ダウン・アンド・アウト 4

 ドラゴンレース場は、一般客が行き来するエリアと、レース関係者が行き来するエリアで分かれている。グレンが清掃を担当しているのは関係者のエリアだ。


 詰めかけた観客の叫び声が聞こえる。ドラゴンレースは週末開催で、一日に六レースほど行うのが常だ。メインは最終レースになる。今が三レース目だから、神竜賞しんりゅうしょうまでは半分だ。


 グレンは大人一人が隠れられるだろう大きさのダストボックスから、手元にあるいくつかの袋へゴミを分別しつつ回収する。関係者エリアは酔った客や若さに任せて騒ぐ連中がいない分、ゴミが少なくていい。ビッグレースがある日の一般客エリアときたら、悲惨という言葉で片付けられないほど酷い有り様なのだ。今日は運が良い、と、グレンは順調にゴミを移していく。


「おい、あれ、見てみろよ」


 平穏に仕事をこなしていたグレンの背後から声がした。


「なんだよ」


「知らないのか? グレン・クリンガーだよ」


「へぇ、あれが」


 若い男、二人の声だ。悪意と侮蔑ぶべつに満ちたそれに不快感が込み上げ、思わずグレンは手を止めてしまう。


 しまった、こういう手合いは反応しないのが常道なのに。


 平静さを手繰り寄せ無視しようとするも手遅れ、背後の彼らはコツコツと靴音を鳴らして近付いてきた。


 視線をやれば、二人の男は厚手のレーシングスーツを着込んでいた。耐久性と耐風性、それから防寒にも優れたライダーの仕事着だ。彼らの見た目は若い。見覚えはないし名前も思い浮かばないので、今年デビューしたばかりの新人なのだろうとグレンは考えた。


「クリンガー先輩っすよね?」


 笑みを浮かべながら、片方の男が問いかける。いや、問う形ではあるが、件の人物であると確信しているようだ。


 グレンは溜め息をこらえ、何か、と返した。できるだけ穏便に、何事もなく過ぎてくれと願う。


 二人の新人ライダーは互いに顔を見合わせ、面白そうに笑いを吹き零した。


「レースの依頼がなくてアルバイト生活って噂、本当だったんだ」


「天才って言われてたライダーが、落ちぶれたもんだよなぁ」


 彼らは大げさに笑う。侮辱ぶじょくと、自らの優位を吹き散らす浅ましさがあった。グレンの胸中に怒りと悔しさが生じ、沸々と煮えたぎってきた。


 それを暴発させまいと深呼吸する。彼らの発言は事実だし、何より、ここで要らぬ問題を発生させた場合、更なる窮地が待っているだろうと想像できたからだ。レースに出場できない中での暴力問題なんて、崖にしがみついている身の上を転落させる決定打だ。


「…………仕事中ですんで」


 グレンは一言だけ呟いて、ゴミの仕分け作業へ戻る。新人ライダーたちに背を向け、視界から追い出した。こういうとき、思考を止めて没頭できる単純作業は便利だ。少しずつ胸の内が鎮まってくる。


 背後で舌打ちが鳴った。


 男の一人が足を振り上げ、グレンが仕分けしていたダストボックスを蹴り倒した。床との衝突音が重々しい低音で反響し、ファストフードの容器や食べ残しの生ゴミが飛散する。グレンの足元へ転がってきたペットボトルが靴に当たって止まった。


「じゃあ、ちゃんと仕事してくださいよ。こんなに汚れてるじゃないすか」


 男の表情に笑みはなかった。ただ、グレンを陥れようとする悪意が貼り付いていた。


 こいつを殴っていいだろうか。力の限り殴りつけたら、陰鬱とした気分も己への不甲斐なさも全てが吹き飛び、楽になれるのではないか。ライダーでありながら竜に乗れない屈辱も、大空を翔ることへの未練も消えるのではないか。煮え切らない思いを抱えたまま生きなくたって、いいのだ。


 しかし、グレンは拳を出さなかった。無言で手近にあった清掃用具を掴み、姿勢を低くすると、散らばったゴミを片付けながら床を磨いた。


 殴れば、当然、相手方はグレンを許さないだろう。ドラゴンレースを管轄する機関へ申し出て、処分を望むかもしれない。そうなれば全てが終わる。何のために歯を食いしばって耐えてきたのか、身体からだを鍛え努力してきたのか、見失ってしまう。あのときのように。


「みっともないんだよ!」


 男が、また足を振り上げた。今度はグレンの横っ腹を狙っている。咄嗟とっさに身構えるが間に合うか。グレンの思考に緊張が走った。


「がふう!」


 唐突とうとつに、男が奇妙なうめきを発した。蹴りはグレンから遠くを回り、つられて胴体も回って、新人ライダーは汚れた床へ突っ伏した。うぷ、と吐きそうになって、彼は急いでゴミに塗れた顔を上げる。


