かわいいものおじさん(小説)
権俵権助(ごんだわら ごんすけ)
かわいいものおじさん
正面から人が歩いてきてぶつかりそうになった時、避ける人と避けられる人がいる。
加えて、困ったことがもう一つ。
※ ※ ※
ある夏の日。
仕事を終えて電車に揺られていると、一日の疲れもあってか、まぶたが徐々に下りてきた。幸い、今日はうまく座席を確保できたから、このまま最後までまどろんでいよう……。
と、その目論見は車内に突然響いたオギャアという甲高い声に打ち砕かれた。河合はハッと目を覚まし、声のした方を見た。抱っこひもを着けた若い母親が、急にぐずりだした赤ん坊を両手で抱えて、右へ左へと揺らしてあやしている。しかし赤子は一向に泣き止む気配がない。それどころか泣き声のボリュームは増すばかりだ。次第に、周囲の乗客たちの冷たい視線が母子に集まってくる。河合の視線もその中にまぎれこんでいたが、彼の視線の温度は周囲と違っていた。
(赤ちゃん、かわいい……)
熱視線。そう、河合好輝はその見てくれに似合わぬ、無類の「かわいいもの好き」なのである。
「オギャア! オギャア!」
(泣いてもかわいい、大きな声も元気でかわいい)
赤ん坊は泣くのが仕事。どうして泣くのかと問えば、自分ではどうしようもないから、周りの大人に助けを求めているのだ。
(そこがまた素直でかわいい)
大きな頭に短い手足。愛らしいフォルムが大人に保護してもらうための処世術だと理屈では分かっていても、それが次代の種を守る生物としての本能である以上、「かわいい」の感情に逆らうことはできないのだ。
(……と思っていたのだが、世の中、そうではない人が多いらしい)
いつまでも泣き止まぬ赤ん坊に冷たい視線を送る人々を見てそう思った。どうして皆、本能に逆らえるのだろうか……と河合は不思議だったが、今思い返してみれば、彼が育った家庭環境は少々特殊であった。
※ ※ ※
「あっ、かわいい!」
居間のテーブルを布巾で拭きながらテレビを見ていた父が、台所で夕飯の支度をする母と、それを手伝っていた中学生の好輝に聞こえるように言った。テレビには、子猫が映っていた。
「わ〜、かわいいねえ!」
混ぜていたカレーの火を止めて、母がニコニコしながらテレビの前にやってくる。
「好輝! ほら子猫! かわいい!」
普通、男子中学生といえば反抗期の真っ只中であるが、彼の場合は。
「かわいい……!!」
親子三人揃って、テレビの中でコロコロと転がる可愛らしい子猫の姿に夢中である。そして番組が次のコーナーに移ると、「ああ、かわいかった」と、また何事も無かったかのように三人は夕飯の支度に戻るのだった。
遺伝、本能、教育……果たして何が今の彼を作り上げたのかはハッキリとしないが、「かわいいもの大好きおじさん」はこうして生まれ、育ったのである。
※ ※ ※
「オギャア! オギャア!」
撫でても揺らしても泣き止まぬ赤ん坊に、一段と周囲の目が厳しくなってくる。しかし、お腹が空いたでもなくお漏らしをしたわけでもなく、なんだかよく分からんが機嫌が悪くて泣くというのは、赤子にはよくあることだ。そのことで小さな子供を責めるのは、文字通り大人気がないというものである。
(…………うーん)
その様子を河合は横目でチラチラと見ていた。早く泣き止ませなければと焦っている母親にとっては、集まった視線の数だけプレッシャーが増す。だから気付かれないようにしなければならない。
「よしよし……」
母親が赤子を深く抱えて、ポンポンと背中を叩く。母親の背中越しに赤ん坊の顔が見えた。母に視線を感じさせず、赤ん坊にコンタクトを取れるチャンスだ。河合はすかさず手提げ鞄の中からうちわを取り出すと、顔をその後ろに隠しながら、うちわの柄の根本に集まっている骨組みを爪でザラザラとかき鳴らした。
「オギャア! オギャ……」
不意に聞こえてきた異質な音の出処に赤ん坊の意識が集まった。どうして泣いているのか自分でもよく分かっていない時は、こうやって別の何かで興味を惹くと、今まで泣いていた理由をサラッと忘れて、すんなり泣き止むことがあるのだ。
(今だ)
すかさず、うちわの後ろからバア、と顔を出す。不意を突いた「いないいないばあ」は、いつの時代も普遍的に打率が高い。すると、赤ん坊の柔らかそうな頬にえくぼが見えた。
(あっ、かわいい……!)
