ダウン・アンド・アウト 2
ジリリリリ。耳障りな鐘の音が騒ぎ立てている。ガタタタタ。机上を微動する音が紛れていた。
気怠げを
「グレンちゃーん! ご飯よぉー!」
元気の良い老女の声が帰還を許さなかった。ピクリ、手が止まる。
停止すること、十数秒。手が引っ込んでからすぐ、掛け布団を押し退けて、寝ぼけた表情のまま身体を起こした。マッシュヘアの頭に手をやり、がりがりと掻く。アッシュグレーの柔らかい髪が小さく揺れた。
掻くのを止めた手が一気に脱力してベッドへ着地し、大きな欠伸を一つ。覚醒しようと努力しているものの、やはり眠い。
未だ夢の中にいるような現実味のなさ、それが胸の奥に残るのは、あの夢のせいだと思う。
寝間着にしているため伸びきってしまった半袖シャツの胸元を握り締め、目を閉じた。それは毎朝の儀式だ。夢から醒めるための。現実と向き合うための。
そうして数分じっとして、腕や掌に力が宿る感覚を確かめ、グレン・クリンガーはベッドから抜け出した。
両手を突き上げ大きく伸びをすると、大して広くないせいか部屋の全容が視界へ飛び込んでくる。置いてある家具といえば、シングル用ベッド、目覚まし時計が鎮座するサイドテーブル、百センチほどのタンス、そして誰かが置いていった上半身を映せる大きさの鏡付きドレッサーくらいだ。
殺風景で物が少ないのは、最低限の生活さえできれば問題ないというグレンの思考ゆえである。よく整理されているといえば聞こえは良いが、単に散らかる要素がないだけだ。
グレンが着替えのため半袖シャツ、半ズボンを脱ぎ捨てたとき、ふと、正面にあるドレッサーの鏡が目に入った。
映っている顔は茶色の瞳を眠そうに
だが、ほとんどの人間が注目するであろう箇所は、それでない。グレンの身体には大小様々な傷痕が全身複数箇所にあり、特に大きいのは右肩を覆い胸にまで広がるものと、左脇腹からへそまで伸びるものだ。
グレンは毎朝、これと向き合う。見なければいいと思うのに、なぜかいつも視界に入れてしまう。それから決まって、鏡に映る顔は苦渋を浮かべた。
医療の力を借りれば、極力、傷痕を目立たないようにはできる。しかし、グレンはそれを望まなかった。これからずっと、背負っていかなければならない痕だったのだ。
心臓の脈動が弱くなってきた気がして、深呼吸を一つする。こういうときは、とにかく動いた方が良い。グレンは素早く、タンスから洗い立ての外出用半袖シャツやジャージを引っ張り出すと、着替えて部屋を飛び出した。
グレンの部屋は二階にある。古いせいで、どれほど注意深く踏んだとしても大きな軋み音を発する木製の階段を降りると、朝食のコーンスープらしき匂いが鼻をつついた。スープの味を思い出し、眠っていた胃が目覚め空腹感が押し寄せる。ダイニングテーブルを見れば食器やパンが並べられ、準備が整いつつあった。
リビングと対面式になっているキッチンでは、先ほど、グレンを呼び起こした老女が忙しなく動いていた。腰のあたりで束ねられた長髪は加齢のため白いが、彼女の動きに合わせて元気に跳ねている。着用している長袖ワンピースは薄い青を基調とした落ち着いた花柄で、彼女の細身には余裕がありすぎるほどフワフワであったが、まるでドレスのような気品へ変換されていた。小さな顔にかけた丸い眼鏡は不均衡な大きさだが落ちることはない。
最近、腰が曲がってきたのだと彼女は嘆くが、愛用の白いエプロンを巻き、てきぱきと家事をこなしていく様は衰えを感じさせなかった。
老女がグレンに気づき、笑顔を向けてくれる。
「グレンちゃん、おはようね」
柔らかく、ゆったりとした声だ。仕事ぶりは快活であるのに口調が穏やかなのも、彼女の特徴だ。
「おはよう、夫人」
グレンも自然、口元が緩む。常日頃から表情が乏しいと言われているグレンでさえ、彼女を相手にすると穏やかな感情が引き出された。彼女の雰囲気は、包容力のある母のようでもあり、昔馴染みの友人のようでもあった。
マリー・シーラッド。グレンが間借りしている部屋の家主だ。亡き夫が有名人だったらしく、来訪者が皆、昔からの癖か『夫人』と呼ぶので、家の住人たちにも呼び方が定着した。
間借りの家賃はなく、ほんの少しの食費と光熱費くらいの出費で住まわせる善意の人だ。かなりの資産家であるらしいが、詳しく聞いたことはない。稼ぎの少ないグレンにはありがたいことだし、夫人の個人情報の類いは知らなくても問題なかったのだ。
朝食の準備が終わりかけていると気付いたグレンは、急いで洗面所へ向かった。歯を磨き、顔を洗い、外出するため諸々の支度を済ませてリビングへと戻る。
「はい、朝食よー」
夫人がコーンスープ入りカップと、スクランブルエッグが盛られた皿を、二人分、用意する。グレンが礼を言いながら受け取り、ダイニングテーブルへ運ぶ。毎朝の共同作業だ。
グレンは家事全般を苦手としている。そもそも、着るものが一つでもあればいい、栄養さえ摂取できれば味のない健康食品で構わない、と無頓着なため必要性を感じていなかった。
改善の意思は皆無だが、しかし、善意で住まわせてくれる夫人に対して何もしないのでは良心が痛んだ。だから、せめてもの気持ちで簡単な運搬作業を手伝っている。
朝食の準備を終えグレンが着席すると、夫人はリモコンを操作し、リビング奥にあるテレビを起動させた。薄型であるが、大きさは対角線八十センチくらいの三十二型と庶民的だ。
夫人が席に着くと、テレビは仰々しい音楽を鳴らした。
『特集! ドラゴンレース!