「なんだ……え……?」


 男は鋭い視線を向けた直後、一瞬で困惑した表情へと変わった。グレンも顔を向け、驚きで目を見開く。


 そこには、新人ライダーたちとは別の男が片足を上げたままでいた。その格好から察するに、彼は、たった今、新人ライダーを蹴り飛ばしたのだ。


 褐色の肌に、彫りの深いサル顔の男。黒髪をオールバックでまとめ、襟足を刈り上げている風貌ふうぼう凄味すごみがあるが、背はグレンより低く威圧感はない。新人ライダーと同じ厚手のレーシングスーツで身を包んでいなければ、町の小悪党に見えるだろう。


「おい新人ども。ライダーが偉いわけじゃねーんだぞ」


 片足をバンと踏み下ろして、サル顔の男が仁王立ちする。新人たちは顔を青くした。


「ヴァラン先輩、あの、別に……」


「別に、なんだってんだ? まだ一勝もしてねー、ヒヨッコが!」


 しっ、しっ、と動物を追い返すような仕草をするサル顔の男、コク・ヴァランは実力派ライダーだ。派手さはないが、大崩れなく抜群の安定感でレースを運ぶ。


 その教科書のような技術は、まさにお手本というもので、竜の乗り方……いわゆる、竜乗りゅうのりを教える教員は最初に彼の姿勢を映像で見せるという。コク・ヴァランは、新人ライダーにとって先輩というだけでなく、目指すべき雲の上の人だろう。


「すいませんでしたぁ!」


 新人ライダーたちは潔く一礼して、足をもつらせ転びそうになりながら走り去っていった。


 グレンは、ほうと息を吐いた。知らず右拳を握っていたことに気づき、手を出さなかった安堵と緊張からの解放で汗が噴き出す。もう一度、深く呼吸した。


 グレンは気を落ち着けて立ち上がると、依然いぜん、険しい表情をしている男と向き合う。


「コク……」


 ありがとう、と続けようとした声は、彼が物憂げに挙げた掌で遮られた。


「勘違いすんな。おまえを助けたわけじゃねーんだ。ただ、同期がやられて腹立ったから」


 コクはグレンから視線を逸らし、腕を組んで眉根を寄せる。これ以上の会話を拒絶しているみたいだった。


 胸の内、ずっと、ずっと奥のところで棘が刺さった。グレンは、その棘を抜くための術を知らない。いや、刺さったままでいいと思っていた。それが自分の選択なのだから。


 グレンは、そうか、と呟いて清掃へ戻った。


 散らばった容器や食べ残しが消え、床が磨き上げられ綺麗になっていく。作業した分だけ成果が目に見える。人生が同じように単純なら、誰しもが楽になっただろうにとグレンは考えた。今日は楽になることばかり考えているな、そう心の中で自嘲する。


 神竜賞しんりゅうしょうの熱気が押し寄せているせいだ。それが、あの日を想起させるから、心を守ろうと身体からだの防衛本能が働いているのだろう。


「おまえはさ、悔しくないのかよ」


 腕を組んだまま清掃作業を見ていたらしいコクが話しかけてきた。グレンは一瞥いちべつして、答えないまま黙々と床を磨く。


「オレらの中で、おまえが一番だった。天才ってのは、グレン・クリンガーに使わなきゃ他の誰も使えない言葉だったんだ。そんな、おまえが……」


 コクの声に悲痛さが混じる。グレンは床を磨く手を止めない。


「なぁ、五年前の神竜賞しんりゅうしょうで何があった? オレも、アウルも、おまえは悪くないって」


 ガン。グレンは手に持つ洗剤入り容器を床に叩きつけた。コクは身体からだを跳ねさせて驚き、言葉を詰まらせる。


「これが、今の俺だ。悔しいも何も、言うことはない」


 グレンは床を磨き続けた。汚れはとっくに落ちていて、灯りを反射するほどに光っていて、続けても徒労に終わる作業だった。それでも、グレンは止めなかった。これしかできないのだと主張するように。


 コクは組んでいた腕を解いた。険しい表情に悲しげな瞳が浮かんでいるのを、グレンは視界の端に捉える。


「おまえは変わったよ」


 コクが一言、吐き捨てる。怒りとも、惜別とも感じられる複雑さがあった。


 グレンは彼の表情を見ることができなかった。どこか気落ちしたような足音が遠ざかっていくのを、床に這いつくばったまま聞いていた。

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