思わず、河合もつられて笑う。泣くのも笑うのも、赤ん坊は正直だ。表裏がない本物の笑顔だから、笑ってくれると本当に嬉しくなる。
(ああ、かわいいなあ……)
しかし、河合に向けられていたのは笑顔だけではなかった。赤ん坊の隣から、振り返った母親の冷たい視線が彼に刺さっていた。
(……またやってしまった)
そっと赤ん坊から視線を外して下を向く。仕方のないことだ。だって、大切な我が子に近付く不審者から身を守ってやることが母の仕事なのだから。
河合は思った。
ああ、早くお爺ちゃんにならないかなぁ。そうしたら、赤ちゃんに優しくしても怒られないのに、と。
※ ※ ※
ある冬の日。
河合は仕事帰りに駅地下の専門店街に立ち寄っていた。サラリーマンであふれる地下一階のレストラン街を素通りしてニ階へ降りると、客層が一気に変わった。化粧品、手芸用品、洋服……目移りしながらウィンドウショッピングを楽しむ女性たちの間から、文字通り頭ひとつ飛び出した河合が向かったのは、パステルカラーの看板が目を惹くファンシーなキャラクターショップだった。
「これカワイイ〜!」
「え〜カワイイ!」
店頭に飾られたぬいぐるみに率直な感想を述べる女子高生たち。河合は、いつもの仏頂面でそのぬいぐるみを一瞥した。
(かわいいいいい〜〜かわいいかわいいかわいい!)
……と心の中で叫んでいるが口には出せないし、人目を引くのであまり長時間見ているわけにもいかない。歩みを止めずに店内へと向かう。
(どれもかわいいな……)
ぬいぐるみ、コレクションフィギュア、マグカップにタオルに歯ブラシセット……人気アニメやゲームのキャラクターがあしらわれたかわいいグッズたち。こうして眺めているだけで幸せになるのだから、家に置いておけば、さぞ生活に潤いが増すことだろう。
(でも、置けないな)
こういうものは、一つ買えばもう一つ、また一つと際限なく増えていく。部屋が可愛らしいぬいぐるみたちで埋まったおじさんの賃貸部屋。ひとりで楽しむぶんには問題ないが、定期的な設備点検や急な配管工事などで見知らぬ人を中に入れることを考えると、やはり躊躇われる。また、それ以前に商品の大半が彼をターゲットとしていないという問題もあった。可愛らしいキャラクターの描かれたランチボックスを職場で広げるわけにはいかないし、その小さな容量でお腹は満たされない。珍しく大人向けに作られたという柄物のネクタイも、彼の強面とは食い合わせが悪かった。
(まあ、こうしてお店で眺めているだけでも癒やされるから……)
そう言い聞かせながら店内をぐるぐると回る。……と、棚の上にとある商品を見つけた。来年の卓上カレンダーである。
(これはいいな……。もし誰か家に来てもすぐに片付けられるし、一年中かわいいいイラストを眺めていられるもんな)
全部で三種類。どれにしようかと眺めていると、三歳くらいの女の子を連れたお母さんが近付いてきた。河合はいったんその売り場を離れてまた店内をぐるりと回り、親子が去るのを確認してから戻ってきた。
(よし、これにしよう)
キャラクターが一番大きく描かれたカレンダーを選んで手に取り、レジへ……向かおうと思ったが、先客が三人も並んでいたので、カレンダーを持ったまま、また店内をぐるりと回って時間を潰す。実際、彼のような客が並んでいても誰も気にしたりはしない。しかし、本人はそこに場違いさや居心地の悪さを感じてしまうのだった。
(よし、今だ)
誰も並んでいないタイミングを見計らって、すかさずレジへ。店員のお姉さんにカレンダーを手渡し、すばやく財布を取り出す。
「プレゼント用の包装をいたしますか?」
「えっ……」
クリスマスの迫ったこの時期、小さな娘がいてもおかしくない年齢の男がファンシーグッズを買いにくるとなれば、その質問は至極当然のものであった。
「え、あの、いえ……いりません」
「かしこまりました」
恐らく、彼のような客にも慣れているのだろう。店員の分け隔てない笑顔に河合は救われた。もしここで申し訳なさそうな顔でもされたら、それこそ心に傷を負っていたに違いない。彼女から、かわいい袋に入った、かわいいカレンダーを受け取る。
(帰ったら、どこに飾ろうかな)
ウキウキしながら家路につく。
この世界は、彼が思っているよりは優しいのかもしれない。
-おしまい-
かわいいものおじさん(小説) 権俵権助(ごんだわら ごんすけ) @GONDAWARA
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