第1話 出会いは1ページの中で③
「おはよー」という生徒同士の挨拶を聞きながら、廊下を歩くアラトは、眉を八の字に下げた。
足取りが重いのは、登校が嫌だとか、まだ寝ていたいとか、そういった気持ちからではない。
大きく息を吐いて脳裏に思い浮かべるのは、原因――今は手元にないスケッチブックだ。
昨日、寮に帰ったところで、スケッチブックが鞄に入っていないと気がついた。
朝一番、まずは落とし物として届いていないかを確認しに行った。が、そこにはなく、ならばと中庭にも出向いたが、見当たらなかった。
A4サイズなので、見落とすほど小さいものでもないはずなのだが……。
授業で描いた分はもちろん、落書きもあるので、できれば他人に見られたくはない。
「一体どこに……」
休み時間全部使って探し出そう、と決意していれば。
「
バタバタと足音が近づいてきて、アラトは顔を上げる。
同じクラスの女子生徒が二人、駆け寄ってきていた。
「来栖君って、あの
「え? あの……」
目の前で足を止めた二人にずいっと上半身ごと顔を近づけられて、思わずアラトは後退った。やけにテンションが高いように見えるのは気のせいなのだろうか。
というより……。
「いつぼし君……って?」
質問の意図が分からず口にすれば、目に見えて少女らの表情が変わる。
「えっ、なんで知らないの!?」
「な、なんでって言われても……」
「Aクラスの! 五星リク! あの俳優一家の息子!」
「俳優……?」
マギカルトを使える、使いたい者は、何かしらの芸術に秀でていることが多い。そのため学園には、まだ十代にもかかわらず、得意分野での仕事をこなしている人もいる。五星リクという人物もそうらしい。
だがどちらかというと人見知りの
アラトの反応に、女子生徒達が「有名だよね!」「子役してたときの五星君、すっごく可愛くて!」と、勝手に盛り上がり始める。
勢いに気圧されて、アラトは曖昧に頷く以外できなかった。
「来栖?」
そんな女子生徒の背後に、一人の少年が立った。
「あっ」
見覚えのある姿に、アラトは目を丸くする。
「昨日の……」
中庭にいた少年だとすぐに思い至って口にすれば、彼――リクというらしい――は、何やらじっとアラトを見つめてくる。アラトより頭半分ほど身長が高いせいで、アラトは彼に見下ろされるような形になってしまった。
「あ、あの……?」
「……来栖……で合ってたか?」
「へ?」
ほんの少し眉根を寄せる表情を見て、慌ててアラトは頷いた。
「あ、はい。僕が来栖アラト、です」
「そうか」
アラトの返事を聞いて、リクの表情が緩む。名前と顔が一致して安堵した、そんなところだろうか。
「見つかってよかった」
「え?」
自分を探していたらしいリクに、アラトは驚く。
一体どうして……と考えて、すぐにハッとなった。
まさか、昨日のことを怒りに来た……!?
「二人もありがとう。助かった」
どうしよう、と焦るアラトから視線を外し、リクは女子生徒達に顔を向けた。
アラトとリクに挟まれるような形で立っていた二人は、リクに話しかけられると、ぶんぶんと勢いよく頭を横に振る。
「そんな、お礼なんて」
「でも五星君の役に立てたならよかった」
「それじゃあ」
はにかむような表情で二人は、アラトに駆け寄ってきたときよりは和らいだ勢いで去って行く。
「五星君と喋っちゃったね!」
「ね!」
離れていく背中からそんな声が聞こえてくる。弾んだ声音から、リクがそれなりに有名人……そうじゃないとしても、二人にとっては好意的な人物なのだと察することができた。
リクと取り残されて、アラトは必死に頭を巡らせる。果たして何から話し始めればいいのか。何から謝るべきだ……!?
