第9話

 もう一度、死神が僕らの前に現れたのは、僕らがすっかりヒーラーとして慣れてきた頃だった。

 僕は仕事帰りに、町であの寂れた背広を着た男を見つけた。奴は顔に白いドーランを塗っていて、以前にも増して怪人じみていた。こっそり後をつけることにした僕は、裏路地をずっと進んでいった。すると、アパートの一室に、ぞろぞろと十人ほどの男たちが入っていくのが見えた。そして次の瞬間、驚いたことに見知った少女がそれに習った。一季だった。

 僕は恐ろしくなって声も出なかった。そこから動くことさえ難しく、ただ息を切らしていると、いつの間にか後ろにあの男が立っていた。

「おや、片割れがここにいるとは」

 耳元で囁かれると怖気がした。

「妹に何をさせている」

 そんなこと、ほんとうは聞くまでもなかった。

「知りたいか、ならついてこい」

 僕は闇に誘われるように、一季と男たちのいる部屋の隣の部屋に入った。そこは、四方を漆黒のカーテンで覆った薄気味悪い部屋だった。幸いにも、隣室からはなにも聞こえてこない。

 見れば、赤いビロードの絨毯に寝そべり、カラバリはなにやらひたすらに、右手に持った長い針状のもので黒い穴の空いた皿を突いていた。

「なんですか、それ」

 僕は自分が知らぬ間に敬語に戻っていることに気づきもしなかった。

「エスカルゴだ、初めて見るかね」

 その皿にはたこ焼き機のような穴がいくつも空いていて、そのなかには脂ぎった塊が詰められていた。それをじゅるりと厭な音を立てながらカラバリは啜った。

「右側のカーテンを開けてごらん」

 僕は激しく波打つ鼓動を必死に抑えようとしながら、その通りにした。すると、そこはマジックミラーになっていてこちらから隣の部屋が丸見えになっていた。

 中年の巨漢、若い金髪の男、ひどく小柄な薄汚い男。歳も外見もばらばらな男たちがとってかわって彼女を犯していた。

「一季」

 僕はたまらず声をあげた。

「この世には呑み込む側と呑み込まれる側。その二つしかない。それは生まれながらに決まっている。おまえたちはいつだって呑み込まれる側だ」

 穴だらけになった黒い皿を頭の上で傾け、その汁を飲み干しながらカラバリは続ける。

「欠落しているんだろう。おまえも」

 忘れていたと思っていた感情が、憎しみを引き金に体内に戻ってくる。

「私やおまえのような人間は幸せにはなれない。もがいてもこのエスカルゴのように、針で串刺しにされだれかに呑み込まれる」

 裸の男たちの影から、一季のからだが覗く。なにがあったのか、右の乳房から少し血が流れている。そして、彼女の顔がはっきり見えた。笑っている。いつもの一季の笑顔のままだ。快感ではなく、ただだれかに求められるという喜びを彼女は噛みしめている。

それは長年共にいたからこそわかる、悲しい確信だった。

「幸せにはなれんよ」

 よりいっそう低い声で、カラバリは囁いた。

 それからも一季は影でカラバリの怪しい仕事を引き受けているようだった。僕はあろうことか、それに対し見て見ぬフリをした。何もかもがどうでもよくなっていた。

 一季は、次第にいくつもの病を持ち、日に日に弱っていった。それを僕は仕方ないと内心思っていた。それが彼女の性癖であり運命だと思おうとした。けれど、実際一季が倒れ、白い病室で、病院の壁よりもさらに白い彼女の顔を見ていると、僕は自責の念に責め立てられた。

「あっ真佑、来てくれたの」

 そこでも彼女は僕に会うと相変わらず嬉しそうな顔をしていた。

「そうだよ、君が喜ぶなら何度でも来るよ」

 僕はそういうしかなかった。

 彼女の手を取ると、そこには僅かな体温があるだけで、まるでネジが巻かれていないからくり人形のように軽く無機質だった。

「見て、真佑。きれいでしょ」

 彼女が見せた手の甲には星の形をした赤斑があった。握りしめようと伸ばしかけたもう片方の手が途中で止まった。宙で止まってしまった僕の手は、ぴたりと、それきり動こうとしなかった。僕は彼女をもう一度抱きたいとさえ思えなかったのだ。どんなに彼女の顔を見返しても、もう熱情は湧きおこらず、燻んだ愛だけはこれ以上こぼれおちていかないようにと、必死に耐えていた。

