第16話

 きょうも、私は真佑といつもの公園のベンチに腰かけていた。

 真佑は、いつもは持っていない黒い鞄をその横に置いた。中からおもむろに取り出したのは一冊のノートだった。

「それは」

「妹との交換日記。一季が入院し始めたころ、売店で買ったんだ。少しでも彼女の気持ちが知りたくて」

 私はそれを受け取ると、その場で読んだ。

「真佑、あなたはどうしたいの」

 読み終わってから、私はかれにそう問いかけた。

 日記の最期のページにはたった三行だけが残されていた。


 〈 誰がなんと言おうと

   私は私のために生きました。

   あなたは、あなたのために生きてください。 〉


「あるとき、妹が言った言葉がね」

 遠くを見つめるかれの視線を追いかける。

「遊園地に行ってみたかったなぁって。一度でいいから好きなひとと」

 遊園地。それは知り合ったころのかれとはとても結び着かない言葉だった。

「なんでもない、ただこんなふうに二人でこの公園のベンチで休憩していたとき、言ったんだ」

 真佑の視線の先、その遠くに豆粒ぐらいの大きさの観覧車が見えた。

「だからこの日記を僕は信じない」

 たしかに、別れの言葉にしては、潔さが足りない気がする。

「こんな悔いはないみたいな書き方、僕は信じない」

 強く、目が、輝いていた。真佑のその瞳の奥にあるものを全部引き剥がして抱きしめたかった。

「僕と初めて会った時のこと、覚えてる」

「それは、もちろん」

「そっか、でもきっと僕の知ってる初めてと、希和さんの知ってる初めては違うよ」

 真佑が何を言ってるのかわからなかった。

「希和さんに会ったとき、救われたのは僕の方なんだ」

 いつも乾いていた真佑の目が潤む。

「僕が片割れを失って生きる希望を失ったとき、目の前で全く別の感情を見たんだ」

 真佑は私と初めて会ったときのことを、大事そうにゆっくり語り出す。そうして私は、忘れていた大事な記憶を思い出す。

 

 僕は当て所なく道を歩いていた。ずっと下を向いていたから、いま自分がどこの道を歩いているかわからなかった。このままふらふらとそぞろ歩いているあいだに車にでも轢かれてしまえばいいと思った。そんなとき、目の前を走ってくる女性が見えた。彼女はなぜかしら同じ場所を何度も確認していた。必死に、なくしてしまった大事なものを探している。少なくとも僕にはそう見えた。悲しみも喜びも、一切合切同じ、一つ一つの感情で、別々の強い想いを抱えている。そんなことを考えた。同じ時間に同じ場所で、けれど全く違う想いを強く放つその人に僕は目を奪われた。

「もう、どこにいるの。隠れてないで出てきてよ」

 声は裏返っていて、逃げ出した飼い猫を探すにしては大げさだ。

「あの、一緒に探しましょうか」

 僕は彼女にそう尋ねた。

「あ、いいの」

 もう、見つからないから。

 そう言って彼女は息を吐きながらゆっくりとしゃがんだ。両膝の前で重ねた手が寒さでかじかんだのか震えていた。僕は探している猫になぜかしら嫉妬さえ覚えた。

「ここにマフラーしてる人歩いて来なかった」

「マフラー」

「探してるの、人を」

 独り言のような小さな声。なのに切実な響きをしていた。

「人ですか」

 なぜ、猫だと思い込んだのだろう。

「うん、私の好きな人」

「何色のマフラーですか」

 一応訊いてみる。いまの季節マフラーをしている人なんてヒントにもならない。

「何色だったかなんて、もうわかんないよ。ただ私の知らない、全然知らないマフラーだったの」

 彼女は子供のように自分のコートの裾を掴み、棒立ちのまま泣きそうになっていた。

 そのとき思った。

 僕は、恋を知らなかった。

 こんな風に誰かを必死に探したり、夢中になったことなんてなかった。ただ、誰かの心の穴に入って紛らわして、甘やかして、埋めて、けれどその献身は対価があってのことだった。本物じゃない。

 彼女は白いため息を吐いて、また僕の知らない背中を宙に探す。

 僕の知らない本物の恋が、目の前にあった。


「そんな、私、全然知らなかった」

 あの日、あのとき、かれと別れてすぐ真佑と出会っていたなんて。

「あなたにもう一度会えたとき、それが仕事という形であれなんであれ、運命だと思いました」

 かれは少し大人びた声色を出してみせる。

「僕と遊園地に行って欲しい」

 一拍おいて、真佑は真剣な顔で言った。

「ふふ」

「笑わないでよ」

 私はそれ以上なにも言わず、ただかれの顔を見つめていた。私の元を去った恋人とは全然違う。それでも男らしい表情を必死に作ってくれているようで面白かった。

 夕方の遊園地は、まるで非日常の世界そのものだった。かすかに残る日差しのなかで、アトラクションやキャラクターたちがまだ眠れないまま光を宿していた。

 かれが指差した先にあったのはメリーゴーランドだった。私はそのなかの斜陽できらりと光る白馬を選び跨る。係員のアナウンスに続いて陽気な音楽が流れると、世界がぐるぐると回転しながら揺れ始めた。屋根の外の景色が、隣の馬に乗る真佑の笑顔が、私のなかに闖入してくる。回転に合わせて外の色たちが視界を駆け巡った。カラフルなリボンが絡め取られ私の跨っている白馬に張りつくようだ。視界の中心では、真佑の長いまつげが風に揺れる。その目に見えているのは同じ景色なのだろうか。

 黄昏時に他の人たちがするのと同じように、真佑は小さく欠伸をした。まるで幼い子供のようなあどけない、きっとまだだれにも見せていない顔。手を伸ばして、ずっと触りたかったその頬を触ると、生まれたての雫で濡れた肌がほんのりと温かかった。

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エスカルゴの涙 くもさき @kumosaki555

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