第13話

 その日も、いつもの二人だけの優しい時間になるはずだった。

「希和さんはここで待っていて」

 電話を一本もらったあと、そう言って飛び出していく真佑を私が追わずにいるわけにはいかなかった。

 真佑が飛び乗ったタクシーが着いたのは、廃墟のように寂れた工場跡地だった。

「来たら駄目だよ」

 真佑はとっくに私の尾行に気がついていたようで、何度もそう繰り返した。けれど、私が折れないのでしぶしぶ同行を許可した。

 廃工場の奥に入っていくと、これはピアノ、いやオルガンかもしれない、だれかが楽器を演奏する音に混じって、呻き声のようなものが聞こえてきた。

「来たか」

 なにかどす黒い塊を咀嚼するような嫌な声がした。声のする方の扉を開くと、何十人だろう、何もない部屋に裸の人間が敷き詰められていた。四方には大げさなほど大きなカメラが設置されていて、何台かドローンも飛行していた。そんななか人間たちは冷たいコンクリートの上で抱き合っていた。なにか、人とは違う生き物の養殖を行っている施設のようだと思った。

 遅れて、私はそのなかに藤岡がいるのを見つけた。遠くからでよく見えないけれど、眼鏡をかけた痩せた女とその場でつながっているようだった。

「藤岡」

 私の呼びかけは無数の喘ぎ声にかき消される。藤岡はこんな状況にも関わらず、ひどく優しい顔をしていた。まさか、相手の女を愛しているのだろうか。

「かれらはつがいだ」

 裸の群衆の奥で男の声がする。一人だけ服を来たそれは、スーツの上にコートを着て、顔には白いドーランを塗っていた。まるで舞台に出てくる怪人だ。

「そしておまえたちが最後の招待客だ」

 男は異様に長い手を前に突き出す。

「さぁ、お前もおれに愛を見せてみろ」

 愛という言葉はその男に一番似つかわしくない言葉だった。

 真佑がふとカメラを睨むと、男は丁寧に説明した。

「ああ、カメラがあると緊張するタイプかね。これは安い慰安映像ではない。愛するもの同士の営みを同時に撮した芸術作品だよ」

 裸の男女は互いに慣れた手つきで求め合っている。自らの技術を駆使するわけではなく、それは互いをパートナーとして知っているからこそできる愛撫だった。この有象無象は全くの他人同士の寄せ集めではないのだ。男はつがいといったが、その蠢く姿はむしろ鳥よりも蟲に似ている。

「なんだ、お気に召したならきみたちもすればいい。仲間に入ったら楽じゃないか」

 男は、本来の冷徹な雰囲気からは考えられないほど、高揚するように両手を広げた。

 私はやっと気づく。かれが真佑の言っていたカラバリという男だということに。

「何のためにこんな馬鹿なことをする」

 真佑はいつもより少し低い声を怪人にぶつける。

「欲望は皆に平等に与えられている。しかし、それを発散できるかどうかは、環境が支配している。おれは自分のなかから消された性欲というものを、より近くで感じることで補填したいのだ。それが他人の持つ欲望であっても」

「そんなことのために」

「そんなことだと、これだけがおれの望みだ」

「おまえは間違ってる」

 真佑は憤りを隠せない、こんなに感情を剥き出しにするのは初めて見た。

「だれかを殺してまで、叶えなきゃいけない欲望なんて捨てるべきだ」

 真佑がだれかを否定するようなことを言うのを初めて見た。カラバリの理屈は、一季を殺すに値するものだったのか。そんなこと、真佑には考えてみるまでもないことだったのだろう。それからかれらは数秒睨み合ったあと、急に冷めたように真佑は続けた。

