第10話

 利人さんに直接呼び出されたのはその日が初めてだった。

「この日、空いてますか」

 丁寧な口調でかれは誘った。リピーターも付いて、もうコールセンターの仕事を辞めてしまっていたおれに、その誘いを断る要素は何もなかった。

 いつものバー、小太りのマスターがグラスを磨く向かいの席で、利人さんは待っていた。

「すみません、先に着いてたんですね」

「早く来てマスターと話をしていただけだよ。気にしなくていい」

 そう言って微笑を漏らすかれは座っていても背が高く見えた。おれも背は高い方だが、かれは高いだけでなく引き締まったからだつきでおれより一回りは大きく見える。

「マスター、ジントニックを二つ頼むよ」

 このひとがあまり強い酒を選ばなかったことに、なぜか自分がまだ半人前だと思い知らされるような心地がする。

「仕事はどうだい」

 突然聞かれ、おれは最近の仕事のことを思い返す。リストカットの跡が痛々しかった女子大生、何年ぶりかの水族館デートをした未亡人。自分の客たちの中でも印象に残る女性は何人かいた。

「リストバンドをあげたそうだね」

 そんなことまで知っているのか、とぎくりとする。

「店に今朝連絡があってね、彼女喜んでいたよ。もう卒業かもしれないな」

「卒業、というと」

「もうきみや他の男を呼ぶこともなくなるということだよ」

「おれ、勝手に顧客を減らすようなことしてたんですか」

 咄嗟に出た言葉だった。

「逆だよ。目的達成だ。きみたちはただの娼夫じゃない。ヒーラーなんだ」

「誰かを救うのが仕事」

「そうだ」

 利人さんは頷く。

「あの、この間の人とも、あれでよかったのかなって」

 あの未亡人とはただ一緒に水族館で魚を見ながら話を聞いていただけだ。この魚はこんな生態があるとか、そんなたわいのない話。

「それでいいんだよ」

 利人さんは温和な眼差しでおれを讃える。

「それともきみは、ほかに何か気になることでもあるのか」

 このひとにはなんでもお見通しなのだろう。

「じゃあ真佑は、あいつはどうやったら救われるんですか」

 真佑は、おれをこの世界に呼んだかれは、他人を救うことばかり考えて、まだ自分が救われていない。そんな気がしてならなかった。

「かれは特別だ」

「特別。なにが特別なんですか」

「うん、きみになら話してみてもいいかもしれない」

 なにか厭な予感がした。自分の唾を飲み込む音がやけに大袈裟に聞こえる。

「真佑、いやかれら双子は、目の前で両親を殺されたんだ」

 利人さんは表情を変えないまま続けた。

 当時その家族が住んでいた家に、荷物の配達業者と偽り男が押し入った。近所のスーパーで購入した出刃庖丁で、男はその家の夫婦を何十箇所も刺した。最初に玄関に出て行ってしまったのだろう。後の供述で犯人は強盗目的だったと語ったが女性の遺体には強姦の後もあった。当時、俺は近くに住んでいて、偶然にも犯行が行われた時間帯に家の前を歩いていた。怒号と悲鳴が重なるような、そんな異音に気付いた俺は、すぐに警察に電話をしてからその家の玄関に近づいた。急に中が静まり返ったので、恐ろしくなったが、鍵が開いているのを確認すると思い切って中に飛び込んだ。

 それまで、あれほど静謐な時間をおれは知らなかった。玄関とその先のリビングに転がる男女の遺体からは真新しい血の池が広がっていた。そしてそれを見下ろすように男が立っていた。返り血で汚れた紺のスウェットを着た男は顔面蒼白で、わなわなと震えていた。ここまでのことをするつもりじゃなかった、とでも言いたそうな顔だった。その男に向かい合うように、キッチンの前に立つ子供たちの姿があった。五歳ぐらいの、美しい双子の子供だった。二人は手を繋いで、ただ男の方を見ていた。男の贖罪を待つでもなく、かといって罪を許すわけでもなく、ただ四つの目は眼差しをくれていた。

「なんだ、その目。おまえら、怖くないのか」

 男の方が動揺しているようだった。それもそのはずだ。あまりにも双子は感情を見せなかった。まるでかれらは、善悪の、その先を見つめているようだった。

 俺はどうしていいかわからなかった。いや、男と同じように震えていたのかもしれない。気がつけば、男は仁王立ちの俺を素通りして家を出て行ってしまった。

「当時まだこの仕事を始めたばかりだった。ただ仕事として女性を抱くだけではなく、その先にあるなにか、それを模索していたころ俺はあの双子に出会った」

 沈黙を破るようにおれが先を促すとかれはいつもの余裕のある表情とは全く逆の畏怖の表情を見せた。

「犯人の男は後に近くの港で水死体が上がり、自殺したようだった。それでも俺は自分があのとき動けなかったことを悔いた。強盗目的の突発的な殺人として、事件は新聞の隅に小さく載っただけだった。ニュースもすぐに芸能人の不倫の話題に変わった。事件後には、ただ両親を失った双子だけが残された」