グレンの手は動かなくなった。テレビから視線を離せない。
『今日は年に一度の祭典! 竜に関わる全ての人が目標とする夢舞台! 狭き門を突破した十八頭のうち、今年一番、神に愛される竜は? ……ということで、今やプシティア国で視聴率七十パーセントを誇るドラゴンレースですが、今回は改めて、その魅力を一からお伝えしていきます!』
女性アナウンサーの明るい声で、テレビの画面が別の映像へと切り替わる。映し出されたのは甲冑で身を包み、竜に乗り、槍を突き上げ戦う騎士の絵画。学校の教科書にも載っている有名なものだ。
『古来から共存してきた人と竜。ドラゴンレースの起源は、戦乱の最中にあった古代、竜騎士たちが操縦技術向上のために始めたものとされます。誰よりも速く飛んだ竜騎士には、最高の栄誉が与えられました。しかし、時代が進み、戦いが終息していくと共に竜騎士たちは役目を終え歴史に埋もれていきます。その中、ドラゴンレースだけは、民衆の根強い人気もあって世界各地に残りました。現代、竜はより速く飛ぶよう品種改良され、手綱を操るライダーを背に、レースを勝ち抜くため飛び続けているのです』
説明に合わせて絵が変わっていく。やがて画面はスタジオの映像へ戻った。
女性アナウンサーと、怪しいサングラスをかけたスーツ姿の男がテーブルの奥に着席している。
『今日はゲストに、ドラゴンレース解説者のヒット・イシイさんをお迎えしています! よろしくお願いします!』
『はい、どうも』
『竜のプロであるイシイさんには、
スタジオに設置された大型スクリーンに、竜の全体図が表示される。
『竜の全長は平均で約三メートル。体高は一・五メートルくらい。硬くてゴツゴツの皮膚、すらり伸びた
イシイが観覧席に同意を求めると、画面に映し出された皆が頷いた。
この世界において、竜とは人の生活に欠かせない共存者だった。移動手段としてだけでなく、運搬作業にも、農作業にも役立ってきた。
近代になって機械が発達し、都会の日常生活では活躍の場が減っているが、今でも竜に頼って生活している地域は多いと聞く。また、観光業では、竜に乗って遺跡を巡るのが人気だ。
人は今も、竜と共存関係にあった。
『竜って、どうして飛べるんですか? 構造上、翼の大きさとか風の抵抗緩和とか、色々と足りないですよね? 鳥は飛ぶために進化して、あの形になったのに』
スタジオの大型スクリーンが、今度はドラゴンレースの写真を表示した。
『それはね、進化を経ても竜には魔力が残っているからだよ。人間からは消えてしまったけどね。でも、魔力は微々たるものだ。僅かの風を生み、飛ぶための補助にしか使えない。人間を傷つけるものでないから安心してね』
テレビを観ながら、そうなのねぇ、と夫人が呟いた。
グレンは口の中が乾いたように感じ、コップの水を喉へ流し込む。どうしてか、苦い。
仕方ないと諦めた。今日は、仕方ないのだ。
『世界各国で人気のドラゴンレースですが、特にプシティア国での人気はすごいですよね。人気のライダーともなれば、誰でも知るようになりますし』
『子どもの将来なりたい職業ナンバーワンが、十年連続でドラゴンライダーだしね。ライダーに限れば、私の注目は、アウル・ラゴーの
机上にあったグレンの視線が、
男の金髪は毛先を立たせたソフトモヒカンに整えられ、誰に見せても格好良いと評価される
好青年という印象が恐ろしいほど当てはまる人間は、彼くらいなものだとグレンは思う。
『カッコイイ! 今、人気といえば、この人ですよね!』
『広告起用が多いので人気先行と思われがちだけど、ライダーとしての実力も確かなものだよ。なんで、
アウル・ラゴーについて、スタジオは大いに盛り上がった。数々の戦績や、打ち立てた記録、名家の出身であるとか、まだ独身であるとか。
ふと、テレビの画面が消えた。視線を滑らせれば、リモコンを手に持つ夫人。
「さあ、早く食べないと仕事に遅れちゃうわよ。グレンちゃん、がんばって!」
明るく、にこやかな調子で言った夫人は、一生懸命にパンを頬張った。無理をして大口を開けたせいか、少し涙目である。
グレンは口元を
グレンは瞼を閉じまいと目の前を凝視した。塞がっていない傷が、思い出とすることを拒んでいた。
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