「お前は可哀想だ」

「そうだ、話がわかるな。私は可哀想なやつなんだ」

「違う、僕の可哀想とお前の可哀想は違う」

 真佑は蟲たちの間を一歩一歩すり抜け進む。にじり寄った先にいる男の、尖った襟首を細い腕で掴む。

「何の真似だ」

 細長い指を絡みつかせながらその腕を掴むカラバリを、次の瞬間真佑は背負い投げの要領で宙に投げた。

 うっ、と地面に頭をぶつけ、男は唸った。額から血が流れているのがこの距離からでもはっきりわかる。

「やっぱりお前は許されない」

 いまやカラバリは地面に這い蹲ることしかできなかった。真佑の思っていることを想像すると私は恐ろしくなった。いまなら、真佑はこの男を殺すことさえできると思った。頭を抱えるカラバリ、その血走った目は相変わらず焦点が合わずどこを見ているかわからない。

「真佑」

 私は思わずかれの名を呼んだ。

「駄目だよ。こんな人のためにあなたが」

「希和さんは帰ってください」

 真佑は絞りだすようにいつもと同じ男の子にしては高く、甘い声を出す。

「このまま後ろを向いてまっすぐ」

 こんな姿見せたくなかった。もう見ないでほしい。そんな本心。かれのいままでずっと探してきた本心がこんなときになって手に取るようにわかる。

 真佑の拳が男の頬を嬲った三回目のことだった。かれのその拳は一回り大きな掌に収められていた。

「所詮きみは人を癒すための人形だろう。こんなもので私は殺せやしない」

 腕を捻りあげられ、今度は真佑の方が悲鳴をあげる。

「私は痛みも感じにくいからだでね」

 真佑は腹の辺りに蹴りを入れられ、コンクリートの壁まで一気に飛ばされる。

「私はきみの妹を殺したわけではない。彼女は運がよかった。自分の望みを叶えた直後に死ねるなんて。きみの父親もそうだ、そう、かれは全て持っていた。私にないもの全て。けれどかれは死に、きみたちが残った。初めて見たとき思ったよ。きみたちなら私の側に賛同し、同じ苦しみを共有できるんじゃないかとね」

 男はオルガンの後ろに回ると、なにかを拾い上げた。一メートルはありそうな鉄パイプだった。真佑はぐったりと壁にもたれたままだ。

「やめて」

 声が掠れて出なかった。真佑が死ぬ。そう思っているのにその唐突な畏怖の感情に足が竦んだ。

 けれど、次の瞬間、思い切り蹴られ飛ばされたのはカラバリの方だった。

 カラバリのいた場所に白いニットを着た背中があった。

「利人さん、なんであなたが」

 真佑は驚いたようにかれを見ていた。

「真佑、これは贖罪なんだ」

 利人と呼ばれた男の拳がカラバリのみぞおちに入り、血反吐が地面に垂れる。カラバリはさらに続く一撃の重さに再び膝を崩し、もはや声も出せない。

「もうやめてください」

 よろよろと立ち上がった真佑は、にじり寄った先にいる男の背中を抱きしめる。

「知ってました、あなたがあのときの人だって」

 真佑の言葉にようやく利人も静止した。

「知っててあなたについていこうと思ったんです」

 真佑は叫んでいた。

「僕は人がしようと思ったこと、それでもできなかったこと、してしまった取り返しのつかないこと、その全部に味方でありたかった」

 そうか、真佑にとって善人も悪人も関係ない、人間全部を肯定したかった。だからこの仕事を続けてきたんだ。私はどこか腑に落ちると同時に胸が苦しくなる。

 ゆらゆらと陽炎が揺らめくように近づいた真佑は、体制を崩したままのカラバリの頭を優しく持ち上げる。

「お前と僕は同じだ」

「それはなんだ、同情か」

 血を顎に垂らしながらカラバリが吠える。

「そんなんじゃない。お前も僕も、歪みを否定して正そうだなんてしなかった。ただその歪みに寄り添ってあげたかった」

 真佑はカラバリの頭をそっと小さな胸に抱きしめる。

「やめろ」

 血の気のない痩けた頬が静かに震えている。抱きしめる真佑の手に白いドーランが付着するのを見ると、なにかその男の狂気の印が剥がれ落ち、吸い取られているように思えた。

「私をそんな目で見るな」

「同じなんだ」

 抵抗もできないほど弱ったカラバリに、真佑は優しく眼差しをくれる。私はその怪人に、かれの知らない涙の流し方を教えてあげたかった。

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