ダウン・アンド・アウト 5

 グレンの勤務時間が終わった。清掃用具を片付け、清掃員の作業服から私服へと着替える。とはいっても、絹の半袖シャツにジャージ、ウインドブレーカーという出で立ちだ。作業服の方が、しゃんとしている見た目である。


 グレンはスタッフルームを出て駐車場へ続く通路を歩む。遠くで歓声が響いた。次のレースが、いよいよ神竜賞しんりゅうしょうだ。今年、最も神に愛された竜が決まる。会場の盛り上がりは最高潮だろう。


 グレンの行く手に、人影があった。それが見知った人物だと分かって引き返したくなる。けれど駐車場への通路は一つで、迂回すると大切なオートバイを置いて帰ることになってしまう。その方が余計な面倒だと自身を納得させ、どうにか足を進ませた。


「グレン」


 壁際で佇んでいた人物が呼んだ。声から、これが偶然でなく意図的な遭遇だと察する。たぶん、グレンを待っていたのだろう。


 グレンを待っていたのは男だった。彼の金髪は毛先を立たせたソフトモヒカンに整えられ、誰に見せても格好良いと評価される輪郭は常なら柔らかな表情が浮かんでいるのだが、今は厳しく眼光も鋭くグレンを射貫いている。緑色の瞳。レーシングスーツを着ていても、好青年という印象が恐ろしいほど当てはまる人間は彼くらいなものだと、朝と同様にグレンは思う。


「……アウル」


 グレンは男の名を呼び返した。


 二人して黙り込む。グレンに語る言葉はなかったし、アウルも伝えるべき言葉を迷っているようだった。互いに会話を広げて和気あいあいと過ごす心持ちはないのだから、沈黙は当然だろう。


 遠くで巻き起こった叫びが、地響きになって建物を揺らした。映像やバンドの生演奏で神竜賞しんりゅうしょうを盛り上げる演出が始まったのだ。刻一刻と勝負のときが迫っている。


「早く行けよ。神竜賞しんりゅうしょうで乗らなきゃいけないんだろ」


 グレンは足を踏み出した。目を合わせることもなく、アウルを通り過ぎる。


「このままで、いいのか!」


 アウルの叫びが背中へ突き刺さった。怒りや焦りが込められたようなそれはグレンの神経を縛り、心の奥を掴み、足を止めさせる。


「おまえはドラゴンライダーだ! 竜に乗ることでしか存在証明できない人間だ! 他の世界では生きていけないんだよ!」


 優男のような外見からは窺い知れない熱情。叫声きょうせい。無意識に振り返ってしまうのは、グレンの中にも宿るそれが呼応したせいだろう。


 グレンとアウルの視線が、かち合う。


 アウルの瞳を支配していたのは、同期への励ましなど彼方へ置いた怒りと憎しみだった。同期の現状に悲しむでもなく竜に乗れない現実を哀れむでもなく、ただ、ただ、変わろうとしないことに怒ってライダーの誇りを捨ててしまったことを憎んでいた。


「竜に乗れよ! 僕は、まだ、おまえに勝っていないんだ……!」


 アウルの表情が歪んだ。泣きそうになる、一歩手前の顔だった。


 歓声が大きくなる。二人の間にある冷めた壁が、より一層、際立った。


「乗りたくても、乗せてくれるヤツがいない」


 グレンは弱々しく呟いた。アウルは押し黙り、唇を噛み締める。


 ドラゴンレース界の中心にいる彼こそ知っているはずなのだ。グレンに依頼する関係者はいない。皆、決まって口にするのは一つ。


 竜が大切なら関わるな。


「おまえは良いライダーだ。俺より、ずっとな」


 グレンの言葉は本心だった。竜に乗れない自分と、トップライダーとして活躍しているアウル。両者の差は明白で、埋めようがない。勝ち負けなど考えなくても知れる。今のグレンに、彼が固執する意味はないのだ。


 今度こそグレンは背を向けて歩き出し、アウルを置き去りにした。あの悲痛な叫びが聞こえることはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る