「利人さんは関係ない。ただ巻き込まれただけじゃないですか」

「そう俺も自分に言い聞かせた。でも、どうしても気になって、その双子のことを調べた。都内の児童施設のなかに、そういった事件で傷ついてしまった子供たちの心をケアする為の場所があった。親戚たちが二人を拒んだこともあり、かれらはそこに引き取られた。けれど、施設にいる間、俺もかれらと会わせてもらうことなどできなかった。十年後、ようやく施設から出たかれらと会った。まさか、長年かけて待ったその子供たちが自分と同業種になっているとは思いもしなかった。性の悪い男に飼われるようにしていたかれらを、俺はすぐに引き取った。けれど、それも今思えばエゴだったのかもしれない。かれらはただ流れるようにして自分の元に居ついた。はずだった。妹の一季は前の斡旋業者の男と切れておらず、間もなく性病で死んだ」

「利人さん」

 勝手に口が動いていた。

「俺はなにもしてやれなかった」

「そんなことないですよ」

「最初から、俺がかれらを普通の世界に戻してやるべきだった」

「普通ってなんですか」

 おれは拳を強く握った。

「じゃあおれたちがいましていることは間違っているんですか」

「そうではない。ただ」

「ただ、なんですか、真佑は多数決を取るような正義を信じない。ただ人に優しく、愛を配ることができる。それだけで充分だって、最近おれも思うんです」

「そうだな」

「そうですよ」

「嬉しいよ。きみはかれのよき理解者だ」

「そんなんじゃないです。おれはただの友達です」

 店を出るとき、利人さんは何度かおれの肩をぽんと叩いた。二人して白い息を吐きながら別れの挨拶を交わすと、とても仲の良い兄弟のように笑いかけてくれた。


 先にタクシーを拾う利人さんを見送ったおれは、なんとなくもう少し飲みたくなってさっきまでいたバーに戻った。すると利人さんの居た席に、今度は一回り小さい見知った肩があった。

「真佑、どうしたんだ。寂しそうな顔して」

「きょう、命日なんです。妹の」

 レッドアイの入ったグラスをくるくると回しながら真佑はそう呟いた。

「そうか」

 いつになく、単刀直入に話すかれの態度におれは驚く。

 同じ顔の人間が死んだ日。それはどんな気分なのだろうか。席を少し近づけながらその俯く顔を覗き込む。こいつも、本当はか弱い少年のままなのかもしれない。そんな想いが胸を締め付けた。おれはどういう気持ちでかれを好きなのかわからなくなる。けれど、そんなことはどうでもよかった。

「きょうは一人でいたくなかったんだな」

 おれが笑いかけると、にこりと笑い返す。

 この美しい男に一人が似合う人になどなって欲しくなかった。

 二人で何時間飲んだのだろうか。気付くと、真佑はおれの部屋で眠っていた。シングルベッドでも、女のように華奢で小柄な真佑と寝るにはちょうどいい広さに思えた。

 小さな寝息を立てている頬を指先でそっと撫でる。弟がいたらこんな感じかな、とおれは一人想像する。

「きれいな顔だな」

 おれはその顔をもっと近くで見たいと、どんどん近づく。鼻先が当たるぐらいに近づくと、かれが起きてしまった。

「あ、ごめん、起こしたな」

 そう言うと、真佑は潤んだ目をおれに向けながら、ゆっくりとおれの腰を抱いた。

「お、おい」

 おれは凄い力で引っ張られると倒れこむように真佑を抱きしめる格好になった。しばらくそうしていなくても、互いの腹の辺りに熱い感触があるのがわかった。ベルトを緩め、露出させたはいいものの、おれはそこからどうしていいか分からず硬直した。

 真佑は寝ぼけたような眼差しでそのいきり勃ったものを見つめ、細い指を這わせた。

一瞬で感度が増すのがわかる。そうか、こいつほどになればべつに男と寝ていてもなんら不思議はないのだ。そう思うと悲しくなった。真佑は音も立てずにおれのペニスを咥えた。かれの柔らかい髪の毛をぐしゃりと握り締めると、押し付けるように腰を動かす。絶頂までの時間はあまりにも短く、また満足げに眠りについたかれの寝顔を、おれは眺めるしかなかった。

「なぁ、真佑。お前なら知ってるかと思ったけど知るわけないか」

 真佑は寝ているようで聞いてくれている。そんな気がした。

「おれの彼女さ、失踪したんだ」

 おれはずっと探していた。だからこそ、この世界に入った。絵美の最後の目撃情報で、彼女が歩いていたのは歓楽街の風俗店しか並んでいない通りだった。

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