第3話
サンダースは夫人の気配が消えていくのを、暗闇の中でじっと聞いていた。それも、ほぼ日常と変わりがない光景であった。サンダースは、人間を見送ったり出迎えたりしない。猫なのだ。
夫人が出て行ってから数秒後、そうっと、沈黙が漂い始めた。黒光りするほど磨かれたライトアップピアノの上は、サンダースのお気に入りの場所だが、一度もピアノの音色を聞いたことはなかった。サンダースはのっそりと動き出し、縮めていた四本の足と背中を、バランスよく伸ばした。尻をピアノの天板にぴったりとくっつけて座り、大きなあくびを一つ。眠そうな表情でまず左手を舐め始めた。時々、肉球を噛む。右手も同様に舐めた。満足すると、また左手を舐める。今度は目の周りから口元に掛けて丁寧に撫でた。同様に左手でも繰り返した。サンダースが毛づくろいを完了させるまで10分は経過していた。
おもむろに立ち上がったサンダースは、ピアノの上からトントンと飛び降り、静かに着地した。絨毯の毛足の長さと肉球の弾力が加わり、全くの無音状態でサンダースは部屋を歩き始めた。
サンダースの足で数歩歩けば主人が横たわっている場所だ。ピアノの上から、全てが見えていたので、サンダースは何が起きたのか知っていたのだが、大きな声を上げて鳴き、誰かに何かを訴えるような事をするはずもなかった。
主人の身体を一周、のっそりと静かに歩き「ニャ」と一声。少しお腹が空いていたのだが、サンダースは目の前に横たわっている人が餌をくれるとも思えないのであった。
部屋の隣のキッチンは、常時、レイカが占領していて嫌な雰囲気がただ寄っていた。大きなシンクと冷蔵庫、造り付けの食器棚が壁一面に張り付いていた。フルコース料理に間に合うような食器が何種類もあり、綺麗に整理整頓されていた。シルバーのカトラリーを、丹念に磨き上げるのも使用人の仕事だ。
使用人は、今日の夕方まで存在していた。
「今日はもう帰っていいわ。明日から、一週間休んでもらえないかしら。留守にするの。お給金はその分もお支払いしますから、安心して。」
という夫人の声をサンダースは聞いていた。
レイカはサンダースよりも新入りであったが、サンダースよりも図々しかった。三十代後半の女性で夫人よりも背が低く小太りのだらしがない体形を大事そうに保っていた。口はいつももぐもぐと動かし、そうでない時は半開きだった。
「あらまあ、そうでしたか。仲がよろしい事で。どちらまで?」
その質問に夫人は、
「お土産買ってくるから、楽しみにしていて。」
と答えただけだった。
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