第4話

 レイカは表情が乏しく、一見すると怒っているようにも見えた。時々、クスっと笑う顔は不気味だった。使用人の城のようになっているキッチンの片隅にはサンダースの餌を入れる皿と、そこからほんの数歩離れた場所にはサンダース専用トイレがあった。レイカの城には必然に足を踏み入れなければならないサンダースであった。いつもなら、そろそろ夜の餌の時間であった。空腹とは、まことに嫌なものである。大切な人にさえ悪意を持ってしまう、極めて原始的で厭らしい自然現象だ。餌の皿には何も入っていない事をサンダースは知っていた。なぜならば数時間前にサンダースは食事を終えていたのだ。皿をすっかり舐めまわし、おいしく平らげた記憶が体の浅いところに残っていた。

 

 夫人は自宅から徒歩で二十分ほどの所にあるT駅前のビジネスホテルに向かった。昨晩、インターネットで予約をした新幹線も乗り入れている大きな駅前の安ホテルである。結婚して以来、新幹線で出かけたことなど一度もなかった。夫人が新幹線に乗ったのは、高校の修学旅行の時だけだ。行先は広島だったことだけは覚えている。もう数十年前の事だ。二泊三日の旅は楽しかったのだろうか、今となっては夫人の記憶からすっかり消えてしまった出来事だ。現在の夫人は玄関前に車が来たらそれに乗り込み、黙っていれば目的地へ到着する。あるいは自宅から乗り込んだ車が飛行場で止まり、そこから飛行機に乗ることもあった。年に何度かそんな事を繰り返すような生活だったがその目的地を夫人が決めた事は一度もなかった。常に主人の付き添いだった。夫人の意思は一つも存在しなかった。ずっと修学旅行を続けていたようなものかもしれない。金銭も持たずスケジュールだけが用意されていた。日常生活でも夫人の外出時には然るべき所へ連絡すれば迎えが来て、夫人が告げた目的地へは最短距離で到着した。運転手は夫人の用事が終わるまで気配を消し、用事が終われば直ちに迎えに戻ってくる。プロの仕事に感謝しながら、便利な生活を送っていた。いや便利というよりもただ主人からそうするように指示されていただけだった。夫人の自由はあるようでなかった。


 ホテルは多くの人々でごった返していた。雑然とし野蛮だった。ビジネスホテルとは言葉で聞いたことはあったが、夫人が宿泊したことなどもちろんなかった。ビジネスマンしか泊まれない、会社員である証明を見せなければいけないのではないかと案じていた。実際は、お金さえ払えば誰でも泊まれる場所だった。

 チェックイン手続きの列に並んだ夫人は、慣れない場所で緊張していた。並んでいる人間のほぼ九割は日本人ではなかった。ホテルから少し離れた場所に大きな工場があり、そこへ出稼ぎに来ている中国人だと、同じ行列に並んでいた少数派の日本人が小さく呟き、揃って苦い顔、並ぶ中国人の足元を見て、舌打ちする音も方々から聞こえてきた。そう言われた群がっている人たちは、労働をメインに来ているはずであるのに、彼らはすっかり観光客の風情を醸し出していた。その楽天な空気が漂うのに例外はなかった。誰一人辛そうな顔などしておらず、楽しそうな様子なのだ。それがどうしてだか夫人の焦る気持ちを少し遠ざけた。無神経が故に発生した、気を遣わない奇跡的な優しさ。


 今まで過ごしていた空間とは違いそこに居場所が無い事は分かっていた。しかし夫人はこの世界に同化していかなければならないのである。突き刺さるように暴力的な中国語の騒音がフロントに響き、夫人は何をしにホテルに来ているのか、思考が上手くまとまらなかった。おかしな状況なのだ、どうしようもないと必死に自分をだまし、やっと夫人の番となった。気持ちの切り替えは、チェックインと同時にうまい具合にはいかなかった。悲しいかな、小さくともプライドがある。金持ちの主人にくっついているだけの主婦という枠組みから抜け出すのは至難の業である。頭でっかちで、恐らく傍から見たら醜いプライドをさも大事そうに抱きしめている貧しい中年女性にしか見えないだろう。邪魔なプライドは安価なホテルでも夫人に付きまとっていた。

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