。


「体がでかすぎる。飛ぶのに必要な筋肉があるのはいいが、必要のない筋肉も付いている。長い距離は飛べないだろ」


 ドラゴンレースにおいて、主要レースのほとんどは中長距離だ。十や二十、長い距離だと四十キロメートルに及ぶレースもある。活躍するために速く飛ぶのは当然ながら、速さを維持して飛び続ける体力も必要だ。


 人間でいう中長距離走の印象に近い。長距離ランナーの体型といえば細身を思い出すだろう。それは竜においても同様で、体格が立派すぎず、翼に良質の筋肉を備えながらも可動しない部分には無駄な肉がないというのが望ましい。


 だが、この漆黒の竜はといえば、筋肉は柔らかそうで良質ではあるものの、飛ぶのに必要ない手足や首などにもしっかり肉付いており、体格が大きく、魔力の補助があっても飛ぶには重い。他の竜より多くの重石を背負っているようなものだ。これでは速度を維持して飛び続けるなど困難で、レース終盤に失速するだろう。


「そうだな、短距離なら可能性はあるが……」


 もちろん、短い距離で行われるビッグレースはある。短距離専門で名竜めいりゅうと称されたものもいる。


 しかし、それは最も権威あるレースから遠く、王道とはいえない。関係者の誰もが目指す頂ではないのだ。


 漆黒の竜は生まれながらのハンデによって、王道から外れた道を示唆されている。素質は並ならぬものを感じるだけに惜しい。


「いいから、とにかく乗って」


 独り言を呟きながら竜を眺めていたグレンの胸に、フルフェイスヘルメットが押し付けられた。ライダー用の品だ。


 視線をやれば、いつの間にか準備をしていたらしい黒いスーツの女が憮然とした表情でグレンを見上げている。改めて間近で見ると、彼女の目鼻立ちは整っており、なかなかの美人である。やはり見覚えがあるような気がして、心が戸惑う。


 明確な意思を示せないまま、再度、胸を押された。グレンは気圧される形で、ヘルメットを受け取ってしまった。


「この子は活躍できないって、生まれつきの体格でどうしようもないって、何人にも言われた。乗りもしないくせに、この子のこと、なんにも知ろうとしないくせに」


 彼女は手慣れた身のこなしで漆黒の竜に鞍と手綱を付け、悔しげに表情を歪ませる。グレンは察した。彼女が、どれほどの落胆を聞いてきたのか。


 漆黒の竜に対しての批評は、たぶん、少し竜に詳しい人間なら誰しもが述べる見解だ。そんなことは分かりきっているのだ、彼女にだって。


 活躍できないと、脱落の烙印を押された漆黒の竜。ライダーでありながら竜に乗れないグレン。まだ何も終わっていない。諦めきれない。一人と一頭は、どこか似ているようだった。


 グレンはヘルメットを被る。装着具合を確認しながら歩き出す。


「わかった。こいつの言い分も聞いてやらないとな」


 黒いスーツの女が、驚いて目を丸くする。その横から漆黒の竜へ乗り込み、手綱を寄せつつヘルメットのシールドを下げた。


 鞍に腰を下ろして、その乗り心地の良さに驚く。筋肉が上質だからか、背中が柔らかく沈み込むようだ。経験を積んだライダーはまたがっただけで一流が分かるようになるが、グレンの経験でいえば今までで一番の乗り心地であった。やはり体は惚れ惚れするものを持っている。


 準備が整ったと見てか、黒いスーツの女が、その場から離れていく。グレンは深呼吸を一つして、手綱を握り締めた。


 おまえは、本当に脱落したのか。自分は、まだ戦えるのか。乗って、対話しようじゃないか。


 そのとき、漆黒の竜が長い首を曲げグレンの方を見た。に、と、恐ろしく底意地の悪い笑みを形作られた。気がした。


 突然、漆黒の竜が体を沈ませる。そう思えば次の瞬間には飛び上がり、風と重みに耐えているうち、あっという間にハティア・レース場の全容が見下ろせる高さまで来ていた。雲が近い。


 グレンは息を呑む。なんという瞬発力、想像を超える爆発力だろう。弾けた、という表現が似合う状況は、これ以上ない。


 空高く上がった漆黒の竜は、休む間を与えないまま今度は急降下した。グレンは風で引き剥がされそうになるのを、全身の筋肉を総動員して必死に堪える。


 地面が近付くのも、あっという間だった。だが漆黒の竜は降下する速度を緩めない。


 まさか、衝突する気か。無事で済むはずがない。緊張が走り身体が硬直するのをどうにか我慢して、グレンは衝撃に備える。


 漆黒の竜が四肢を構えた。手足が地面に突き、凄まじい衝撃と衝突音が交錯する。地面が割れ、粉砕され、グレンは身を投げ出されそうになるが手綱にしがみつく。


 漆黒の竜は地面を踏みつけながら、また体を沈ませた。更に深く割れる地面。瞬間、漆黒の竜は飛び上がり、上空を舞っていた。


 上空から全力で叩きつけたゴムボールが落下し、地面で跳ね、元々あった高さまで戻ってきたくらいの時間感覚だった。見下ろせば、地面の一点だけ窪み割れている。一点だけぽっかりと穴が空いている様は、まるで激しい落雷が抉ったかのようだ。


 地面の有り様は衝撃の凄まじさを物語り、実感のなかった思考でも状況を認識するに至った。グレンは思わず身震いする。投げ出され、大怪我をしても当然の状況だった。よく無事でいられたものだ。


 漆黒の竜は広げた翼で空を打ち、ゆっくりと旋回しながら滑空していく。動きに異常はなさそうで、凄まじい衝撃など皆無だったかのように平然としている。


 なんてヤツだ。グレンが恨めしい思いで見つめると、それに勘づいた漆黒の竜が顔を向けてきた。楽しげな表情をしている気がする。ほんの挨拶代わり、だろうか。グレンは遊ばれ、試されていたらしい。


「くそ、このやろう」


 グレンは笑っていた。気心の知れた友に仕掛けられた悪戯を、仕方ないと諦めて許すような、温かさを伴った楽しさが胸に広がっていた。滅茶苦茶すぎて笑うしかない。こんな竜、初めて出会ったのだ。楽しくて、しょうがない。


 地上へ到着しグレンが漆黒の竜から降り立ったとき、黒いスーツの女が心配顔で迎えた。グレンはヘルメットを外す。


「こいつ、なんなんだ?」


 ヘルメットを彼女へ返しながら、あごで示し問う。危険だという抗議と、非凡な身体能力への感嘆が含まれていた。


 興味もあった。乗らなければ分からないが、目利きのある関係者なら放っておけない傑物だ。体が大きいハンデを補うほどの可能性があるというのに、なぜ、有力者でなく、ドラゴンレース界の端へ追いやられ崖っぷちのグレンを呼んだのか。


 黒いスーツの女は、緊張した面持ちを浮かべた。勝ち気な印象とは程遠い、暗く重い空気を纏い小さく口を開く。


「この子は、かつて、あなたの相棒だったゴルトの弟よ」


 悲しげで弱々しい声音は、しかし、確かな強度をもってグレンの思考を殴った。心臓が大きく跳ね、身体中からだじゅうを暴れ回る血管が酸素を求め、上手く呼吸ができない。視界が霞む。意識を無理矢理にでも保とうとグレンは頭を振る。


 ゴルト。美しい、黄金色の竜。最高の相棒。


 グレンは振り返った。漆黒の竜の瞳が、真っ直ぐ、何かを訴え見つめている。


 彼の瞳は、雲一つ無い空の青さを、そのまま流し込んだような色をしていた。

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