 僕は卑怯者だ。あんなに一緒に生きようと約束したのに、彼女を救ってやることも、抱いてやることもできず、ただ自分の死を遠ざけるために僅かな愛をも犠牲にしようとしている。涙さえ出なかった。自分は、彼女のために泣いてやることも許されないのだ。そう思えた。

 最期の見舞いのとき、彼女は静かに笑った。

「真佑。私はあなたのなかでこれからもっと逞しく毎日を生きると思うの」

 そうこぼした彼女はまだ、美しさを保っていた。僕はもう二度と彼女と、妹と交わる事はないのだと思うと、胸が張り裂けそうだった。そう自分自身の意識が決めていたことに腹を立てた。僕は彼女のような献身の権化にはなり得なかった。とうとう、誰をも癒すことなく朽ち果てるのかと、恐ろしくなった。僕は生きたかった。圧倒的に生きていたかった。だからこそ彼女を見捨てた。その瞬間から、自分の境遇を恨むことをもうやめた。僕は解き放たれた。二つの足は子鹿のように震え、立っているのもやっとだった。ただ、あるのは生への喜びと、生きるという業を背負わされたという慢心。たったそれだけ。

 

「希和さん、見せたいものがあるんだ」

 話が終わると、真佑はそう言って私の手を引いた。

「どこに連れて行くの」

「僕と一季が最後に一緒に暮らした部屋」

 真佑は私の手をもう一度強く握り、歩を進めた。

 それは歓楽街を外れた商業ビルの間に挟まるようにして建っていた。四階の一番奥までくると真佑は立ち止まった。

「ここだよ」

 入ると、玄関を開けてすぐに一つの小さな部屋があった。

 部屋の四隅には直径三十センチほどのプラネタリウムが置かれていた。それが怪しく輝き、天井に星々を生んでいた。四つのプラネタリウムはそれぞれ映像を重ねたように、星の数を増やす役割を担っているようだった。

「この場所だけが本当に僕らの愛すべきものだった」

 真佑はその星々を睨むように天井を見上げる。

「そう思っていたけど、違った。彼女はこの星一つ一つを大切に思っていて、だれよりもそれを輝かせたかったんだ」

 重なった星は、きらめきの残像を抱えて揺れていた。それは、まるで町の人々の心の一瞬のきらめきにも似ていて、同時に途方もない欲望の形にも見える。

 強く、けれど儚く散ったかれの妹、彼女の残した仕事を真佑は引き継いだ。性器だけが異なるそのちっぽけなからだに、他人の愛も憎しみも悲しみも、その全てを受け止めようとしている。

「真佑」

 私はたまらずかれの頬を撫でるように手を差し出した。すると、その指先にぽつり、ぽつりとこぼれる雫があった。いや、違う。これはそういう気配。涙の気配がしただけのことだった。実際にはプラネタリウムの反射で星が手の甲に写り込んだだけだった。

「希和さんにも会わせたかったな」

 私はかれのその薄い胸を引き寄せ、抱きしめる。」

「うん、会ってみたかった。けど、もしかしたらもう会ってるのかも」

 真佑は不思議そうな目で私を見上げる。ヒールを履いていなくとも、私の方が背が高い。ああ、ほんとうに。まだ小さい子供のようだ。

「あなたを見ているとね、ときどき女の子の影を感じていたの。それはね真佑。あなたが妹さんをいつも忘れずにいるからよ。あなたたちは生きている。ここにたしかに一緒にいる」

 私は半ば大げさなことをかれに言ってしまった。けれど、本当だった。かれのどこか少女のような雰囲気、優しさは、きっとかれらの二つの命が触れ合って生まれたものなのだと思う。

「希和さん」

「うん」

「泣きたい。いま、すごく」

 さっきまで座って天井を見ていたのに、いつの間にか私たちは立ち上がり、部屋の真ん中で抱き合っていた。空へ向けたプラネタリウムの光は遮断され、私たちの顔や服に貼り付いていた。星々を纏った真佑の顔が、目の前で初めて崩れていく。私はかれの生を初めて見たような気がして、その輝きをこの一瞬で終わらせたくないと強く抱きしめた。それでも泣き声は聞こえない。真佑の本物の涙は、もうこの世界にはないのかもしれない。なんとなく、でも確信的にそう思う。

 いつか、この人がちゃんと泣ける日が来るのだろうか。

 かれが流すはずだった美しい雫の代わりに、止めどなく私たちのからだを巡っている星々、その欠片に私は一つ小さな願い事をした。

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