「あの……ごめんなさい。僕あまりテレビとか観なくて……」
あれだけ女子生徒が騒ぐ人なのだ。そもそも知らなかった、という事実が失礼に値するのではないか。
焦る頭で、まず思いついたのはそんなことだった。
「いや、それは別に」
対してリクは、淡々とそう返してくる。表情が読めないので、怒っているのかそうでないのかの判断がつかない。
気分を害したのではと思うと、アラトは何も言えなくなった。
リクは、アラトからふいと視線を外す。ほんの少し目を細めると、
「……もう、出てないし」
小さく、そんなことを呟いた。
言い方は独り言のそれだったが、この距離では聞き逃すこともない。聞いてしまえば無視するのも憚られて、アラトは首を傾げた。
「……そう、なの?」
アラトに聞き返されて、リクは一瞬だけ驚いたような表情になった。
それを見てアラトは、自分の対応は間違っていたのかと慌てた。やはりここは無視した方がよかったのか。けれどそれはそれで印象もよくないような……。
「……それより、これ」
リクが何かを差し出してくる。後ろ手に持っていたらしいものに、アラトは「あっ」と声を上げた。
「僕のスケッチブック!」
「昨日落として行っただろ?」
「あ……ありがとう、ございます」
受け取り、見慣れた表紙に目線を落として、ホッと息を吐く。見つかってよかった。
が、安心すると同時に、別の気持ちも湧いてくる。
「あ、あの……えっと……」
「なんだ?」
「……その……な、中って……」
瞳を彷徨わせながら、おずおずと口にする。
スケッチブックは、裏表紙の内側に名前を記載している。
なんとなく予想はついていたが、聞かずにはいられなかった。
「ああ。悪い」
そしてやはりリクの答えは、想像していた通り。
「見えた。俺を描いてたんだよな」
肯定だった。
「っ~~」
分かっていたこととはいえ、改めてそう言われると、恥ずかしいやら申しわけないやらで頬に熱が集まるのを自覚する。
「ご、ごめんなさい! マギカルトがすごく綺麗で、つい手が勝手に……! でも肖像権っていうか、テレビに出たこともあるなら、そういうの厳しいですよね!? すぐ破棄するので!」
リクがわざわざスケッチブックを届けに来たのは、注意をするために違いない。
一般人ならともかく――といってももちろん。勝手に描いていいわけでもないことは充分承知している――見目も売りにしているだろう相手を無許可で描くのは、絶対にまずいことだ。
あのマギカルトをずっと見ていたい。描きとめておかなくちゃ。それはアラトの理屈であって、リクには関係ないのだ。
スケッチブックを胸に抱えながら、勢いよく腰を曲げて謝罪のポーズをとる。
どんな文句でも受け入れると、アラトはぎゅっと目を瞑った。
「いや、大丈夫だ」
……だがリクは、あっさりとそう言ってきた。
瞬きを繰り返しながら、アラトはそっと彼を窺う。
リクは相変わらず、無表情のままだった。言い方が淡々としていることも変わらない。
それでも、彼が全く怒っていないことは、すぐに分かった。
「むしろ……すごいと思って。俺は絵とか描けないから、純粋に感動した」
「――」
ぱちぱちと、アラトは何度も目を瞬かせる。
怒られるならまだしも、そんな風に言ってもらえるなんて思ってもいなかった。
逃げる際に落として行ったスケッチブックなんて、放っておくこともできたはずだ。もしくは、落とし物として学園に届けるだけでもいい。
にもかかわらず、手渡しに来てくれた。顔を知らないから、わざわざ生徒に訊いて探してきてくれた。
その上で今の言葉だ。
「え……あ、の、その……」
胸が温かくなって、気恥ずかしさからリクの顔が見られなくなる。
世辞ではないだろう。嘘をつく理由などないはずなのだ。
「あ、ありがとう……ございます……」
嬉しくて、緩む頬を自覚しながら呟くように応えた。
「それじゃあ」
俯いた視界の端で、用は済んだとばかりにリクが背を向けるのが見えた。
「あっ、あの」
咄嗟にアラトは、彼を引き止める。
自分も何か言わなければと思った。褒められたから褒め返そう、という意図はない。ただ、彼が伝えてくれたように、自分も言わなければと思ったのだ。
「僕も、君の演技、すごいと思いました! マギカルトも、本当に……!」
心からの言葉だった。
「え……」
振り返ったリクの目が見開かれる。
アラトを見つめ、数秒。
表情はすぐ元に戻った。先ほど驚いていたのが嘘のようだ。
「そ……そう、か」
どこか他人事のように漏らす姿は、困惑しているようにも見えた。
けれど。
「……ありがとう」
微かな笑みと瞳を向けられ、アラトも彼に笑顔を返した。
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